野球で復興支援を。5打席連続敬遠の“ダーティヒーロー”河野和洋が抱く使命感

今季の本塁打は10本以上と、現在もチーム屈指の打力を誇る

全国社会福祉協議会の発表によると、東日本大震災の復興支援に参加したボランティアの活動者数は、2015年7月の段階で約145万人。9月10日に栃木県と茨城県に甚大な被害をもたらした関東・東北豪雨では、小山市と常総市合わせて3万5000人ものボランティアが力を貸した。

この人数はあくまで一部であり、NPOなど各団体が派遣したボランティア参加者も含めれば、その数はさらに増える。

ボランティアの目的とは人それぞれだ。

「被災地の1日も早い復興を」という願い、「自分が動かなければ」という使命感。なかには、「友達が参加しているから」「ボランティアをしている自分がかっこいい」といった民衆意識から行動に移す者だって少なくはないだろうが、被災地に赴き汗を流すこと自体、尊い行為であることに変わりはない。

その彼らの多くはきっと、心のどこかでこうも思っているはずなのだ。

できることなら、自分が好きなことで復興支援の力になりたい、と。しかし、自身で行動を起こすとなると、時間や費用など支出が当然のように伴ってくる。

千葉県に本拠地を置く野球クラブ、「千葉熱血MAKING」の選手兼任監督である河野和洋は、あえて厳しい支援の道を選んだ。

「実は台風の翌日に、茨城県の球場でオープン戦の予定を組んでいたんです。でも、あの豪雨で街が水没してしまってグラウンドが使えなくなった。うちのチームは千葉がホームですが、茨城の球場もよく使わせてもらっているんです。いつもお世話になっている地域なので、『これはなんとかしないとな』というのが最初ですね」

「自分たちの力で」と、チャリティーイベントを実現

河野は企画したのはチャリティーイベントだった。彼は、野球で復興支援を目指した。

千葉熱血MAKINGは、元俳優で現千葉県知事の森田健作が立ち上げたクラブで、今年の全日本クラブ選手権でベスト4に進出するなど、知名度と実力が備わっているチームだ。

ネームバリューはある。だが河野は、一から復興支援をすることに意義を見出した。

監督自らが飛び込みで協賛してくれる市に掛け合い、企画書を作成し、必要書類をまとめるなど慣れない作業をこなした。それと並行し、日頃から交流のあるクラブチームにも支援を依頼し、知人を通じて障害者野球のチームにも賛同を願い出た。

チャリティーイベントの実現に際し河野がこだわっているのは、チームとして動くことだ。マネージャーにはポスター作成を、選手たちには駅前でのビラ配りを任せるといったように、クラブに携わる全ての人間に役割を担ってもらった。

河野がその狙いを説明する。

「こういった活動を成功させるためには、みんながひとつにならないとダメなんですよ。僕らは野球で復興支援を目指すわけですから、『やらされている』と感じながら準備をしていれば野球にもその姿勢が出てしまうものなんです。『俺たちがイベントを成功させるんだ』と思いながらやればチームワークが生まれてくる。イベントを成功させることができれば、彼らの自信になるはずなんです。野球以外のことをやるのは大変だろうけど、達成感って絶対に出てくるもんなんですよ」

野球で支援を――。河野の想いから生まれたその取り組みは、一定の成果を得た。

11月7日。千葉県市川市で開催された「関東東北豪雨 復興支援チャリティーマッチ」は、慈善事業の枠にとらわれないファン一体型のイベントとなった。

試合前にはホームラン競争が行われ、外野席でボールを拾った観客にはそのままプレゼントした。そして、メインイベントの障害者チームの市川ドリームスター対東京ブルーサンダース、千葉熱血MAKING対TOKYO METSによるエキシビジョンマッチ。4チームが費用を賄ったこのチャリティーイベントで実に14万3126円の募金が集まり、言うまでもなく全額が被災地へと届けられた。

河野は「おかげさまで成功だったと思います」とやや謙遜しながらも、自分たちの活動に手応えを掴んだ。

「僕はどちらかというと『野球エリート』の部類に入ると思うんですね。たくさんのお客さんがいる前で試合をしたことだって何回もあります。その経験を、チームの選手たちにもさせたいんです。クラブ野球ってあまり日の目を見ないじゃないですか。だから、イベントを率先してやっていくことで、『こういうクラブチームがあって、こんな選手もいるんだ』ということを知ってもらいたいんですね。それが復興支援に結びつけば最高じゃないですか」

自らを「野球エリート」と言ってのけるだけの知名度が河野にはある。

だがそれは、必ずしも肯定的な響きとして受け入れられるわけではないだろう。

米独立リーグで出会った「チームとファン一体型の野球」

河野和洋。世代を問わず、この名を知る野球ファンはあまりにも多い。

1992年夏。明徳義塾の投手として甲子園のマウンドに立ち、2回戦で星稜のスラッガー・松井秀喜に対して「5打席連続敬遠」を実行する、高校野球史に強く刻まれる大事件を引き起こしたのが河野だった。

カ・エ・レ! カ・エ・レ!! 観客から大ブーイングを受けながらも、平静に立ち振舞った勝者の姿はふてぶてしかった。リアルタイムでのあの試合を知る者ならば、その記憶は今でも鮮明に蘇ってくるはずである。

「僕はダーティヒーローですから」

河野は当時のことを聞かれるたびに、そう言って笑みを浮かべる。

明徳義塾から専修大へ進み、ドラフト候補にも挙がると、そこでも当然のように「5打席連続敬遠の男」とクローズアップされた。社会人野球のヤマハを辞め、プロを目指しアメリカの独立リーグでプレーしていることが知れ渡っても、現状より松井との対戦が話題の中心となった。それでも河野は、「今の自分を知ってもらいたい」と、取材などには積極的に応じてきた。

その根幹と「ファンを楽しませる野球」がリンクしたのが、アメリカの独立リーグでプレーしている頃だったのだ。

練習生として所属していたミネソタ州のセントポール・セインツは、独立リーグ随一の人気球団として知られている。地ビールが多種類揃い、フィールドシートやテラス席も設けてある。イニング間には多彩なアトラクションも用意されている。平日のデーゲームであっても5000人以上のファンが集まるのは、独立リーグでは異例のことだという。

その光景を目の当たりにした瞬間、ダーティヒーローは新たな使命感を抱いた。

「チームと観客が一体となった試合をいつか実現させたいと思うようになりましたね。僕たちは、『野球をやっているから偉い』って勘違いしちゃいけないんですよ。野球はうまい人だけがやるスポーツじゃない。その場所にいるみんなが楽しめないと意味がないんです」

背番号55を背負い、これからも野球一筋に生きる

’08年に千葉熱血MAKINGの監督となってから8年。公式戦も含めて年間100試合程度こなす。普段の練習や試合では「僕はだらだらやっている選手がいれば本気で怒りますからね」と厳しさを求める。野球に対してどこまでも真面目なのだ。河野が続ける。

「好きじゃなかったら土日を犠牲にしてまで野球なんてやらないですからね。うちはそういう選手が多いんです。好きなことにいい加減な奴は、ほかのことでも絶対にいい加減になる。チャリティーはいい加減にやっちゃダメなんです。真剣にやらないと」

千葉熱血MAKING“お手製”のイベントは12月6日にも開催される。

今回はホームである千葉県の松戸市で、クラブ野球の強豪、茨城ゴールデンゴールズと一戦を交える。河野いわく、「お客さんと子供たちを巻き込んだ運動会のようなイメージ」と語るこのイベントの成功によって、彼の思い描く「チームとファン一体型の野球」はまた一歩、完成形に近づくことだろう。

メジャーリーグの歴史に残る強打者、ゲイリー・シェフィールドからインスパイアされた、バットを前後に激しく揺らすアメリカ持込の豪快なフォームで、41歳の野球エリートは今も快打を連発する。

そして河野は、「自分にはこの番号しかないっすから」と背番号55のユニフォームを身にまとい、その背中でチームと観衆に語りかけるのだ。

俺は打つよ。お前らも打てよ、活躍しろよ。もっと、ファンを楽しませてみろよ――と。

【関東東日本豪雨 復興チャリティーマッチ in 松戸】

12月6日(日) 松戸市運動公園野球場

入場無料

10:00~ 子供野球教室、スピードガンコンテスト、ホームランダービー

12:00~ 千葉熱血MAKING対茨城ゴールデンゴールズ

試合のイニング間には、松戸市のゆるキャラ「松戸さん」のベースランニング、「スターバレエアカデミー」によるパフォーマンス、演歌歌手「ルピナス組」のミニライブなどが開催予定