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ブードゥー経済学は永遠に不滅

橘玲作家
(写真:ロイター/アフロ)

トランプ政権が「貿易赤字は不公正だ」として世界各国との関税交渉に突き進んでいます。安倍首相とのトップ会談でもトランプ大統領は剛腕をふるい、日本は自動車への関税引き上げを避けるために農業分野での大幅な譲歩を余儀なくされました。

一連の経緯を振り返って不思議なのは、ついこのあいだまで「TPP(環太平洋パートナーシップ)協定はアメリカの陰謀だ」と大騒ぎしていたひとたちが右にも左にもものすごくたくさんいたことです。ところがトランプ大統領は、「TPPはアメリカにとってなにひとついいことない」として、さっさと交渉からの離脱を決めてしまいました。

TPPに大反対していたひとたちは、グローバリズムが諸悪の根源で、一部の超富裕層や多国籍企業だけが儲かる自由貿易を制限すれば、日本も世界もずっとよくなると主張していました。そしていま、トランプ大統領の登場によって、彼らが夢見た保護貿易の理想世界が実現したのですから、提灯行列でもやって祝うのかと思ったら、なぜかみんな沈黙しています。

中学生でも気づく単純な疑問ですが、なぜアメリカの陰謀だったものが、アメリカにとってなにひとついいことがないのでしょうか。TPPを推進すべきだと唱えるひとたちに「グローバリスト」のレッテルを貼ってあれだけ罵倒したのですから、批判派の「知識人」はこの問いに答える大きな説明責任を負っています。

国際経済学の授業では、「“貿易黒字は儲けで貿易赤字は損”というのはブードゥー(呪術)経済学だ」と真っ先に教えられます。

グローバル市場はひとつの経済圏ですが、便宜上、国ごとに収支を集計します。これは、日本市場を詳しく分析するのに県ごとの収支を計算するのと同じことです。県内のパン屋が県外の顧客に商品を売ると「貿易黒字」に加算されます。このパン屋が県外から小麦粉を仕入れると「貿易赤字」になります。しかしこれはたんなる会計上の約束ごとで、パン屋の儲けにも、ましてや県のゆたかさにもなんの関係もありません。

江戸時代には藩ごとに関税が課せられていましたが、明治政府が撤廃したことで日本経済は大きく飛躍しました。保護貿易が常に利益をもたらすなら、いまから江戸時代に戻せばいいということになります。自由貿易を否定するのは、これとまったく同じ主張です。

近代国家は神聖不可侵な「主権」をもっており、世界政府が存在しない以上、明治維新の日本のように一気にすべての関税を撤廃することはできません。しかしアダム・スミス以来、モノやサービスを自由に流通させれば、ひとびとのゆたかさが全体として大きくなるという経済学の主張は事実によって繰り返し証明されてきました。中国やインドは1980年代までは世界の最貧国だったのです。

TPPのような包括協定がなければ、ちからの強い国が自分に有利なルールを押しつけるに決まっています。いま起きているのがまさにそれで、TPPからの離脱は「日本にとってなにひとついいことがなかった」のです。

ではなぜ、TPPに反対する「知識人」があんなにたくさんいたのか? それは、ヒトの脳がもともと呪術思考しかできないようにできているからでしょう。だからこそ、ブードゥー経済学は永遠に不滅なのです。

『週刊プレイボーイ』2018年10月15日発売号 禁・無断転載

作家

作家。1959年生まれ。2002年、国際金融小説『マネーロンダリング』でデビュー。最新刊は『言ってはいけない』。

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