最高裁が「忘れられる権利」を認めなかったことは妥当である

(写真:アフロ)

最高裁が言及しなかった「忘れられる権利」

 インターネット検索サイト「グーグル」で名前などを入力すると、逮捕歴に関する報道内容が表示されるのはプライバシーの侵害だとして、男性が検索サービス大手の米グーグルに検索結果の削除を求めた仮処分申し立ての抗告審で、2月1日、最高裁第三小法廷(岡部喜代子裁判長)は、「男性の逮捕歴は公共の利害に関する」として削除を認めない決定をしました。

最高裁がGoogle検索結果の削除に初の判断 「表現の自由よりプライバシー保護」

 インターネット検索エンジンの検索結果における削除を求める請求、いわゆる「忘れられる権利」については、以前もYahoo!ニュース個人に寄稿させていただいております。

 高裁で否定された「忘れられる権利」 新しい権利として認めるべきなのか

 今回最高裁は、検索結果の表示の社会的な意義などと比較して「個人のプライバシー保護が明らかに優越する場合は削除が認められる」という判断基準を示したのですが、「忘れられる権利」には言及せず、その意味で昨年7月12日に出された東京高裁の路線を踏襲したかたちとなっています。

2つの法体系ー大陸法と英米法における表現の自由の考え方ー

 忘れられる権利はもともとヨーロッパで生まれた概念です。

 欧州では検索結果によるプライバシー侵害に対する問題意識があり、4年間もの間、欧州委員会において議論をした結果、EUでは、2016年4月14日、欧州議会において、「一般データ保護規則」(General Data Protection Regulation)が可決され、その17条で、「データ主体(本人)は自らに関する個人データを削除してもらう権利を持ち、管理者は遅滞なく削除する義務を負う」と定めました。いわゆる「忘れられる権利」が明文化されたわけです。

 このようにヨーロッパ、特にフランスを中心とした大陸法系では、あらゆる権利をカタログのように条文で並べるという傾向があります。法律できちっと明確に定めるという、ローマ法体系・ナポレオン法典由来の、成文法の系譜です。

 これに対して、大陸から離れたイギリスでは法律は違うかたちで発展しています。あくまで慣習を重視し、議会による立法よりも裁判所による法の発見を重視して、判例に重きを置く、英米法(判例法)の国です。かつてイギリスの植民地だったアメリカ、カナダ、オーストラリアなどが、この英米法体系の国々です。

 ところで、今回イギリスはEUからの離脱を決めました。その背景には、もちろん移民の問題というのが一番大きかったのですが、加えて、法体系が違うにも関わらず、EUの大陸法系の規制をイギリスに導入することに対する軋轢があったことも、その一つと言えるでしょう。実際に私がロンドンの法律事務所で研修していたときには、ブリュッセルから下される様々なEUの指令に対して好ましく思っていないイギリス人弁護士が少なからずいました。

 英米法の国でも、アメリカは、元々大陸から脱出してきた人たちがつくった国ということもあり、公権力による規制を嫌うという伝統的な価値観が根強く、何よりも自由であることを重んじる国です。とりわけ、表現の自由は、アメリカ合衆国憲法修正1条で保障された、人権の一丁目一番地として、大変尊重されています。ですから、プライバシーを理由に、表現の自由を制限することには大変慎重ですし、基本的にどのように低劣な内容であっても表現すること自体は最大限認める方向です。「私は君の意見に賛成しないが、君がそれを言う権利は命を賭けても守ろう」という発想です。

 これに対して、欧州大陸法では少し違います。たとえばナチスに関しては今なおかなり厳しく、ナチスを礼賛するような表現を行うことは許されません。ドイツの刑法では、「憲法秩序に反する団体組織のシンボルの使用」について細かく定められており、シンボルとしてナチスの旗、制服等を使ってはならず、違反には懲役・罰金が課されます。これはあくまで一例ですが、このようにフランスやドイツといった大陸系欧州の国では、表現の自由であっても無制限に認めるわけではなく、特定の内容に関する表現については他者の具体的な権利と衝突しなくとも、事前に制限していく考え方が強く、「闘う民主主義」といわれています。

 私論に言及させてもらうのであれば、表現の自由は最大限保障されるべきであり、言論には規制ではなく、反対言論でもって対抗するべきであると考えています。また、前回の記事にも書いたように、表現の自由や知る権利の重要性、検索エンジン事業者側の対応の問題、濫訴の防止という観点からも、安易に「忘れられる権利」を認めてしまうことには謙抑的であるべきでしょう。

今回の最高裁決定の意味

 昨年7月の高裁決定では、忘れられる権利について、「実体は名誉権やプライバシー権に基づく差し止め請求と同じで、独立して判断する必要はない」とはっきり否定したのに対し、今回の最高裁決定ではそもそも言及自体ありませんでした。高裁で否定されている以上、重ねて言及する必要を感じなかったというところでしょう。

 これまで、日本でも海外でも、検索エンジンは、インターネット上にある情報を整理して提示するだけであるから、自ら表現を行っておらず、価値中立的な「導管」であり、表示結果に責任を負うものではないという主張が繰り返されてきました。

 今回の最高裁決定では、次のように判示して、検索エンジン事業者は検索結果の表現主体であり、その表示結果について責任を負うとしています。

 この情報の収集、整理及び提供はプログラムにより自動的に行われるものの、同プログラムは検索結果の提供に関する検索事業者の方針に沿った結果を得ることができるように作成されたものであるから、検索結果の提供は検索事業者自身による表現行為という側面を有する。

出典:最高裁第三小法廷平成29年1月31日決定

 その上で、下記の各要素を組み入れて、表現の自由とプライバシー権を比較衡量した上で、後者が勝れば検索結果を削除するべきであるという判断を示しました。

  1. 表示された事実の性質・内容
  2. 申立人の具体的な被害の程度
  3. 申立人の社会的地位や影響力
  4. 記事の目的・意義
  5. 社会的状況
  6. その事実を記載する必要性

 法律に明文根拠のない人権を判例で創設することについては、あくまで現状の法体系では把握しきれないものに留めるべきですから、すでにプライバシーや名誉毀損といった枠組みで捉えられるものに対しては慎重であるべきです。そして実際に「忘れられる権利」という概念で把握できるものは、結果プライバシーや名誉の保護といったものの裏返しであり、既存の概念で十分に対応できるものだと考えられます。新しい概念の土台となる社会の共通認識が蓄積されていない状態で、いたずらに導入を図っても、各人の理解がお互いに錯綜してしまい、結果的に混乱をきたすというデメリットのほうが大きいおそれがあります。

 他方で、最高裁決定が示すように、検索エンジンであっても、何らかのアルゴリズムによって情報を再整理して提示しているわけですから、完全に価値中立的な立場であるというロジックを貫くのは困難でしょう。検索エンジン事業者であっても、特定の場合には表現主体として検索結果に対して責任を負うことは妥当でしょう。

 その意味で、今回の最高裁の判断は、個人的に納得、支持できるものでした。しばらくはこの最高裁決定が同種事案において参照すべき先例となると思われます。