北川景子×野木亜紀子『フェイクニュース』~より良きメディア状況に向けて~

番組ホームページから

メディアの存在は危うい。

組織である以上、ビジネスとジャーナリズムのバランスが問われる。

個々のジャーナリストも、出世・名誉欲と社会正義や信念との相克の中で仕事をしている。

しかもメディアには、送り手にも受け手にも“やっかいな感情”や“思惑”がまとわりつく。

ドラマ『フェイクニュース』は、こうした危うい問題を、娯楽と社会正義の虚実皮膜の中で描いている。同ドラマが深く関わるテレビとネット、その両方を経験した筆者なりの感想を述べてみたい。

苦戦する活字メディア

主人公は東雲樹記者(北川景子)。

大手新聞社から、ニュースサイト運営会社に出向した。食品に青虫が混入した事件をきっかけに、フェイクニュース騒動に巻き込まれ、やがて企業間の暗闘や政治の暗部を目の当たりにしていく物語だ。

野木亜紀子の作品は、冒頭からメディアの危うさを浮き彫りにする。

各部員が企画の提案を編集長(新井浩文)にプレゼンする企画会議。樹は路上生活者についての企画を出すが、編集長は「PV数稼げんのか?」と全く気乗りしない。

「必要な記事です」と社会的意義を訴える樹。

「取材なしでも書けんのか?」

「最低でも3日」の回答に即却下。

「うちはネットメディアだ。新聞のやり方じゃコスパが合わない」

“アナログダラー・デジタルペニー”という言葉がある。

アナログ時代の1ドルは、デジタルでは100分の1に減ってしまうの意だ。いま新聞は部数が激減し、広告収入もピーク時の4割弱になった。ネットへの展開が必須だが、大半の新聞社がマネタイズに苦しんでいる。

2016年末に発覚したDeNAのWELQ問題は、まさにお金も労力もかけずに記事を作るネットメディアの落とし穴だった。

野木ドラマ冒頭のジャブは、いきなり強烈なパンチとなっていた。

数字に取り込まれていく個人

取りつく島もない編集長の反応に、樹は“話題の女性用下着”の企画をプレゼンし始める。ところが編集長は最後まで聞かずに即採用。「始めからそっち出せ」でお仕舞。

PV至上主義の中では、ジャーナリズムをじっくり吟味する雰囲気はない。

ただし樹も、完全に自律しているわけではない。

インスタントうどんの青虫混入事件を担当したが、取材を進めると不審な点が出てきたため、直ぐに記事を書けないでいた。

すると「編集長が“給料泥棒”と言っていた」と知らされ、現状でわかっていることだけを報告する「青虫うどん事件に見る企業対応の難しさ」という記事を書いた。

ところが編集長の指示で、「青虫うどんの真相! 愉快犯の仕業?」とタイトルが変更された。

「完全な釣りタイトルです。語尾に“?”をつけりゃ許されるものじゃありません」と彼女は抗議したが、記事が一晩で50万PV(彼女の1カ月の累計を超える数字)を稼いだと知らされ、怒りはトーンダウンし沈黙してしまった。

“タイトルが全て”のネット記事

筆者もNHK在職中、テレビ番組からミニ動画を切り出し、ネット展開する仕事を担当したことがあるが、その時に同じような経験をした。『祝女』という番組の中の1コントを、そのままミニ動画として展開した時のことである。

コントの元のタイトルは「ハートに火をつけて」。

米国ロックバンド・ドアーズの代表曲で、日本ではZARDの曲でもあった。90年製作の米国映画や、浅野ゆう子主演のドラマ(89年)でも、同じタイトルが使われていた。

消極的な男の子の部屋に積極的な女の子が押しかけ、四の五の言いながら迫りまくり、最後はSEXに至るというコメディだった。

放送での視聴率は3~4%ほど、あまり話題にならなかった。ところがタイトルを「肉食女が草食男を食べる瞬間」に替え、サムネイルを「女が男に壁ドン」の画像にしたら、ネット上では瞬く間に200万回視聴された。空前絶後の爆発的ヒットだった。

ネットの世界では、タイトルや看板でクリックしてくれるか否かが左右される。ネット広告なら露出されればお金が動く。よって本文の良し悪しではなく、たとえ釣りでもタイトル次第で莫大な収入につながる。

記事タイトルが際どくなっていく所以である。WELQ問題は、人の関心を集めるタイトルありきで、内容は適当につじつまが合うようにねつ造されたものだった。

『フェイクニュース』は冒頭から、PV主義の危うさの本質を撃っていた。

増幅の連鎖

事の始まりは、猿滑(光石研)が青虫混入を何の気なしにつぶやいたこと。

ネット空間には真偽を吟味せず、そのつぶやきを拡散するユーザーがいる。

小遣い稼ぎのために、躊躇せず偽ブログを書く普通の主婦(筧美和子)が火に油を注ぐ。

出来事を賛成・反対の両サイドから盛り上げ、PV稼ぎに走るまとめサイト管理人(坂口涼太郎)までが“ひょっこり”登場する。

いずれも普通の人々だが、猿滑の「誰かに味方になって欲しかった」という小さな思いが原点だ。

普通の主婦やまとめサイトの管理人も、嘘や為にする発言が社会にどんな影響を及ぼすのかを深く考えない、小銭稼ぎの小悪党だった。

承認欲求は誰にでもある。

SNSで“いいね”の数を求め始め、“つながってる”“認められている”感覚の中で安心する。しかも、ふとしたことから小金稼ぎの仕組みに気づき、深く考えないままフェイクニュースの増幅に加担していく。

受け取る側も「ありえない」「~過ぎる」など、極端な表現・事例に安直に飛びつく。付和雷同と祭り好きが、増幅の温床となっている。

確信犯の存在

エンターテインメントの名手・野木亜紀子は、こうした小悪を操る巨悪も用意する。

コンペに参加する二つの企業の利害が絡んでいた。

ライバルを蹴落とすために、CSSニュース(CNNをもじったサイト?)の偽サイトを代理店に発注して制作させる。もはや犯罪だ。

さらに政治的な利権も関わっていた。その政争に、主人公・樹の過去の事件が絡み、しかも同僚・西(永山絢斗)が彼女を利用していたという展開になる。

多くの個人や組織の思惑がここまで複雑に錯綜するのは、「ドラマならではで、現実にはない」と信じたい。それでも確信犯の巨悪が、やろうと思えば利用できる状況がネットの世界にあるのは事実だ。

ではネットに歯止めがあるかと問われれば、甚だ心許ない。

例えば大手ポータルサイトが一部の記事をトピックスとして取り上げると、その記事のPVは2桁多くなる。そのトピックス編集部の方針は、取り上げる以上より多くのPVを稼ぎそうな記事に流れる。記事の真偽・社会的意義や影響力などはあまり配慮されない。

公共メディアを標榜する大手ネット企業でも、こうした側面は否定できない。“悪貨が良貨を駆逐する”環境が、まだまだネットには残っている。

では大マスコミが頼りになるかと言えば、そう単純でもない。

ドラマの中でも、樹を利用して手に入れた証拠をもとに西がスクープ記事を書いていた。ところが印刷前に上からの指示で掲載が却下されてしまう。

その瞬間に西は叫ぶ。

「こんなことやってるから、誰も新聞読まなくなるんだよ」

既存メディアへの不信感を象徴する記事の一部を、要約して紹介しておこう。『メディアだけではない! 既存組織の「信頼」が問われている:人間中心主義からAI中心主義へ』だ。

例えば反権力色の強いA新聞では、若手記者が独自調査の結果、安倍政権を支持するような記事を書いても、上層部のチェックがあり紙面には載りにくい。いっぽう営業的理由でA新聞の逆を行くS新聞では、記者が安倍政権を批判しにくい状況にある。

これは、組織的な判断が優先され、個々の新聞記者は言いたいことが書けない、ある意味で、「新聞社に言論の自由が無い」ということだ。

こうした組織の現実は、多くの読者の知るところとなっている。

より良きメディア状況へ

ジャーナリズムについての信念を持つ樹は、小銭稼ぎの小悪党に対峙した際、こう反論されてしまう。

「あんたたちマスコミも、人のプライバシー暴いたり、好き勝手しているじゃないですか」

「自分たちはプロだから違う?」

「同じ。適当にググったネタでいい加減な記事書いて・・・」

“ネットメディアが台頭する前から、新聞もテレビも少しずつ信頼を失っていた”ことを自覚する彼女は、こう返す。

「それを変えたいんです。何とかしたいんです」

樹のこの思いは、PV主義の権化だった編集長も動かす。

青虫混入事件を陰で操っていた巨悪を炙り出すため、サイトのメンバー全員を真相究明に走らせる。PV主義の権化だった編集長を翻意させた樹の言葉。

「嘘がまかり通る社会を、娘さんに残したいですか。社会の崩壊を見せたいですか」

「東雲、今のセリフ、用意してただろう」

「ここぞという時、使おうかと・・・」

「記者というのは嫌らしい職業だなあ。PVは稼げるんだろうなあ」

「ハイ」

野木シナリオの真骨頂というべき会話だ。

ドラマは冒頭で、食品から青虫が出てきて、怒りをそのまま行動に移してしまった猿滑のつぶやきから始まった。

それに便乗し、一面的な社会正義を増幅させる大衆が集まり、事態はのっぴきならなくなってしまった。不寛容社会・日本では、いつでも起こり得る事態だろう。

ところが一連の事件が収束し、浮浪者となった猿滑がエンディングでインスタント食品を食べようとした瞬間、再び青虫が枝から落ちて、カップ麺の中に入ってしまう。

飛び跳ねるほど驚いた彼は、嫌悪感いっぱいに虫を取り出す。ところが直ぐに、「まあ、死なないかぁ~」と満面の笑みを浮かべ、大好物のカップ麺を食べ始める。

メディアは社会現象と生活者をつなぐ仲介者だ。

その伝え方・意味合いの翻訳次第で、社会の反応は大きく変わる。ネットの負の側面から始めながら、『フェイクニュース』はメディア全般の問題を浮き彫りにし、“社会の崩壊を避ける”べく機能すべきと訴えた。

エンターテインメントの行間に熱い思いを込める手際に、改めて脱帽したい。