米軍チームと国内初の親善試合を実現。千葉熱血MAKING・河野和洋の夢

写真提供:千葉熱血MAKING

横須賀の空に豪快な満塁本塁打を放つ

「僕の打ち方はね、ゲイリー・シェフィールドをイメージしているんですよ」

河野和洋は自分の打撃フォームを、このように説明してくれたことがあった。

バットを激しく揺らし、トップの位置から豪快にスイングする。伝説のメジャーリーガーのオマージュとも言えるフォームで、41歳となった今もアマチュア球界で本塁打を重ねる。

その日も、河野は横須賀の空に放物線を描いた。「満塁ホームランを打ったんですよ!」。いつもなら自身の一発を淡々と振り返る河野が、この時だけは違っていた。満足そうに、嬉々として話していたものだ。

河野にとって、本塁打を打った事実よりも、打った相手、チームが重要だった。

8月6日、米軍横須賀基地。

河野が選手兼任監督を務めるクラブチーム千葉熱血MAKINGの対戦相手は米軍だった。

「ミリタリーベースボールチームUSA2016」。チームには米海軍、海兵隊、陸軍、空軍などから構成され、なかにはロサンゼルス・ドジャースの1Aに所属経験がある者がいたりと、プロでプレーしていた選手もメンバーに含まれている。発足は8月1日と間もないが、その彼らが日本で最初に対戦相手に選んだチームこそ、千葉熱血MAKINGだったのだ。

同基地では、敷地内を一般開放する恒例の「ヨコスカフレンドシップデー」が開催された日でもあった。毎年数万人の日本人が訪れ、千葉熱血MAKINGの試合にも、河野いわく「3000人は集まったんじゃないですかね?」と言う。プロ野球ならば少ないだろうが、アマチュア野球、ましてや一クラブチームの試合となれば異例の数である。

だから、と河野は語気を強めた。

「この日じゃないとダメだったんですよ!」

「8月6日だからこそ、国境を越えられると思った」

河野と横須賀基地の接点はゼロだった。

「米軍と試合をしたい」。そう切望するようになったきっかけもたまたまだった。

今年1月。東京・福生の横田基地の前を自動車で通った時のことである。広大な敷地内に野球場を確認し、「ここで試合ができないかな?」と咄嗟に思ったという。アメリカの独立リーグでプレー経験がある河野にしてみれば、自然な発想でもあった。

ただ、そうは言ってもツテが全くない。

「いろいろルートを探しましたよ。『米軍とやりたい』と思った以上は、絶対に実現させたかったですからね」

情熱が、執念へと変化することは珍しくない。河野のそれが養父鉄と引き合わせたのも、決して偶然ではなかったのだろう。

野球塾「ルーツベースボールアカデミー」を運営する元ダイエー(現ソフトバンク)の養父は亜細亜大の出身。1学年下で専修大でプレーしていた河野は、東都大学リーグでしのぎを削りあった仲で面識もあった。

その養父が、ミリタリーベースボールチームUSA2016で投手コーチを務めているとなれば話が早い。8月6日は横須賀基地で恒例行事が行われ、プログラムもある程度は決まっている。交渉は簡単ではなかったというが、最終的には「この日」が両者を結びつけた。

河野の言葉に熱がこもる。

「8月6日といえば、太平洋戦争で広島に原爆が投下された日じゃないですか。日本人もアメリカ人も、その日を絶対に忘れちゃいけませんよね。そういう日だからこそ、国境を越えなければいけないんですよ」

アメリカは河野を、千葉熱血MAKINGを受け入れた。ヨコスカフレンドシップデーのイベントの一環として親善試合をプログラムに組み、横須賀基地内のバークリーフィールドでの試合が実現した。

試合は、その後に控える花火大会の開始時間の都合もあり5回で終了した。スコアは10対10。それでも、河野には充足感があった。

「結果なんてどうだっていいんです。大切なのは僕らが、日本のチームが米軍基地で初めて試合をさせてもらったことなんです。野球を通じて日米が交流できた。僕はそれだけで大満足ですよ」

地域貢献、チャリティー活動……。野球を通じて支援を計画

アメリカ人、とりわけ野球経験者ならば「ヒデキ・マツイ」を知る者は少なくないはずだ。ただし、横須賀基地でアーチを描いた打者が、高校時代、後のメジャーリーガーを全国大会で5打席連続敬遠した投手だったと認識している人間はいないだろう。

「それでいいんですよ」と河野は言う。

重要なのは、多くの人間に野球が社会にもたらす影響を理解してもらうこと。そのための裾野の拡大を止めないことである。

「これからも、もっと面白いイベントをやっていきますから! 地域貢献、チャリティー、できることは何でもやりたいですね」

河野は、それをひとつでも多く実現するために、今日もバットを振る。

写真提供:千葉熱血MAKING
写真提供:千葉熱血MAKING