津波犠牲25歳銀行員の命を無駄にしないー企業の防災意識問い続ける両親

「命を守るためには高台へ」と呼び掛ける七十七銀行女川支店行員慰霊碑の言葉

勤労感謝の日の11月23日、東日本大震災の津波で長男健太さん(当時25歳)を亡くした田村孝行さん(55歳)、弘美さん(53歳)夫妻=宮城県大崎市=の姿が東京・神田の専修大キャンパスにありました。仙台市に本店を置く地銀大手、七十七銀行の行員だった健太さんは専修大出身。宮城県女川町の女川支店に勤務していたときに地震が発生し、支店長の指示で高さ約10メートルの支店屋上に避難しましたが、津波はそれよりはるか上の高さで襲ってきました。13人が流され、1人だけは奇跡的に生還しましたが、支店長や健太さんを含む12人が犠牲になりました。うち8人は今も行方不明です。

健太さんの遺影を前に置き、学生たちに思いを話す田村孝行さんと弘美さん=専修大で
健太さんの遺影を前に置き、学生たちに思いを話す田村孝行さんと弘美さん=専修大で

この日は亡き息子の後輩たちに向けた公開講義でした。「企業はいかにして社員の命を守るべきか」がテーマです。祝日ですから一般の人もかなり来場し、大教室で約350人が聴講しました。夫妻はこう語り掛けました。

「走れば1分もかからない背後に50メートルの高台があったのに、支店長の指示は屋上避難でした。会社の管理下で12人の命が奪われたのに、銀行は『想定外の津波でやむを得なかった』と責任を認めず、防災態勢を検証したり、再発防止に向けた教訓を得ようとしたりする姿勢を見せてくれません。七十七銀行女川支店で起きた惨事を二度と繰り返さないために、企業は防災意識を高めてほしい。これから社会に出る皆さんも、息子の死をわが身に置き換えて、大切な人に涙を流させないよう安全な社会の実現を考えてください」

入行3年目、前途洋々の若手銀行マンでした。小学生から野球一筋。捕手としていつもチームのかなめで活躍し、高校時代は県立ながら夏の甲子園宮城県予選ベスト8まで進出しました。専修大で4年間を過ごし「地元に貢献する仕事がしたい」と七十七銀行を就職先に選びました。仙台で2年間勤務後、漁業の町女川の港に隣接した支店に赴任。融資の仕事を任され、張り切って地元企業を回る日々でした。

遺品の名札やネクタイピン、社章、名刺(田村孝行さん提供)
遺品の名札やネクタイピン、社章、名刺(田村孝行さん提供)

結婚を誓い合った彼女を父さん、母さんに紹介したいと言っていた矢先の2011年3月11日、震災が起きました。両親がようやく女川に入れたのは19日になってからです。どこにも健太さんはいません。捜し続けて半年後の9月26日、3キロ沖の海上で遺体が見つかりました。スーツの上着は脱げてなくなっていましたが、ネクタイやタイピン、ズボン、下着は見覚えのあるものでした。それでも弘美さんは「本当に息子でしょうか」と警察官に尋ねたそうです。残酷な現実をすぐには受け入れられません。後はただ泣き崩れるしかありませんでした。

かさ上げ工事が進む女川の町。右側の窪地付近に七十七銀行の支店があった。
かさ上げ工事が進む女川の町。右側の窪地付近に七十七銀行の支店があった。

どうして高台に避難しなかったのか。支店長はなぜ2階建ての支店屋上へ上がるよう指示したのか。当の支店長も犠牲になりましたから、両親は銀行本体の幹部に問いました。女川にあったほかの金融機関は全て従業員が高台に避難して無事でした。七十七銀行だけが12人もの犠牲者を出したのです。しかし納得できる答えは返ってきません。会社として社員を守れなかったことに真正面から向き合い、事実関係を真摯に検証し、再発防止に向けた取り組みをしてほしいと願う田村さん夫妻と銀行側のすれ違いは、ひどくなる一方でした。

支店があったあたりから高台を望む。中央の病院1階まで津波で浸水した。
支店があったあたりから高台を望む。中央の病院1階まで津波で浸水した。

裁判で真相が明らかになればと、ほかの2家族と一緒に提訴しましたが、訴訟になると予見可能性と安全配慮義務が争点になってしまい「あれだけの津波は想定外で予見できなかった」「支店長の指示には一定の合理性があり、銀行が安全配慮義務に違反していたとは言えない」と、一、二審とも敗訴。田村さん夫妻の「なぜ」は明らかになりません。最高裁に上告しました。

「息子は七十七銀行で働くことを誇りに思っていました。信頼していた会社で、上司の指示を忠実に守った結果、命を落としたんです。指示に背いて自分だけ走って高台に逃げていれば助かったんだろうけど、そんなことをする子ではありません。銀行には『業務中の行員を守れなくてすまなかった』と心から謝ってほしいだけなんです」。弘美さんはそう話します。

海を望む高台にある慰霊の石碑。花壇はていねいに手入れされ、クリスマスツリーも。
海を望む高台にある慰霊の石碑。花壇はていねいに手入れされ、クリスマスツリーも。

女川町の高台に上がる途中の通路に、遺族で作った慰霊の石碑と鎮魂の花壇があります。碑の裏には「語り継ぐ命」という言葉と、健太さんら4人の名前が刻まれています。犠牲になった12人全員ではないのは、銀行に全く異を唱えていない家族もいるからでしょう。問題の複雑さを感じさせます。

週末になると、田村さん夫妻や一緒に裁判をした遺族がここに来て語り部をしています。災害はいつやってくるか分からない、ここで亡くなった人たちを自分の身に置き換えて考えてほしい、自分や仲間の命を守るために行動してほしい、安全な社会をみんなでつくってほしいと呼び掛けます。中高生や大学生のグループも数多く来ています。この10月には日航ジャンボ機墜落事故の遺族でつくる8・12連絡会事務局長の美谷島邦子さん(68歳)が訪れ、手を合わせました。ともに失われたわが子の命を生かし、安全な社会を実現したいと願う立場です。夏に田村さん夫妻が御巣鷹山へ慰霊登山したのをきっかけに交流が始まりました。

慰霊碑を訪れた人に、企業防災の必要性を訴える田村孝行さん
慰霊碑を訪れた人に、企業防災の必要性を訴える田村孝行さん

「海からの風、港のにおい。ここで町の人たちと触れ合って息子が銀行員をやっていたんだなあと。見えないけれど、いつも健太が隣にいると思って、全国から来る人に話をしています。あいつの命を必ず生かす。一つ一つの積み重ねが、企業防災意識の高まりや社会の安全性向上に結びついていけばいいなと思っています」(孝行さん)

支店の位置や津波が来襲した状況を説明する田村弘美さん
支店の位置や津波が来襲した状況を説明する田村弘美さん

「助かる命が助からないようなことは、もう二度と起きてほしくない。将来私たちが息子と同じお墓に入ったとき、あなたの25年の人生は無駄じゃなかったよ、社会の前進に大きな役目を果たしたよ、って言えるようになりたいですね」(弘美さん)

震災5年目。私たちはどれだけの教訓をあの大災害から学び取れているでしょうか。多くの人に、とりわけたくさんの企業経営者に女川に来てもらい、田村さん夫妻の話に耳を傾けてもらいたいと思います。首都直下、東南海・南海トラフ。次に想定される大災害が、あす起きるかもしれません。夫妻はこれからも毎週末、慰霊碑の前に立ち、懸命に語り続けます。

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