津波の地に笑顔と安心を-涙重ねた末の思い

福島県南相馬市原町区萱浜の上野敬幸さん方。菜の花の上に、こいのぼりがはためきます

福島県南相馬市の上野敬幸(たかゆき)さん(41歳)方前に、今年も菜の花畑の巨大な迷路ができました。昨年春に続き2回目の製作です。大勢の子供たちが背丈より伸びた菜の花の中を笑顔で駆け回ってほしい。そう願って、仲間たちと複雑な道を造りました。東日本大震災の津波で両親と2人の子を亡くした上野さんだからこその、強い思いです。

「多くの人が津波で亡くなったこの地は、とにかく涙、涙、泣き顔ばっかりだったところです。今を生きる子供たちには笑顔になって、安心してもらいたい。楽しそうな子供たちと、きれいな花を見れば、大人も自然と笑い顔になります。みんなが笑い合って、もう大丈夫だよって空を見上げれば、亡くなった人たちも天国で安心してくれると思います」

「津波の地に笑顔と安心を取り戻したい」と語る上野敬幸さん
「津波の地に笑顔と安心を取り戻したい」と語る上野敬幸さん

上野さんは静かにそう語ります。奥歯が砕け飛ぶほど悲しみと怒りと悔しさをかみしめ続け、想像を絶する苦悩を経ての穏やかさです。もちろん悲しみと怒りと悔しさが消えるはずはありませんから、胸の中にしっかりと押しとどめているのだと思います。その決然とした上野さんのたたずまいに、私はただ敬服するばかりです。

農家だった上野さんの家は太平洋に面した萱浜という地区にあります。地元の人々は「かいはま」と呼びますが、市役所に聞くと正式な読みは「かいばま」と濁るそうです。海沿いに平らな農地が広がる豊かな地域です。

2011年3月11日、萱浜にも猛烈な津波が押し寄せました。上野さんの母順子さん(当時60歳)、長女永吏可(えりか)さん(当時8歳)は後日、遺体で見つかりました。父喜久蔵さん(当時63歳)と長男倖太郎君(当時3歳)は今も行方不明です。

津波で壊れた上野さん方の玄関には、両親と2人の子を弔う祭壇がある
津波で壊れた上野さん方の玄関には、両親と2人の子を弔う祭壇がある

萱浜は東京電力福島第1原発から北に22キロ。11日夜から12日にかけて、政府は原発近隣の市や町に避難指示を出しました。そのため萱浜には警察も消防も自衛隊も救助や捜索に来ませんでした。津波と原発事故、二重の被害を受けた地域です。福島の原発に近い沿岸部は、そんなところばかりです。

上野さんたちは消防団の仲間だけで、がれきの下や冷たく濁った水の中から遺体を収容し続けました。じいちゃん、ばあちゃん、同世代の友人や子供たち。隣近所の見知った顔ばかりでした。誰彼となく声を上げて泣きながら遺体を抱きしめ、安置所まで軽トラックで運んだそうです。多くの命を奪われた悲しみ、国から見捨てられた怒りと悔しさ、そして絶望感。涙が枯れることのない慟哭の日々でした。

消波ブロックを見て回りながら捜索する上野さん(2013年4月、福島県浪江町)
消波ブロックを見て回りながら捜索する上野さん(2013年4月、福島県浪江町)

消防団の仲間で始めた捜索に、次第に遠来のボランティアが加わるようになりました。それが「福興浜団」というグループです。海辺を中心にさまざまな所でがれきをかき分け、砂を掘り、消波ブロックの隙間にもぐり込んでは遺骨や手がかりになりそうなものを捜します。「自分の家族だけじゃなく、全ての行方不明者が見つかるまでやる」。誰の力も借りずに捜し続けてきた上野さんたちの意地です。だから南相馬だけではなく、浪江町や大熊町、富岡町、時には宮城県へも足を運び、捜索活動をしています。

海岸線を歩きながら行方不明者を捜す上野さん(左)=2013年4月、浪江町
海岸線を歩きながら行方不明者を捜す上野さん(左)=2013年4月、浪江町

津波が来た後、上野さんは消防団のリーダーとして地域の人々の救出に当たっていました。両親と子供たちは一緒に避難しているだろう。そう信じていました。しかし、4人はどこにもいませんでした。

わが子を助けられなかった無力感と自責の念を、上野さんは今も折に触れて口にします。深い深い悔いは、この先も胸の奥に突き刺さったまま離れないでしょう。

それにもまして私がはっと気付かされたのは、昨年夏、上野さんが慕うラジオ福島・大和田新アナウンサー(59歳)のインタビューを受けた音声を聞いたときでした。

「ご両親にはどんな思いがありますか」。大和田さんの率直な問いに上野さんは「親孝行どころか、ありがとうも言えないままでした。だめな息子でしたから」と、子供のように泣き崩れたのです。そう、上野さんは2人の子の父であり、父と母の長男だったのです。

涙に涙を重ねたからこそ、上野さんは萱浜の地を「みんなで笑い合えるところにしたい」と思うようになりました。福興浜団に集う誰もが、その気持ちに共感しています。子供たちに笑顔になってもらいたいと、上野さん方の敷地に滑り台やブランコを造りました。夏にはみんなで地面を掘り返して、臨時のプールが出来上がります。

上野さん方の敷地内にプールを造り、子供たちに開放した(2013年8月)
上野さん方の敷地内にプールを造り、子供たちに開放した(2013年8月)

震災があった2011年と翌12年の夏は、鎮魂の花火を上げました。昨2013年の花火は「亡くなったみんなに安心してもらいたい」がテーマでした。「震災後も生かされている俺たちは元気に頑張ってるし、もう泣かない。だから安心してね」という思いです。菜の花畑の迷路を造って、子供たちの歓声が上がったのも昨年からです。

4月末の上野さん方。黄一色に染まった菜の花の上で、鯉のぼりが海からの風を受け、はためいていました。「倖太郎の鯉のぼり。3歳のまんまです」。問わず語りに上野さんが口にしました。2カ所に分かれた菜の花畑は計2ヘクタール。迷路の設計図を基に、仲間が菜の花を刈り込んでいきます。出来上がった後は、みんなで記念写真を撮り、試し歩きをしました。大型連休中、多くの家族連れに来てもらいたいと、みんなで待っています。

海が見える菜の花畑に迷路を造った上野さんの仲間たち
海が見える菜の花畑に迷路を造った上野さんの仲間たち

震災4年目。津波と原発事故でたたきのめされた福島の被災地にこんな物語があります。世界中の皆さんに知ってもらいたいと思い、ここに記します。機会があれば南相馬の萱浜をぜひ訪ねてみてください。