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海外組のリアル 「覚悟」(3) 日本人ブームに沸くドイツでの違和感

杉山孝フリーランス・ライター/編集者/翻訳家
コブレンツでプレーしていた頃の中居さん(写真:アフロ)

世界最高峰のイタリアで、プロサッカー選手になる。4年越しの夢をかなえた中居時夫さんだったが、舞台は暗転する。ようやくつかんだプロ選手としての立場が、自分ではどうしようもない世界の変化で吹き飛んでしまったのだ。

<前回まで>

第1回「阿部勇樹が認めた才能」

第2回「カッサーノの称賛と最後に待ち受けた地獄」

失意の帰国、落胆の日々

セリエC2(3部リーグ相当)ながら、イタリアでプロ契約を勝ち取った。中居時夫さんは憧れのACミランと近い関係にある、プロ・セストというクラブでプレーすることになったのだ。

だが、2002-03シーズン開幕3週間前、すべてが吹き飛んだ。突然、セリエCの外国人選手枠が撤廃されたのだ。渡欧から4年間の努力が、まさに無に帰した。「イタリアでの世話をしてくれていた人にも説得されたんですが、頭の中がもう、壊れてしまって」。日本に帰るのが、やっとだった。

「あまり覚えていないんですけど。ずっと部屋に閉じこもっていたらしいです。1カ月半くらい経って何とか立ち直って、またサッカーやりたいという気持ちになってはきましたが、1カ月半もサッカーしないことなんてなかったので…。復活した時には、体が思うように動かなくなっていたんですよね」

在籍当時の中居さんを知る強化部のおかげで、「出た瞬間から、もう戻れないと思っていた」という古巣の横浜F・マリノスでの練習参加が許された。「体が動かなくて、いつもなら余裕で追いつけるボールを追っても、かっさらわれたりしました。今まで自信満々にやってこられたことが怖くなってしまって、すべてがうまくいかなくなっちゃったんです。メンタル的にもやられていたと思います」。それでも一旦は「1年くらいなら」と契約へ進みかけたが、翌2003年からの就任が決まった岡田武史新監督の眼鏡にかなわず、話は流れてしまった。

東京ヴェルディでの入団テストには、最終段階で落ちた。クラブ探しは年をまたいで続いたが、湘南ベルマーレでは、「サミアという監督に1日で落とされた」。JFLのチームから合格印を与えられたが、プロでありたい自身の心に踏ん切りがつかず、見送った。結局、横浜F・マリノスでのジュニアユース時代の恩師が指揮を執っていた、当時関東1部リーグのY.S.C.C.でプレーすることになった。

その後、京都の2つのアマチュアチームでプレーした。気付けば日本に戻って7年近くが経とうとしていたが、昔の自分を取り戻せない。「もう一度、海外で挑戦しよう。これで最後だ」。28歳で、重い決断を下した。

ドイツで目にした「アマい」日本人

2009年に戻ったイタリアで、下位リーグでは外国人選手枠に変化の兆しはなかった。6部から再スタートを切ったものの、1年経っても何も変わらない。もう、自分から無理矢理にでも変化を生み出すしかなかった。

下を向きがちだった視線を、再び上に向けた。視界に入ってきたのが、ドイツだった。「いろいろ調べたら、外国人枠がとても緩く、日本人選手にとってすごく環境が良い国だということを知りました」

イタリアとは打って変わって、2011年に渡ったドイツではすべてがうまく運んだ。

最初に加わったクラブでは、人に恵まれた。5部リーグながら、プロチームを率いることができる指導者ライセンスを持つ監督が指揮を執っていた。「30代後半くらいとまだ若かったのですが、すごく良い考えを持った監督だったんです。すごく情熱のある方で、ドイツで最初に彼に指導してもらったのが、僕にとっては幸せなことだったと思いますね。すごく内容の濃い半年間で、ドイツ語もしゃべれないのに、ずっと試合に出させてもらいました」。その監督は、のちに驚くような場所まで上り詰めることになる。

対戦した際に気に入られ、新シーズンが始まる夏には4部のコブレンツへと移籍した。クラブの計らいで、ドイツ語学校に通わせてもらうことにもなった。学校へ行っている午前中にチーム練習は終わってしまっても、コーチが午後にマンツーマンで指導してくれた。ちょうど日本代表MF香川真司がドルトムントの中心選手としてブレイクした頃で、日本人に対する追い風が吹いていたのかもしれない。

そうした流れに乗って、周囲に日本人が増えてきた。プロ選手になるという夢を追ってドイツにやってくる日本人選手の数が飛躍的に伸びてきたのだ。すると、イタリアとは違う環境で見えてきたことがある。

「ドイツがワールドカップで優勝した2014年が、ピークだったんじゃじゃないでしょうか。日本人のアマチュア選手が100人以上もいる、とドイツの新聞で記事になっていました。日本でプロになれず、環境を変えることでチャンスを得られるんじゃないかという人が多いと思いますが、行けるのは5部かせいぜい4部までなんですよ。

5部はチーム数も多いし、プレースタイルがドイツに合って、活躍する選手もいました。日本人への評価も高かった。でも、そのせいで、本来そこでプレーするレベルに達していない選手が、あまりにも多く4部に行きすぎたんです。けれど、4部では実力をはっきり見極められてしまいます。

それまでは各リーグに相応の力がある選手だけが入ってきていたのに、日本人選手があり余るようになりました。すると、『日本人だから』ということで興味を持たれていた選手たちが、試合に出られなくなりました。そうなると、すぐに代理人にチームを変えたいと言い出したりして、本来選手がたどるべきサイクルがおかしくなっていきました。要するに、アマチュアな選手が多すぎたということだと思います」

理不尽な戦力外通告も受け止めて

中居さんもドイツに来てから運が向いてきたが、ただ流れに乗ってきたわけではない。イタリアで身に沁み込ませてきたプロ意識を、ピッチ内外で示してきた。

「コブレンツに移籍した当初はサブで、少し試合に出られても怒鳴られてばかり。守備を重視する監督だったのですが、最初は何を怒っているのかも分かりませんでした。

初めはドイツ語もしゃべれないし、意思疎通なんてできませんでしたが、監督のところに行ってボードを使って、こうしてほしい、自分はこうしたかったと、片言であっても伝えました。携帯電話で時間をかけて書いた長文を送ったら、その次の練習から監督の態度が変わったこともありましたね。

自分から近づくことで監督の意思が分かるようになって、自分で修正できるようになりました。すると、試合に出してくれなかった監督が、僕中心のチームに変えてくれたんです。最初はサイドで使われていたけれど、FWで出たいという思いと自分の長所を伝えたら、最終的には1トップで使ってくれるようになり、僕自身も活躍できるようになりました」

逆に、突然居場所を失う経験もしてきた。イタリアほどではないが、十分につらいことだ。

コブレンツから移籍したクラブでは、クラブ初の4部リーグ昇格に貢献した。だが率いる監督は、自身にとっても初体験となる4部での挑戦に戸惑い、チームも引きずられるように負のスパイラルに陥っていた。

すると半年経った頃、思いもよらぬことが中居さんの身に起きる。ウィンガーとしてプレーしながらもチーム最多得点を記録していたのに、いきなり戦力外通告を受けたのだ。監督の混乱ぶりは、察するに余りある。

「冬の中断期間に、新しい選手を5人も買ったんです。クラブにはスポンサーがついていて、お金はあったので。クリスマスイブ前日のことでした。監督から電話が来て、『お前は年齢的に、もう無理だ』と言われて。僕は大丈夫なのに、『前期の終盤の試合で、すごく疲れているイメージがあった。チャンスに活躍できないと思ったから、新しい選手を買った』って。つまり、戦力外ということですよ。人生最高のクリスマスプレゼントになりました(笑)」

残してきた結果を鑑みると理解不能でも、起こっていることは現実である。理不尽には、何度も直面してきた。

「監督にも、いろいろあったとは思いますけどね。根は良い人なんですよ。今も3部で監督をしていて、誕生日には『おめでとう』とメールもくれますし。切ないけど仕方ないので、5部で首位に立っているチームに移籍しました。残る半年で、もう一度チームを4部に昇格させてやろうと思ったんですよ」

数多のアマチュア気分の選手とは、違う。あくまでプロ意識を持ち続けた中居さんだったが、心機一転のはずの移籍後に、再び悲劇に見舞われる。

「意気込んでいたのに、いきなり靭帯をやってしまいました」

選手にとって大きな痛手だが、それさえも前向きな転機に変えて、中居さんはサッカーを続けている。ドイツでの生活は10年を越えた。

<その4「狂った世界で生き残る資格」に続く>

フリーランス・ライター/編集者/翻訳家

1975年生まれ。新聞社で少年サッカーから高校ラグビー、決勝含む日韓W杯、中村俊輔の国外挑戦までと、サッカーをメインにみっちりスポーツを取材。サッカー専門誌編集部を経て09年に独立。同時にGoal.com日本版編集長を約3年務め、同サイトの日本での人気確立・発展に尽力。現在はライター・編集者・翻訳家としてサッカーとスポーツ、その周辺を追い続ける。

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