日本の政治や民主主義再考…自身の経験を踏まえたその失望と今後への期待

日本の政治や民主主義の中心は大丈夫なのだろう?(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

 筆者は、1980年代の中ごろから、政策研究や政策づくりに関わってきた。より具体的には、行政以外の政策情報源を創ることで、日本をより民主主義的な社会にすることに邁進し、シンクタンク、つまり東京財団(当時日本初の本格的な民間非営利独立型シンクタンク)や自民党系のシンクタンクなどを他の方々の協力の下で設立したり、東日本大震災から惹起した福島原発事故を調査する国会の原発事故調査委員会(国会事故調)の事務局に関わったり、厚生労働者の総合政策参与という立場で活動させていただくなど、民間、政党、国会、行政などの様々なセクターや場で、政策研究や政策づくりなどに関わらせていただいた。

 日本という終身雇用慣行のためにキャリア・モビリティーの低い社会において、そのような多種多様な経験をさせていただいたことは、ある意味ラッキーなことであると感じている。

 またそのような活動は、日本の政治や政策づくりが大きく変わろうとした、あるは変わらないわけにはいかない状況にあった時期と完璧といっていいぐらいに重なる。

 1980年代からは、それまでの行政中心の政策形成に行き詰まりが生じるようになり、また90年代初頭の東西冷戦構造の解体およびバブル経済の崩壊により、日本そして世界も大きく変わる必要に迫られた時期となった。その結果、日本では、政治主導や官邸主導の政治体制の確立が志向され、そのための様々な改革や変更がなされた。

国会は果たして立法府の役割を果たしているのか?
国会は果たして立法府の役割を果たしているのか?写真:つのだよしお/アフロ

 そのような状況において、筆者は、2000年代初めまでは、日本の政策や政策形成過程をその時代に即したものに変えることができるという自信が持てたし、そのように変えることができると確信していた。実際その予想通りに近い様々な仕組みづくりや活動にある程度成功したと実感できた。

 ところが、その後(特に2012年以降)の日本における政治や政策の状況などをみると、それは一時の出来事あるいは錯覚に過ぎなかったのではないかと思うようになった。

 さらに、新たなるテクノロジーの進展や中国をはじめとする世界構造の急速かつ大きな変化・変貌の中、筆者自身の海外視察(たとえば、中国の大湾区やイスラエルなど)の経験も踏まえて、日本は、良い社会ではあるが、一方で進化や変化することを忘れてしまった「ストップ・モーション」の社会・国になってしまったことを強く感じるようになった。特に日本の昨今の政治・政策状況およびテクノロジーの状況を観ると、その感をさらに深くせざるを得ないのである。

日本はDXにおいて世界の潮流から完全に遅れてきている。
日本はDXにおいて世界の潮流から完全に遅れてきている。写真:PantherMedia/イメージマート

 日本は、この10年近く、特に政治や政策においては、この国、この社会を前に進ませることを忘却し、不毛な議論を続け、時間や資源を無駄に消費させ、モルモットが回し車(回転輪)で運動しているのと同じような状態にあったと感じる。一方で、世界は、猛烈に変化し進化している。

 その結果、日本は、いつの間にか知らないうちに、先進国から脱落してきているように感じる。

 こんなことから、筆者は、先述した自民党のシンクタンクを閉鎖した時点(2011年2月)以来、その政治や政策の現状を知り、見るにつけ、自身の関わった活動は何だったのかという虚しい思いとこのままでいいのだろうかという焦りの気持ちに駆られてきていた。

 さらに近年の世界における政治情勢。先の大統領選で敗北したがトランプ大統領のようなある意味不条理な政治家などの出現(注1)、それらの人材に政治的に正統性を与える民主主義という政治制度への不信感、コラナ禍で明確になった民主主義的政治制度の不全および専制的な体制の優位性などなど、とりあげればキリがない多種多様な多くの難題が山積してきているように感じる。

 筆者は、民主主義は本来、多くの問題や課題はあっても、やはり最善の政治制度であると考えてきたが、昨今はその「民主主義」にも疑問を感じることもある。

 こんなことを考えているときに、ドラマ「サバイバー:60日間の大統領」(注2)を観た。これは、米国ドラマ「サバイバー:宿命の大統領」をリメイクした韓国ドラマだ。テロやクーデターが起き、偶然にも大統領代行となった主人公が、厳しい決断を迫られながらも、国民のために戦う政治ドラマである。このテロやクーデターの背景には、韓国における民主主義の不全とその政治制度やそこにおける政治リーダーを理解できない国民への政治や権力者側からの不信感等が背景にある。これは飽くまでも、ドラマであり、現実そのものではないが、そこに描かれる内容や出来事は、政策や政治に若干は関わった経験のある筆者も実際の政治や政策づくりにおいて非常に強く感じるところである。

 特にこの数年の政治や国会における議論や報道を見ていると、日本という社会にとっても、民主主義という政治制度が果たしてフィットしているのかを疑問に感じることも多い。民主主義的には、当然に「民意」が重要だが、そうであるがゆえに、国民がわかりやすいトピックやテーマが議論の中心になりがちだ。本来はメディアが国民と政治・政策の溝を埋める役割を果たすべきだが、日本のメディアは逆に「わかりやすく人の関心をひきやすいトピック」を主にとりあげ、その溝を広め、国民が政治や政策の重要部分をわかりにくくしているように感じる。

 さらに最近の社会のデジタル化の進展において、「フェイクニュース」(注3)に象徴されるように、情報さらに社会的に混乱が起きやすくなってきている。その状況は、特に民主主義社会において、より深刻になっているように感じられる。

 これに対して、中国をはじめとする専制的社会においては、権力の側が必ずしも競争性に基づく公正な選挙では選ばれるわけではないが、AI、ビックデータやIoTなどを通じて、社会におけるルール違反行為や犯罪が抑制され、街が安全で清潔になったり、生活における利便性が急速に高まっている。それにより人権侵害なども問題も起きているようだが、全体としては社会全体としてはプラスに受け止められている面も生まれている。今回のコロナ禍でも、中国などでは、デジタル化の活用などで、短期に問題を抑制するのに成功している。 

中国はデジタル専制に確実に進んでいる。
中国はデジタル専制に確実に進んでいる。写真:ロイター/アフロ

 これこそがいわゆる「デジタル専制」だ。これにより、専制的制度の評価が評価されたり、その仕組みを導入するような国もでてきているのである。

 このようにして、筆者は、それらに対して何とかしたい改善したいという気持ちも有しながらも(注4)、日本の政治や政策形成に対して、さらに民主主義に対して、ややネガティブな気持ちや考えを持ってきているといわざるをえない。

 そんな時に、著書『Au オードリー・タン 天才IT相7つの顔』を読んだ。

 同書は、コロナ対策などから国際的にも天才として注目される、台湾IT相オードリー・タンさんを、その生い立ちから多面的に描いている。

 だが、同書の良さは、タンさんの個人の實相を描いてるだけではなく、台湾におけるデジタルを活用し、国民を巻き込んだ新しい政治や政策形成のあり方、つまり「デジタル民主主義」を描いているところだ。このデジタルを活用した民主主義を運営する試みは、世界の各地で行われているが、必ずしも成功しているとはいえない。その意味では、同書には、台湾での成功事例が描かれている。

 実はこの「デジタル民主主義」と先に述べた「デジタル専制」は、テクノロジーを活用して、民意を集約し理解し、それを活用して社会を運営するという意味では、ある意味非常に似ているのだが、その運用者や活用の仕方が異なり、実は似て非なるものであるといえよう。

 そこでここでは、同書に描かれた台湾の事例に範を取って、「デジタル民主主義」の特徴あるいは定義について考えていきたい。

 その特徴や定義としては、次のような点があげることができるだろう。

・政治リーダーあるいは代表者は、国民・有権者によって正統に選ばれている。

・「公共のことについて政府が事務処理を行うに当たっては、多くの人々がオープンな状況で参加し、議論し、監督できるシステムを、各方面のステークホルダーが構築する必要がある。そうすれば、テクノロジーは社会が民主の価値を深めるのをサポートする。」(同書P194)

・「ガバナンスの過程で得られた信用するに足るデータが、政策立案の根拠になることを、民主社会を深化させる鍵となる。」(同書p194)

・「衆知を集めて有益な意見を広く吸収し、さまざまな客観的データを用いて各方面で協議する。そしてデータを持続的に共有し公正性の価値を明らかにする。そうすれば、徐々に高い素養と強い信頼感のある社会が作られる」(同書p194)。

・経験を通じて、政治に参加するのは「当然のことだ」「楽しいこと」と考える国民が存在する(同書p209参照)。

・「もし一人ひとりが自主的に考えることができれば、この社会には多様性が生まれ、1つの意見によって何かが決定されることなく、継続的な検証に耐えられるでしょう。そうなると、社会に新たな衝撃が生じた時に、完全に打ちのめされることもありません。」(同書P195)

・タン氏のような、テクノロジーを深く理解し、国民と政治・政策を公正無私につなげることのできる人材が存在する。

・上記のような環境および状況さらに人材の存在を通じて、テクノロジーを活用した仕組みに対する信頼が存在している(注5)

 これらは、正にいわゆる「専制政治」とは大きく異なるといえるだろう。

 筆者は、同書を読んで、最近の民主主義への否定的な気持ちや日本の政治・政策形成における失望感・虚無感のようなものに対して、光明を感じることができた。また最近のテクノロジーの進展や可能性には期待を感じていたが、民主主義や政治制度の中でどのように活かすかの方策は必ずしも見いだせていなかったが、同書から、そのヒントも得られたように感じる。

 筆者としては、これまでの経験も踏まえて、今一度、日本における政治や政策形成そしてさらに民主主義の再構築にトライしていきたいと考えている。

 それは、日本こそが、筆者そして私たち日本人の「プライド(誇り)」だからである。

(注1)ドイツのナチ党やヒットラーを生み出したのも、選挙によって国民が熱狂に支持した民主主義の産物だ。もちろん、民主主義は、短期的に判断するべきものではなく、社会が、経験を積み、修正を行いながら、中長期的に社会を運営していくための政治制度であると考えるが。

またトランプ前大統領に関しては、著書『世界で最も危険な男』は、興味深い著書だ。著者は、トランプ前大統領の姪だが、トランプ家の中で不当な扱いをされたという家族の一員なので、書かれていることが100%信頼できるかはどうかはわからないが、同前大統領の言動と符合することが多々書かれている。ここに書かれていることが事実なら、民主主義とか選挙という仕組みが如何に機能しない仕組みであるかと考えざるを得ない。

さらに、『一流の狂気』も政治制度や民主主義を考える上では、非常に参考になる著書だ。

(注2)このドラマは、政治制度や社会・国民のあり方、民主主義・選挙を考える上で非常に参考になる。

(注3)「フェイクニュース」とは、「主に、ウェブサイトやSNSで発信・拡散される、真実ではない情報。時に、マスメディアが発信する不確実な情報についていうこともある。[補説]政治的な目的で世論を操作するため、運営するウェブサイトのアクセス数を増やすため、ただ単にセンセーショナルでおもしろいからなど、さまざまな理由で発信・拡散され、その影響力が大きいことから社会問題となっている。」(出典:デジタル大辞泉[小学館])

(注4)この気持ちは、最近はまた戻って来ているが、正直一時は絶望感や虚無感しかなかった。

(注5)電子立国(e-country)として知られるエストニアでは、「エストニアでは、国民のテクノロジーを活用したシステムに対する信頼は高いが、政治家への信頼は低い」(著書『未来国家エストニアの挑戦』の著者の一人ラウル・アリキヴィさんの言葉)という。