元号をめぐる法制度について

新元号「令和」(写真:西村尚己/アフロ)

元号とは

 4月30日に上皇陛下が退位され、また5月1日に天皇陛下が即位され、平成の御代が終わり、新しい令和の時代が始まりました。

 ここでいう「平成」や「令和」を一般に「元号」と呼びますが、本来は「年号」と呼ばれていたものだそうです。新しい天皇陛下は126代なのに対し、令和は248番目の元号であることからもわかるように、江戸時代までは、一代の天皇の御代に何度も改元することは珍しいことではありませんでした。雉が見つかったとか、亀が献上されたといったような何かおめでたいことがあっても年号を変えていましたし(これを「祥瑞改元」といいます)、戦争や疫病などの災害があったときや、甲子革命や辛酉革命だからという理由でも年号を変えていました。幕末期の孝明天皇にいたっては、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応と実に6回も改元しています。

 王政復古の大号令が出された後、1868年(慶応4年)「明治」という元号が制定されました。この元号は明治天皇が籤で選んだと言われています。9月8日改元詔書が出され、9月12日には、行政官から「慶応四年を改めて明治元年と為す」ととともに、「今より御一代一号に定められた」という旨も全国へ布告されています。このように、明治時代になると天皇一代につき、元号は一つという「一世一元」となりましたので、以来「元号」という公称となりました。こうした一世一元の制度は、中国の明朝にならって定められました。

戦前の皇室典範

 1989年(明治22年)2月11日、大日本国憲法の制定と同時に、皇室典範が制定されました。大日本帝国憲法は交付されていますが、皇室典範はあくまで皇室の「家憲」といった性質なので、国民に対して公布はされませんでした。皇室典範の第二章「践祚即位」は以下の3条から構成されていました。

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 このように明治以来の定制である行政官布告の内容を改めて定めることで、元号というものに法的根拠を付していたわけです。さらに、明治42年(1909年)2月11日勅定公布された登極令により、改元時期や元号選択や公布の方法が法律上さらに細かく定められていました。ここで確認しておきたいのは、戦前の大日本帝国憲法下においては、元号の在り方や制定方法が法令において明文で定められていたということです。

戦後の皇室典範と元号

 しかし、敗戦後GHQの占領の下に、新憲法が制定されると、天皇の地位は、「統治権の総攬者」から「日本国及び日本国民統合の象徴」というように大きく変わり、それに伴って皇室典範も改正され、1947年(昭和22年)1月に公布されますが、その性格が大きく変わることとなりました。明治憲法下においては、皇室典範は憲法と並び立つ最高法規だったのですが、新憲法下においては、あくまで憲法の下位の法律として国会の議決によって改廃されるものとなったわけです。

 戦後新たに制定された皇室典範には、旧皇室典範の12条に相当する条文はなくなりました。あくまで皇室典範は、皇族の地位に関する条項にとどめ、国務的な事項、たとえば国民生活に大きな影響を与える元号のような事項については他の法律で定めることを基本方針としていたからです。

 当時の吉田茂内閣は、元号についても法制化すべく、内閣法制局で元号法の草案を作って枢密院に提出していました。しかし、この元号法案は、GHQ民政局政治局長代理のケーディスの反対によって国会に提出することは認められず、幻の法案に終わってしまっています。これは、天皇と関係の深い暦を採用することで再び日本国民の中に天皇を崇敬する気持ちが高まり、新憲法の精神と矛盾することについて、ケーディスが懸念したことが大きな理由です。

 こうして、戦前は皇室典範や登極令に明確な法的根拠を有していた元号は、戦後はあくまで慣習として残ることになりました。しいて根拠を挙げるとすれば、明治に出された行政官布告しかないというというひどく曖昧なものとなってしまいました。

元号法の制定

 戦後には、元号を公的文書からも廃して、西暦を使用するべきではという議論もあり、実際に1950年(昭和25年)には、参議院文部委員会においては、「元号に関する調査」がなされたりしています(委員長は後の最高裁判所長官となった田中耕太郎)。

 しかし、1959年(昭和34年)の当時の皇太子(現在の上皇)のご成婚や、1976年(昭和51年)の天皇即位五十周年式典などの行事が執り行われるたびに、国民の中に「昭和が終わったら元号もなくってしまうのか?」という不安の声が高まっていきます。昭和という元号はあくまで事実たる慣習として継続使用されていましたが、新しい元号を定めるにあたって明確な法的根拠がないことが問題となったのです。大多数の日本人は、元号というものに深い親しみを感じており、その存続を願ったことが当時の世論調査でも明らかになっています。

 そうした世論の高まりを受けて、1978年(昭和53年)10月に元号法制化実現国民会議(議長は元最高裁判所長官の石田和外)の訴えを受けて、福田赳夫内閣が元号の法制化について閣議決定します。その後行われた自民党総裁選挙で福田が負けたため、実際に法律が成立したのは、1979年(昭和54年)6月、大平正芳内閣のときでした。

 元号法は、実にシンプルな法律で、以下の2条から構成されています。

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 戦前は詔書で定めていた元号を政令で定めること、そして明治以来の一世一元制度が改めて確認されています。元号法の制定によって、元号は明確な法的根拠を取り戻し、新しい元号を建てることも可能となりました。しかし、元号の使用については当然国民に強制することはできず、あくまで公的文書等に用いるので国民に協力を要請するというのが政府の姿勢です。

元号に文化の多様性を見る

 そもそも元号とは、権力者が時をも支配するという古代中国の発想に基づくものでした。中華文化の影響圏にあったベトナムや朝鮮半島などでも元号は使われてきましたが、いずれも廃止されており、現在元号を使っているのは日本だけです。

 新憲法制定により、民主制に移行した日本が元号という制度を採用し続けるのは合わないのではないかという意見を言う人もいます。

 しかし、単に10年、100年というデジタルな単位で区切るのではなく、特定の人物を国の象徴とすることにより、その人物の人生というある種アナログな節目を設けるという制度はその特殊性ゆえにこそ価値を持つのではないでしょうか。

文化をなくすことは簡単ですが、一度なくなった文化を戻すことはたやすくはありません。日本でしか残っていない文化は、そのガラパゴス性ゆえにこそ、世界の多様性に彩りを加えていると考えることもできるでしょう。

 実際に元号が変わるとことによって、多くの日本人が何か新しい時代の訪れを予感しており、この一大行事をそれぞれの思いで受け止めています。グローバル化が進み、世の中におけるテクノロジーの役割がますます大きくなっていくこれからの時代にこそ、こうした文化の力を大切にしていきたいと考えています。