選手とファンに愛され続けて17年。2番手捕手・小田幸平が貫いたポリシー

写真提供:ソスニック・コブ・スポーツ・ジャパン

中日から戦力外通告を受けてから1か月が経った頃だった。小田幸平に連絡をとると、その声は意外にも明るかった。

「11月中には結論を出そうと思っている。現役を続けるんか辞めるんか。今はどっちに決めるか分からんけど、引退することになってもよろしくお願いしますよ」

それから約3か月。小田なりに逡巡したのだろう。1月25日にようやく自身に決断を下した。

現役引退。

悩み抜いた末に引き際を悟ったその想いは、翌日に行われた引退会見に表れていた。

「(戦力外を受けた際に)中日球団から引退試合をしてくれるとかいいお話をいただきましたけど、その時の自分は選手一点張り(現役続行)だった。でも、オファーはこなかったし、突っ張るのもここまでかな、と思いました。すっきりしています」

清々しい表情で語る小田。その姿に安堵した報道陣から、現役時代のお決まりのセリフである「やりましたぁ!」をやってほしいと頼まれ気さくに応じた。しかしその直後、「……って辞めるのに『やりましたぁ!』はおかしいやろ!」と、周囲にツッコミを入れることも忘れていなかった。

でも、小田のツッコミは半ば本心だったのではないだろうか。

巨人、中日でプレーした17年間で積み重ねた安打はたったの112本、本塁打は2本、打点45、盗塁0。通算打率は1割9分7厘だ。清原和博や谷繁元信と名選手のバットを借り、「打てないのは視力が悪いから」とレーシック手術を受けても、最終的にはこの数字である。お世辞にも優れた成績とは言えない。

「バットのせい、視力のせいにしてごめんなさい。何もかも私、小田幸平の実力不足でございます」と、スキンヘッドを撫でながら不甲斐なさを嘆いていた小田の顔が蘇る。

もっとできたのではないか――。そういった気持ちを払拭できなかったからこそ、戦力外を受けてからなかなか引退に踏み切れなかったのかもしれない。

そんな小田が、平均寿命8、9年と言われるプロ野球の世界で17年間もプレーした。

通算打率が1割台にも関わらず、それだけ長い間ユニフォームを着られたのは、小田は捕手として所属チームから重宝されていたからだ。阿部慎之助や谷繁と所属チームに絶対的なレギュラー捕手が君臨しながらも、2番手として立場を確立できたわけ。それは、自らのセールスポイントを熟知し、惜しげもなく出してきたからだった。

「KK」に愛されたのは自分をさらけ出したから

「ヨ……ヨジンのキョイ!?」

1997年のドラフト会議。小田にとって巨人からの指名は、青天の霹靂以外のなにものでもなかった。そのため、所属する社会人チームから指名されたと報告を受けた際に、「巨人の4位」を「ヨジンのキョイ」と言い間違える素っ頓狂なボケを無意識に披露してしまったわけだが、巨人入りが小田のその後の野球人生を変えたのも事実だった。

1年目の春季キャンプ。清原や松井秀喜ら強打者のフリー打撃を見て「とんでもないところへ来たもんだ」と絶望していたところ、「キャッチングがうまい」と捕手の素質を高く評価してくれた桑田真澄の言葉に後押しされ、小田は「捕手一筋」を心に誓った。桑田はさらに、頻繁にメモをとる勤勉さを褒めてくれた。それも自信になったという。

「もっと練習せないかんから特守とかは一生懸命やったし。メモもね、自分アホで覚えられないからしていただけなんだけど、桑田さんがいいように勘違いしてくれたというか、認めてくれたというか。桑田さんがおらんかったら、僕のプロ野球人生どうなっていたんかな? って思うよ」

小田は「KKコンビ」に可愛がられた稀有な存在だった。

清原には同じ関西出身という縁で声をかけられ、「清原軍団」に即入団。日が経つにつれ、その愛情はスリーパーホールドやカンチョーといった物理的な表現へと昇華していった。スタメン出場の試合前に背後から首を絞められ“落とされる”。あるいは、お尻を2本の指で刺され血が出ても、小田は清原の好意を体で受け止め続けた。

愛されキャラ。それを実現させたのは、小田なりの処世術があったからだ。

「人のことを知るためには、まず、自分は『こういう人間ですよ!』ってことをアピールする必要があるじゃない。僕はもともと人見知りしないタイプだからできたことなのかもしれないけど、先輩からいじられることで『ああ、この人はこういう性格なんや』って分かることができれば、それを野球でも活かせると思ったからね。だから、清原さんにプロレス技をかけられても……そりゃあ、あんなガタイがいい人にやられたら痛いし嫌だったけど、僕のことをいつも気にかけてくれていたし、本当に感謝しているよね」

中日では「やりましたぁ!」と「ODA」が定着

いじられることによってプレーヤーとしての自分を成長させてくれる。実際、小田は先輩投手から重宝された。

巨人時代は上原浩治の専属として数多くの試合でマスクを被ったし、2006年に人的補償で移籍した中日でも同じだった。

チームの殺伐とした雰囲気を変えるために自分をさらけ出し、人見知りの同級生・英智を巻き込んではロッカールームで選手たちの緊張感をほぐそうと、時には場の空気を読まずにボケ・ツッコミを演じてみせた。

小田幸平をアピールすること。それはすなわち、誰に対しても自己主張がはっきりできるということにも結びついてくる。

相手が先輩であってもお構いなし。岩瀬仁紀、川上憲伸、大ベテランの山本昌にだって、試合になれば容赦なく捕手として自分の意思を伝えた。

「マサさん(山本昌)、低めですよ、低め。もっと低く投げてくださいってさっき言ったじゃないですか!」

「分かってるよ! ちゃんと投げるから」

こんなやりとりも日常的だったそうだが、それでも山本昌は、「そこがお前のいいところだから」と安心感を抱いてくれていたという。小田が先輩投手の登板時にマスクを被る機会が多かったのは、彼らから信頼されていたからなのだ。

自分の全てをさらけ出す。それはファンに対しても同じだった。

2010年に本拠地初のお立ち台で「やりましたぁ!」と叫び反応がいいことを知ると、それ以降、数少ないヒーローインタビューではアナウンサーからマイクを強奪してでも「やりましたぁ!」を連呼した。私設応援団からオフ会の誘いを受ければノーギャラで飛び入り参加し、場を目一杯盛り上げる。

そんな立ち振る舞いがファンに響かないはずがない。誰が呼んだか「ODA(オー・ディー・エー)」。打席に立つとそんな声援がナゴヤドームにこだまするようになった。小田は、中日になくてはならない存在となっていった。

引退後は評論家活動をスタートさせるが……。

個人的な意見を述べれば、選手兼任監督である谷繁を脅かす若手が現れていない現状を鑑みれば、小田を戦力外にした中日の判断は時期尚早に思えてならない。

それでも小田は、引退会見で「中日を明るくしようというのが自分の目標だったから、それは全うできた」と満足げに語る。その表情は穏やかで、涙を見せることはなかった。

「現役時代を振り返ると色々とあるから泣きたいけど、(ここまで引退の決断を引き伸ばしたため)泣くタイミングを逃しました」

愛され続けて17年。プロ野球選手としてはひとつの区切りを迎えたが、これからは評論家として第二の人生を歩む。

「なんか仕事ない? 俺、なんでもするよ」

アピール男・小田幸平は、早速、自分の売り込みを開始する。

――「ODA七変化」とか、そんな写真集を出したらいいんじゃないですか?

これから評論家になるというプロ野球OBに見当違いな企画を持ちかけてしまった。それでも小田は、2秒ほどフリーズした後、爆笑しながらこう返した。

「なにそれ? 野球と関係ないじゃん! あ、でもそれ、面白そうやなぁ……」

小田なら、やってくれそうな気がした。