ルポ・技能実習生が「逃げる」ということ(5)「死ね」と言われ殴られて、ベトナム人男性が行き着いた入管

多数の技能実習生を送り出しているベトナム北部の農村の家。筆者撮影

 技能実習生の中になぜ会社から逃げることを選ぶ人が出てくるのか――。日本政府は会社から技能実習生が逃げることを「失踪」と呼ぶ。しかし、技能実習生が会社から出ることは「失踪」という言葉では容易には片づけられない。私はこれまで4回にわたり外国人労働者が雇用主のところから「逃げる」ということについて書いてきた。

 今回は、会社から逃げだした後に、入管の収容施設に入れられた技能実習生についてリポートする。

◆若者の就職問題と移住労働

 「入管の施設で日本語を覚えました」

 2018年8月。屋外の空いたスペースにプラスチックのイスとテーブルをさっと並べただけのハノイ市内ではどこにでもあるような即席のカフェでのことだった。ベトナム人男性のグエン・バー・クアン(仮名)さんがきれいな発音の日本語でこう打ち明けたのだった。入管の施設をめぐっては読者もご存じのように、かねて収容者への人権侵害が起きていることが指摘されている。いったい彼に何があったのか。そうした施設でなぜ日本語を覚えたのかと、私は戸惑った。

 車とバイクの大群が行きかうハノイ中心部で、私はその日の夕方、クアンさんと待ち合わせをした。仕事の後、この渋滞の中を二輪車でわざわざやってきてくれた彼だったが、私を見つけるとすぐに笑顔をみせてくれた。仕事用だろうか、白っぽいシャツに黒いズボンを合わせている。8月のハノイは夕方近くになってもまだ昼間の熱気が残り、気温が下がらない。二輪車と四輪車の波は途絶える気配もなく、排気ガスのせいか、空はうっすらともやがかかったようだった。路肩のカフェに入り、飲み物を注文をする。クアンさんと私は冷たいベトナムのお茶を頼んだ。

 お茶でのどを潤し、落ち着いたのか、クアンさんは少しずつ口を開き、私に日本での経験を説明し始めた。それは、このありきたりのカフェで聞いてしまっていいのかと思うような複雑かつ苛烈なストーリーだった。

ハノイ市内。筆者撮影
ハノイ市内。筆者撮影

 90年代初め、クアンさんは農業を営む両親のもと、ベトナム北部の農村部に生まれた。父は従軍経験を持つ。ベトナムは1975年にサイゴンが陥落しベトナム戦争が終結し、翌76年に現在のベトナム社会主義共和国が成立した。その後、カンボジア侵攻と中越戦争という軍事紛争が起こり、国際社会でベトナムは孤立し、国際関係は旧ソ連など社会主義友好国に限られた。1986年に外資への門戸開放と市場経済の導入を柱とする「ドイモイ(刷新)」政策が採択された後、ベトナムへの外資の投資が拡大するのは90年代以降だ。現在日本に来る技能実習生の多くは20代前半とみられるが、彼ら彼女らの父や母は戦争世代である上、技能実習生本人もまた、移行経済下のベトナムにおける経済成長と格差の広がり、社会の変化の中で生きてきた人たちだ。

 そんな社会の急速な変化の中で、クアンさんは高校卒業後に大学へと進んだ。経済成長のさ中、ベトナムでは都市部を中心に進学熱が高まっている。北部の農村で農業をして暮らしていた両親やきょうだいは高等教育機関には進まなかったが、クアンさんは違った。彼は大学受験に成功し、4年制大学への進学を果たしたのだった。大学では経済を専攻したという。時あたかもベトナムは経済成長時代を迎え、海外との貿易関係が広がるとともに、対越投資も伸びている。大学で経済を学ぶことで、クアンさんの就職の可能性は広がりそうだった。

海外への移住労働者を多く出しているベトナム北部の農村。筆者撮影
海外への移住労働者を多く出しているベトナム北部の農村。筆者撮影

 しかし現実はそう甘いものではなかった。

 ベトナムでは大卒者や短大卒者など若年層の就職問題がかねて起きている。せっかく大学まで進んでも、高学歴者が希望の仕事に就くことが難しい状況がある。学歴が高くなればなるほど、処遇や仕事内容に期待が高まるものの、思うような仕事にはつけないのだ。同時にベトナム社会では就職にコネやわいろが用いられることもある。公務員や大企業の社員など福利厚生が整った組織で働くために100万円単位でわいろを払ったという話も聞く。コネもわいろを払う経済力もない若者はたとえ大学を出ていたとしても、処遇の良い仕事を探すのが難しくなる。

 私が聞き取りをした台湾で家事労働者として働いたベトナム人女性の中には、「息子の就職のためにわいろが必要」だということが移住労働を行う理由の一因になっていた人もいた。コネがない人たちが社会階層の階段を上り、より安定した仕事に就くには、わいろが必要になる事例が存在する。ベトナム社会における社会階層の硬直化やわいろの横行、若年層の就職問題もまた、移住労働の動機形成の一因になっていると言えるだろう。

 クアンさんは大学を出てから、当座の生活のためにアルバイトをしていた。せっかく大学で学んだものの、なかなか思うように道が開けない。そんな焦りの中、クアンさんは周囲から日本行きの話を聞くようになった。友達の中に、技能実習生として日本に行った人がたくさんいたのだ。政府が海外への労働者の送り出しを進める「労働力輸出(xuat khau lao dong)」政策を掲げるベトナムからはこのところ、日本、台湾、韓国をはじめとする海外に移住労働に行く動きが広がっている。その中で、日本へ技能実習生や留学生として行く人が増えている。

 「本当はベトナムに良い仕事があれば、日本には行きたくなかったんです。家族といたかった」というクアンさんだが、地元で処遇の良い仕事を探すことが難しい中、日本へ技能実習生として行くことが人生の選択肢として浮上してきた。日本で働けば、お金を稼ぎ家族に仕送りしつつ、就労経験を積むことができると期待したのだ。

 ベトナム人が技能実習生制度の下で技能実習生として来日するには、ベトナム側の仲介会社(送り出し機関)を利用しなければならない。そこでクアンさんはインターネットで、ハノイ市にある仲介会社を見つけ、この会社に2億5000万ドン、日本円にして122万円ほどを支払った。このうち3000米ドル(約34万円)は保証金で、これは契約期間を終えて帰国すれば戻ってくるが、技能実習の途中で実習先企業から逃げた場合は没収されることになる預け金だ。

ベトナムの首都ハノイ。筆者撮影
ベトナムの首都ハノイ。筆者撮影

 クアンさんの家族はこれだけのお金はなく、家と土地を担保にして、ほぼ全額を銀行から借り入れた。クアンさんとその家族は日本に行くことに希望を持ち、日本に行くことで経済状況が改善し、彼の未来が開けると期待したのだ。

 このようにベトナムでは技能実習の希望者が現地の仲介会社(送り出し機関)に手数料を支払う仕組みが出来上がっている。この手数料は仲介会社や日本での職種により差異があるが、クアンさんのように100万円を超えることもあるなど高額だ。技能実習生はこれだけのお金を持っていないことが多く、借金をし手数料を払うケースが少なくない。日本側では技能実習生の受け入れを希望する企業が監理団体に監理費を支払う。企業が技能実習生を直接採用するのではなく、企業と技能実習生との間には送り出し地の仲介会社(送り出し機関)と日本側の監理団体が入り、この2つの仲介組織がそれぞれ技能実習生と企業から手数料をとる構図がある。ベトナムと日本との間に技能実習生の送り出し/受け入れを行う移住産業が形成され、借金漬けの労働者が生み出されている。

 技能実習制度について、日本政府は「国際貢献」「途上国への技術移転」だと言い続けてきた。しかし90年代にこの制度がスタートして以降、研修生・技能実習生に対する人権侵害が何度も発生している。それでも、送り出し地ベトナムではいまだに、貧困や経済格差、若者の就職問題、コネの重視を含む社会階層の硬直化といった状況の中で、日本に行くことは経済状況を改善する「希望」として捉えられている。同時に移住産業が形成される中で、ベトナムで送り出しビジネスを担う仲介会社(送り出し機関)と日本側の監理団体は事業の継続のためにも技能実習生の送り出し/受け入れを続ける。いったん動き出した移住産業が維持されるために、問題があったとしても、技能実習生の送り出し/受け入れが継続されるのだ。

◆砕かれた希望

 クアンさんは2015年に来日し、北海道の中小企業で就労を開始した。

 だが、技能実習は彼の期待通りのものではなかった。

 月曜は朝7時には仕事場に出て、同9時まで掃除をすることが求められた。9時から12時まで仕事をし、12時から午後1時の1時間は昼休みになる。午前中は休憩がない。1時以降は午後3時半まで仕事し、30分の休憩をとってから、午後4時から同6時半まで作業をする。火曜日から土曜日までは午前8時から同9時までが掃除で、9時からは月曜同様の流れでやはり午後6時半まで作業となる。休みは日曜だけだった。

移住労働者を多く送り出しているベトナム北部の農村。筆者撮影
移住労働者を多く送り出しているベトナム北部の農村。筆者撮影

 仕事前の掃除の時間は拘束されているのだから、残業代が払われるはずだった。しかし残業代は計算されることはなかった。時給は「765円か768円くらい」(クアンさん)だったという。厚生労働省の資料によると、北海道の最低賃金はクアンさんが来日した2015年が764円となっており、彼の実習先企業の時給は最低賃金に数円付け加えた水準だったようだ。

 仕事の前に掃除をさせられ、土曜日も働いていたが、残業代はつかず、給与から寮の家賃と水光熱費、税金、社会保険料などが引かれると、手取りは月8万~11万円程度にしかならなかった。

 住まいにも問題があった。寮の部屋は20~30平方メートル程度で、ここで他の技能実習生3人と共同生活をした。クアンさんは「汚く、カビも出ました。カビについて監理団体に訴えたのですが、何もしてくれませんでした」と話す。クアンさんたちは家賃と水光熱費として1人当たり月に3万円、3人で合わせて9万円を払っていたことになる。インターネットの設備もなく、通信手段がない状況だったため、自分たちでお金を出してWi-Fiの設備を買った。

 クアンさんは渡航前費用のためにできた借金があるため、無駄遣いはできない。食費を含む生活費を月2万~3万円に切り詰め、残りを全額故郷に送り、借金返済に回した。自由に使えるお金がないので、休みの日に出かけることはほとんど出来ず、休日は部屋で日本語の勉強を続けた。

 職場では別の問題も持ち上がった。

 思いがけないことに、クアンさんたち技能実習生は日本人社員から暴力と暴言の被害に遭ったのだ。来日してすぐのクアンさんたち技能実習生は日本語がほとんど分からなかった。日本人社員もベトナム語ができるわけではない。規模の大きな受け入れ企業の場合、社内にベトナム語と日本語の通訳を行えるベトナム人スタッフがいたり、監理団体のベトナム人職員が受け入れ企業を定期的に訪れベトナム人と日本人との間のコミュニケーションの問題解決を促したりするケースもあるが、小規模なクアンさんの会社にはそうした人はいなかった。言葉の問題からコミュニケーション自体がなかなか成り立たず、日本人社員の指示通りに技能実習生が仕事することができない場面もあった。

 「私たちが日本語が分からない時、日本人の社員に怒られました。私はこの人に『死ね』と言われました」と話すクアンさん。この社員は他の技能実習生にも「死ね」という言葉を投げつけていたという。

 その上、クアンさんは日本人社員に2回ほど殴られた。

 クアンさんは「殴られてしまって、本当に嫌な気持ちになりました」と、つぶやく。大きな借金をしてまでやってきた日本で彼が経験したのは暴力と暴言だった。

 給与や生活の問題。そして暴言に暴力。しかし、それでも技能実習生は実習先企業を変えることが原則できない。そして借金を返す必要があるため、途中で帰国するわけにもいかず、ここで働き続けなければならない。クアンさん以外の技能実習生もこの日本人社員に殴られていたが、同様に我慢して働くほかなかった。

 クアンさんはこうした状況の中で、気持ちを抑えながら仕事を続けた。しかし、残業代の未払いと賃金の低さ、暴力や暴言について納得できるわけもなく、悩み続けることになる。

 こうした暮らしの中で彼は悩みながら、この状況から脱する方法を探そうとした。そして最終的に会社から逃げることを考えるようになり、SNSを通じて日本にいるベトナム出身の友人に相談をするようになった。本来はこうした事態については、監理団体が対処すべきだろう。しかし寮のことを含めて監理団体には取り合ってもらえず、相談先にはならなかった。日本の法律や労基署、労働組合をはじめとする支援者に関する知識もなく、クアンさんには安心して相談できる相手がいなかった。相談できるのはベトナム人の友人だけだった。

 技能実習制度のもとでは、技能実習生は実習先企業を変更できない上、住まいは会社が提供する寮だ。在留資格と仕事、住まいが一体化しており、がんじがらめの状態となっている。技能実習生は会社から出てしまうと、仕事だけではなく住まいも失う。実習先企業以外で就労することは制度上できず、実習先企業以外で働けば「不法就労」と呼ばれ、取り締まられる。会社から出る/逃げるということを日本政府は「失踪」という言葉で片づけてきたが、技能実習生本人にとってみると、会社から出る/逃げるということは仕事も住まいも在留資格もすべて失うという相当のリスクを抱えることだ。逃げたくて逃げる技能実習生などいるのだろうか。

 来日してから1年と少したったころのこと。クアンさんは思い悩んだ末に会社を出るという決断を下した。それは低賃金で働きながら、暴力と暴言を受けてしまった彼にとっては「避難」であり、困難な問題をなんとかするための「残された解決策」だった。クアンさんは北海道を出て、関東地方のある町に移ってきた。

◆「逃げてきた私たちに権利はない」

 クアンさんは、たどり着いた関東地方の町にある農家で働くことになった。そこは家族経営の農家で、経営者は逃げてきたベトナムやインドネシア出身の技能実習生や留学生など10数人を雇用していたという。クアンさんは友人からの紹介で、この農家に行き着いた。

 私は「ルポ・技能実習生が『逃げる』ということ(3)逃げても続く搾取の中で日本経済支える実習生、『共生』の嘘」で、逃げてきた技能実習生などに仕事を紹介する派遣会社のことを書いたが、クアンさんの事例では派遣会社など仲介組織は介在せず、雇用主が逃げてきた技能実習生を直接雇用していた。雇用主は彼らが逃げてきた技能実習生や留学生であることを承知し、雇っていたことになる。

 

 農家での仕事は朝が早い。仕事は朝6時に始まり、1時間程度のお昼休憩をはさんで、午後6時ごろまで続いた。1日11~12時間労働だった。休みはほぼなかった。病気になったときだけ休みが取れた。

 寮は衛生状態の良くないところだった。30平方メートル程度の部屋に4人で暮らした。これで家賃が1人月に3万円で、4人で12万円払っていた。

 時給は729円。2016年当時のクアンさんが居住した都道府県の最低賃金は時給770円程度だったので、これでは最低賃金割れだ。北海道時代の時給よりも低い。しかし皮肉なことに正規の在留資格で就労していた北海道の時とは異なり、残業代がついた。残業代が出たことで、給与は最初の1カ月が月15万円、翌月は19万円になった。農家で土曜日も日曜日も休みなく働いた上でのことだったが、それでも北海道での技能実習生時代よりも給与が上がっていた。

移住労働者を多く送り出しているベトナム北部の農村の家。筆者撮影
移住労働者を多く送り出しているベトナム北部の農村の家。筆者撮影

 とはいえ、日本に来るために仲介会社(送り出し機関)に支払った借金はまだ残っている。彼は北海道で働いていたとき、借金全体のうち70万円ほどを返済していたが、122万円も借りていたので、借金額は少なくとも50万円以上残っている。

 さらに寮は町から離れた場所にあった。そこは食料品を買いに行くにもタクシーを使う必要があるような場所だった。外出するには、みなが「社長」と呼ぶ農家の代表者から許可をもらうことが求められた。許可が出て初めてスーパーにタクシーで行くことができたのだ。お米や魚などの食品、それにシャンプーや石鹸などを買った。時にはビールも買った。楽しみは食事とお酒くらいしかないのだ。町までは遠いため、スーパーに行くだけで往復5000円程度のタクシー料金がかかったが、ほかに方法はなかった。「社長」が外出を許可しないこともあった。しかし食品や日用品がなければ生活できない。そんなときは、「社長」に知られないように、誰か1人だけがこっそりスーパーに向かった。仕事は休みがなく楽ではない。住環境も良くない。買い物にも自由に行けず、とても人間らしい生活とは言えない。

 クアンさんは何かを悟ったような表情で、こう淡々と話す。

 「私たちはみんな逃げた人たちですから、権利がないんです。文句を言うことはできなかったんです」

 クアンさんは思い悩んだ末に、押し出されるようにして北海道の実習先企業から逃げたわけだが、次の職場でも搾取された。しかし行くところはない。借金も残っており、収入を得て早く返済しなければならない。またしても、クアンさんができることは、我慢することだけだった。

 逃げてきてから数カ月が経ったある日。思いがけないことが起きた。

 入管が寮に入ったのだ。寮にいたベトナム人とインドネシア人はクアンさんも含めてすべて捕まってしまった。それは彼が農家で働き始めてたった2カ月後のことだった。クアンさんは逃げることはできたものの、日本で働きつづけることは結果的にできなかった。

 私が話を聞いた会社から逃げた経験を持つ技能実習生はたとえ会社から逃げることができたとしても、その後の「逃走の軌跡」は人それぞれで、様々なストーリーがあった。逃げた後、何年も継続して日本で就労し、それなりの仕送りができた人もいれば、逃げた後に仕事をまったく見つけることができずに帰国した人もいた。クアンさんのように少しの間は働くことができた人でも、なにかのきっかけで入管に拘束され、強制送還された人もいる。ベトナム人が国境を超えて日本へと渡り、そこで就労していくという「移住労働の軌跡」は人それぞれの物語があるが、「逃走の軌跡」もまた多様だ。運次第としか言えない部分も少なくない。

◆難民認定申請

移住労働者を多く送り出しているベトナム北部の農村。筆者撮影
移住労働者を多く送り出しているベトナム北部の農村。筆者撮影

 農家で働くことができたのはたった2カ月で、借金はまだ残っていた。ベトナムで就職問題に直面したクアンさんの来日目的は日本でお金を稼ぎつつ、就労経験を積むことだった。しかし彼は当初の目標を果たせないばかりか、借金だけ抱えているのだ。クアンさんはあきらめることができなかった。そこで彼が考えたのは、難民認定申請を行う事だった。

 「ベトナムには帰りたくなかった。それで入管の施設にいたときに難民認定の申請をしました」

 法務省のまとめによると、日本における難民認定申請数は2008年に1599人だったものが、2017年には1万9629人にまで増加した。ベトナム国籍者の難民認定申請数は2015年に574人だったものが、2017年には3116人となり全体の15.9%を占め、国籍別では首位のフィリピン(4895人)に次ぐ2位となった。

 こうした難民認定申請者の中にどの程度、技能実習生がいるのかは分からない。ただ、技能実習制度の関係者からはときおり、一部の技能実習生の中にクアンさんのように会社から逃げた後、難民認定申請を行う人がいると聞いたことがある。

 これを難民認定制度の「乱用」と片づけるのは簡単だ。しかし、クアンさんのようにもともと実習先企業で賃金未払いや暴力などの問題を抱え、悩みぬいた末に会社から逃げた人が難民認定申請をすることを、制度の「乱用」と切り捨てることには疑問が生じる。

 難民認定の申請者を含む受け入れ地で庇護を求める人を英語では「asylum seekers」、フランス語では「demandeurs d'asile」と言う。日本語では「庇護申請者」と訳されている。

 「asylum/asile」という言葉は聖域、避難所、安全な場所といった意味を持つが、クアンさんの場合、借金漬けの状況で技能実習生として低賃金労働をしつつ、残業代未払いや暴力・暴言の被害に遭い、その状況から逃れるために会社から出た。そして、その後も農家で働き搾取された。日本政府は会社から逃げてきた技能実習生を「失踪者」と呼び、あたかも勝手に会社から出ていったかのように扱い、取り締まりの対象とする。だが、クアンさんは「asylum/asile」を求めて逃げてきた人であり、本来は保護され、かつ権利回復が図られる必要がある人だったのではないだろうか。

 技能実習生による難民認定申請を制度の「乱用」であると切り捨てることはたやすい。しかし、彼ら彼女らがなぜわざわざ難民認定申請をするに至ったのか、それぞれの背景を理解することが必要だ。

 12月13日付のNHKの報道によれば、法務省は、2017年までの8年間に外国人技能実習生ら174人が死亡したと明らかにした。亡くなった技能実習生はもともと、日本に働きに来て家族に仕送りしようとしていたのではないだろうか。それなのに、なぜ日本で死ななければならなかったのか。なぜ亡くなってしまう前にそれを防ぐことができなかったのか。日本で命を落とした技能実習生の中にクアンさんのように「asylum/asile」を求めていた人もいるのではないかと、私は勘ぐってしまう。

◆「入管施設には何もない」

移住労働者を多く送り出しているベトナム北部の農村の家。筆者撮影
移住労働者を多く送り出しているベトナム北部の農村の家。筆者撮影

 難民認定申請をしたクアンさんは、帰国を拒み、結果的に入管の収容施設に1年弱入っていた。聞き取りをした会社から逃げた経験を持つ元技能実習生の中には入管の施設に入り、1週間以内で帰国する人もいたが、クアンさんの場合、帰国を拒んだことで収容期間が長期化した。

 

 「収容施設にはいろいろな国の人がいます。私は縦が9メートルほど、横が7メートルほどの畳敷きの部屋にいました。この部屋は8人部屋で、中にトイレもあります。就寝中以外は壁際に布団が積まれ、真ん中にテーブルがありました」と、クアンさんは説明する。収容施設は個室ではなく、相部屋で多国籍の収容者が入れられているのだという。

 また、自分の部屋から自由に外に出て良い「開放時間」が設定されている。「開放時間は午前7時半から12時、午後1時から同4時半で、お昼ご飯を食べる12時から午後1時は自室のカギが閉められました」と、クアンさんは言う。

  

 こうした環境の中、クアンさんは思いがけない体験をする。施設内では収容者の共通語が日本語だったため、そこでの暮らしは日本語を学ぶ機会となったのだ。技能実習生として正規の在留資格で就労していたときも関東地方の農家で働いていたときも、クアンさんは職場の日本人と人間関係を構築することはできず、日本語を十分に学べなかった。皮肉なことに、入管施設という自由のない場所に入れられたことで、日本に来て初めて周囲の人と人間らしい関係を築くとともに、日本語を覚えたのだ。

 収容施設内で彼は、さらに収容者によるハンストなどの抗議行動を目撃する。自分を含め我慢を強いられる外国人労働者ばかりみてきたクアンさんだったが、収容施設で彼は抗議する人たちに出会ったのだ。

 しかし、そうした経験をしたとしても、クアンさんにとって収容施設で過ごす時間は苦しいものだった。

 クアンさんはこう言う。

 「入管の施設には何もありません。仕事がありません。人間は仕事がないと、嬉しいこともありません。やることがないのです」

 そして、収容されてから1年が経とうとする中、クアンさんは最終的に日本で働くことをあきらめ、ベトナムへと帰ったのだった。収容施設からいくら難民認定申請をしたところで、認められることはなかった。借金のこと、そして将来が気にかかる。限界がきたのだ。収容施設で日本語を覚えたクアンさんだったが、彼には日本で働く法的権利はない。残ったのは日本語とともに、渡航前費用の借金だけだった。

 借金漬けの労働者を生み出す移住産業が送り出し地のベトナムと日本との間に形成される中、技能実習生は借金ゆえに交渉力の弱い労働者となっている。さらに技能実習生は制度上、原則として実習先企業を変更できない。職場で問題があっても、クアンさんのように監理団体が取り合ってくれないこともある。技能実習生から就労先企業に対する好意的な話を聞くこともある。しかしどのような企業で働けるのかは運次第だ。

 支援体制にも課題がある。政府による支援が不足する中、各地の労働組合や法律家、一般の人たちが技能実習生からの相談を受け、未払い賃金や暴力、セクハラ、労働災害などの問題に取り組み、草の根で技能実習生の権利回復を支援している。ただし日本語のスキルが不十分で、日本の法律や制度に対する知識もあまりない技能実習生が少なくない中、支援者にたどり着ける人は限られてくる。こうした状況の中、会社から逃げる人が出ている。

 本来、暴力や賃金未払いに直面した外国人労働者は保護の対象ではないか。しかし日本という国は、借金漬けの労働者を生み出す構造と技能実習生を取り巻く様々な人権侵害をそのままに、逃げてきた技能実習生を十分に保護することなく、最終的に国境の外に放り出している。事実、クアンさんは帰国するほかなかった。

 国境の外に投げ出された人はどうすればいいのか。(「ルポ・技能実習生が「逃げる」ということ(6)」に続く。)