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国際法における「法の支配」の現状と帝国によって塗り替えられる新しい世界地図について

田上嘉一弁護士/陸上自衛隊三等陸佐(予備)
世界地図は覇権の移動にともなって塗り替えられていく(写真:アフロ)

中国の権利を否定した仲裁裁判所の判断

7月12日、オランダ・ハーグにある常設仲裁裁判所が、フィリピンの訴えに基づき、中国の主張する南シナ海の排他的権利の主張の根拠となる歴史的権利、そして埋め立てた人工島が島であるという中国の主張を、ほぼ完全に否定する判断を下しました。

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これに対して、中国政府は、「判決は紙切れ」として、この判断を黙殺する方針を示しています。

南シナ海判決、中国の次の一手は?

「海の憲法」とされる海洋法に関する国際連合条約(「国連海洋法条約」)では、領海の境界確定など国の主権に関する事項を裁判の対象外としています。中国側が今回の判決について「仲裁裁判所の管轄外である」と主張しているのはこういった理由に基づくものです。もっとも、今回フィリピン側が巧みだったのは、中国が実効支配している南シナ海の人工島が島なのか低潮高地なのかについて判断を求めることによって、間接的に中国の排他的支配権を否定する方法を取ったことです。

このフィリピン側が判断を求めている事項については、仲裁裁判所に管轄があるということで、日米や中国を警戒するアジア諸国は、「今回の判決には法的な拘束力がある」として、「中国は法の支配を受け入れよ」と、中国を牽制しています。

国際法における「法の支配」の理想と現実

ところで、国際法の主な法源は、条約と慣習法なのですが、このうち条約については、条約の締結国でない以上、効力を及ぼすことができません。そして、この国連海洋法条約については、なんとアメリカが未締結だったりします。最近では、中国もこの国連海洋法条約を脱退することを検討しているという報道もなされていますが、仮にそうなってしまうと、今回の判決の拘束力も及ばないこととなってしまいます。これに対して、国内法は、条約とは違って、「この法律を受け入れますよ」という意思を表明せずとも、直接的に効力を有しています。条約にはこうした効力がないわけです。

「法の支配」という概念が生まれたのは、中世のイギリスであるとされ、英米法を中心にこの考え方が発展してきましたが、国際法の分野においては、まだまだ未整備だというのが現状なのです。

確かに、国際法違反を犯した国家には国家責任が生じます。そして、場合に応じて原状回復、損害賠償、陳謝などといった義務が生じますが、実際にはこれらの義務の実行を担保するしくみが整っていないのです。したがって、未だに被害を受けた国が自力救済を行うことを認めざるを得ません。

他方で、たとえば、日本の国内で何か犯罪や権利侵害が行われれば、警察を含む行政機関、裁判所が機能して、犯罪の処罰や権利の回復がなされることが制度的に保証されています。しかし、21世紀の現時点においては、未だに国家の主権を超える権利主体は存在せず、国家間の紛争を調整するより上位の機関は存在しないわけです。

もちろん、ハーグには国連の機関としての国際司法裁判所(ICJ)がありますが、ICJにおいて裁判が成立するためには紛争当事国の合意が必要であり、この裁判がなされる保証がないため、実際にICJによる紛争解決がなされることはごく一部にとどまっています。また、国連の安全保障理事会においても、5つの常任理事国が拒否権を有している以上、互いの利害関係が複雑に交錯する国際問題では、実際に安保理決議に基づいて紛争解決がなされることは極めて稀です。

今回の仲裁裁判所の判断においても、あくまで法的な判断が下されたというだけであり、この実行を担保するしくみはありません。したがって、この判決を材料に、今後は中国と外交交渉してなんらかの落とし所を探っていくというのが現実的な選択肢となると思われます。

このように国際法においては、国内と違って紛争解決手段が整備されていないため、場合によっては大国のさじ加減ひとつで決まることもしばしばです。

現状では、まだ『機動戦士ガンダム』シリーズの地球連邦政府や、『沈黙の艦隊』で海江田が構想した「政軍分離」された常設国連軍は存在しないわけです。

超大国アメリカによる「世界新秩序」という夢

20年ほど前であれば、「ひょっとしたら世界は一つの秩序でまとまるのかもしれない」という感覚はありました。1989年にベルリンの壁が崩壊し、レーガンとゴルバチョフの間でマルタ会談が開かれ、長く続いた冷戦に終止符が打たれました。さらに、1991年には冷戦を主導してきたソ連そのものが解体されてしまったのです。また、アメリカは、湾岸戦争において中東最強といわれたイラクに対し、1991年1月17日に「砂漠の嵐作戦」を開始すると、それからわずか1か月あまりで完膚なきまでに叩き潰して見せました。この時点で、アメリカは世界でたったひとつの超大国(スーパーパワー)として、圧倒的な力を誇っていたのです。

ブッシュ大統領(父親の方)は、湾岸戦争開戦前に連邦議会で、『新世界秩序へ向けて(Toward a New World Order)』という演説を行いましたが、この時点では、本当にアメリカが世界の新しい秩序をかたちづくっていくのだという感覚があったのです。

1989年には、ランド研究所所属のフランシス・フクヤマが、有名な『歴史の終わり』(原題:The End of History?)』を「National Interest」上で発表します。これは、ヘーゲル・モデルによって、人類全体の精神の歴史を叙述したもので、「この地上のすべての国家が、結局最後には、アメリカ型のリベラル・デモクラシーに到達し、それで人類の歴史は終わる」といった挑発的な主張が展開されていました。

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フランシス・フクヤマ(出典:Wikipedia)

その後民主党に政権は移りましたが、そのクリントン政権では、ネオ・リベラリズムに基づく「産業政策論」を軸に、情報通信技術(ICT)と金融に力を入れることで歴史上最も長く継続した経済成長を遂げ、アメリカ流の金融資本主義やインターネット新興産業によって世界経済を強く引っ張っていったのです。さらに、ハリウッド映画やポップ・ミュージックという、アメリカから発進される文化の力も、衛星放送やインターネットによって世界中で楽しまれるようになりました。

このように、90年代半ばまでは、自由主義・民主主義・資本主義を柱とした超大国アメリカの覇権によって世界は支配され、歴史が終わるのではないかと本気で考えている人たちがいたのです。

アメリカ一極支配の崩壊

そのアメリカによる世界覇権に綻びが見え始めるのは、やはり2001年9月11日におきたアメリカ同時多発テロ、そしてそれに続くアフガン戦争と、2003年に始まったイラク戦争でしょう。特にイラク戦争では、当初開戦の理由とされた大量破壊兵器の存在が証明されず、「大義なき戦争」として強く批難されました。確かにフセイン政権は打倒され、サダム・フセイン大統領は処刑されましたが、その後に打ち立てられたシーア派を中心とするマリキ政権は安定せず、そうした情勢の混迷からイスラム国を名乗るテロリスト集団の跳梁を招くという事態に至っています。

ブッシュ大統領(息子の方)は、父親と違って、米国の孤立主義(アイソレーショニズム)を貫き、フランスやドイツなどイラク戦争に反対した国々を「古いヨーロッパ」と呼んで無視しました。これによってアメリカと欧州との間に亀裂が入ります。また、京都議定書から離脱を突然発表するなど単独主義的行動が目立ち、アメリカの国際的孤立を招きました。

そして米国が牽引してきた世界経済も、2008年のリーマン・ショックによって一つの節目を迎えました。どこまでも高く築き上げられていくかに思われた世界経済の大伽藍が、実際には極めて不安定な砂上の楼閣であったことが明らかとなったのです。

結果的には、冒頭に示したように、未だに私たちは超国家的な権利主体を持たず、国際法の理想は、現実にはパワー・ポリティクスの下にあります。

今なお続くウェストファリア体制

このような国際社会のシステムはいつから始まったものなのでしょうか?

これについては、世界史の教科書は、1648年のウェストファリア条約に始まるとするのが一般的です。ウェストファリア条約とは、30年戦争というヨーロッパで最も悲惨だった戦争を終わらせるための条約でした。この戦争では、カトリックとプロテスタントが激しく争いあい、その上にハプスブルグ家対ブルボン家、果てはオスマン帝国まで介入し、途中からはプロテスタント同士、カトリック同士までもが殺しあう泥沼の戦争でした。

ウェストファリア条約によってこの戦争が終結し、それぞれの国が内政権と外交権を持つ主権国家として認められたわけです。ここに現在も続く国民国家(ネーション・ステート)の基礎ができあがり、国際法という考え方も生まれました。我々が現在生きている国際社会も未だにこのウェストファリア体制のパラダイムの中にあるのです。

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ミュンスターにおける条約締結の図(出典:Wikipedia)

『文明の衝突』という衝撃

1993年、ある論文が『Foreign Affairs』紙上にて発表されました。ハーバード大学教授のサミュエル・ハンチントンによる、『文明の衝突』(原題:“The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order”)です。

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サミュエル・ハンチントン(出典:Wikipedia)

ハンチントンは、この論文の中で、冷戦が終わった現代世界においては、文明と文明との衝突が対立の主要な軸となると述べました。ハンチントンが上げた、世界における主な文明は、西欧、ラテンアメリカ、アフリカ、イスラム、中国、ヒンドゥー、東方正教会、仏教、日本といったものです。

フランシス・フクヤマが、アメリカ流のリベラル・デモクラシーが人類の最終到達点であり、これで歴史は終わると主張したのに対し、「いやいや、歴史は終わることはない。これからは、むしろ西欧文明の力が相対的に低下して、ロシアやイスラムといった他の文明と衝突していくのだ」と訴えたわけです。ちなみに、フクヤマはハンチントンにとってはかつての教え子でした。

その後の歴史の流れを知っている私たちには、フクヤマよりハンチントンが正しかったことは明らかでしょう。アメリカが、アフガン戦争、イラク戦争を戦い、未だにイスラム国をはじめとする国際テロリストたちとの戦いを終えることができていないことは明らかですし、プーチンのロシアや、習近平の中国が、次第にその勢力を増しており、アメリカとの相対的地位を詰めてきています。

最近ブームとなっている「地政学」の開祖はハルフォード・マッキンダーですが、そのマッキンダーの理論をそのまま移植して「ドイツ地政学(Geopolitik)」を作り上げた、カール・ハウスホーファーという学者がいます。ハウスホーファーは、「パン・リージョン(統合地域論)」という考え方を示しており、これからは地球を縦割りにして、は4つの経済ブロック(汎アメリカ、汎ユーラアフリカ、汎用ロシア、汎日本)となるだろうといっています。その中で、ユーラアフリカの中心はドイツ、アジアの中心には日本がなるべきだと、ハウスホーファーは考えていました。

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ハウスホーファーのパン・リージョン(出典:https://firstlightforum.wordpress.com/2012/10/08/jewesss-husband-karl-haushofer-provides-the-geopolitics-for-the-third-reich/)

そして世界地図は複数の帝国によって新しく塗り替えられていく

このように、アメリカの世界覇権が道半ばに終わることが見え始めた今後は、世界の中で、複数の緩やかな帝国圏に分かれていくのではないかと思われます。

その最たる例が、まさにイスラム文化圏であって、新疆ウイグルからカザフスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャンといったエリアは、中国が最近「一帯一路」として取り上げている地域ですが、ここは、スンニ派トルコ系住民の居住エリアなのです。このシルクロード=西域からイスタンブールまでのトルコ系の「スンニ派回廊」に巨大なイスラム圏が形成されています。

これに対し、旧来のアケネメス朝ペルシャ、ササン朝ペルシャ、ブワイフ朝、サファービー朝と王朝が興亡してきた現在のイランは、同じイスラムでもシーア派であって、スンニ派のイランの対抗軸となっています。このイランにも、ペルシャ帝国の復興を目指す新たな動きが出始めています。特に今年1月には、イランの核開発に関する合意が履行され、イランに対する制裁が解除されることが、イランと米欧など6カ国によって発表されています。これは、アメリカの中東における地域戦略の方針転換によるものですが、中東におけるシーア派の大国イランと、スンニ派のリーダー格であるサウジアラビアとの地域覇権争いが激化していくものと思われます。

イラン制裁解除、世界に光と影 (日本経済新聞2016年1月18日)

ハウスホーファーが考えていた「パン・リージョン」は、ウェストファリア体制内にある国民国家がそれぞれの経済ブロックを主導するかたちでしたが、現在中東で起きていることは、欧米列強が人為的に形成した国境を否定し、その代わりに宗教や言語を同じくする文化圏が形成されていっているということです。これは近代の国民国家が誘拐されていく中で、文化圏を同一とする緩やかな帝国が形成されていっているといえるでしょう。

さらに、こうした中東地域における帝国化の動きに加えて、かつての大国たちも帝国としての動きを活発化させています。

クリミアを併合し、世界に脅威を与えた「氷の皇帝(ツァーリ)」と呼ばれるプーチンのロシア帝国。毛沢東を崇拝し、中華思想によって東シナ海・南シナ海への領土的野心を隠そうともしない習近平の中華帝国。クーデターを抑えこみつつ、マスコミを掌握し、ケマル・アタチュルクによって創りあげられた近代国家をネオ・オスマニズムへと巻き戻そうとしているエルドアンのトルコ帝国(オスマン帝国)。

他方で、これまで地球を支配してきた西欧の勢力は、相対的に地位が低下していくことが予想されます。オバマ政権以降のアメリカは、すでに世界の警察である地位から実質的に退きつつあります。

もしトランプが大統領になれば、さらにその傾向は加速されるでしょう。私たちは、ブッシュ父子のイメージが強いので、共和党は外交について積極主義だという印象を抱きがちですが、民主党が積極主義なのに対し、共和党の外交政策は伝統的には国内優先主義なのです。レーガン政権以降の共和党は、いわゆる元民主党支持者が共和党に乗り換えたというのが主な流れであり、そのグループを「ネオ・コンサバティブ(ネオコン)」と呼ぶわけです。実際に、そうした従来の保守層がネオコン以降の積極外交主義を掲げる共和党に嫌気をさしている人達が、トランプを支持しているという面もあるでしょう。

さらに欧州を見れば、イギリスはEUから離脱することを決定しましたが、今後のEUは独仏、特にドイツを軸に動いていくことが予想されます。安全保障面だけを見ればNATOという枠組みの中でアメリカと連動していますが、経済・文化面については、欧州はアメリカとは違う路を選ぶ可能性は大きいと思われます。これは古のローマ帝国もしくはフランク帝国のようなかたちを志向していくのでしょう。

いずれにしても世界覇権国であったアメリカがその指導的地位から後退することによって、世界の各地に空白地帯ができ、その各地域の覇権をめぐってしばらくは複数の帝国が互いに競い合い、ときには共同戦線を張りながら、自らの権益を拡大していくことが予想されます。

このように世界地図が新たに書き換えられていくときは混迷を迎えるおそれが非常に高いと言えるでしょう。日本も、決して一時の感情や雰囲気に飲まれることなく、より自律的で冷静な判断が求められることだけは間違いありません。

弁護士/陸上自衛隊三等陸佐(予備)

弁護士。早稲田大学法学部卒、ロンドン大学クィーン・メアリー校修士課程修了。陸上自衛隊三等陸佐(予備自衛官)。日本安全保障戦略研究所研究員。防衛法学会、戦略法研究会所属。TOKYO MX「モーニングCROSS」、JFN 「Day by Day」などメディア出演多数。近著に『国民を守れない日本の法律』(扶桑社新書)。

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