海外組のリアル 「覚悟」(1) 阿部勇樹が認めた才能

ドルトムントとトレーニングマッチを行なった際の中居さん(本人提供、撮影:原悦生)

浦和レッズの阿部勇樹には、中学時代に強烈な印象を受けた選手がいたそうだ。

ジェフユナイテッド市原(現市原・千葉)のジュニアユースでプレーしていた頃。同じ関東のライバルである横浜マリノス(現F・マリノス)に、その選手はいた。

その話を教えてくれたのは、横浜F・マリノスで下部組織のコーチからトップチームの運営まで務めた経歴を持つ人物だ。その人物のことを、子どもの頃に指導を受けた齋藤学(現川崎フロンターレ)らは、今でも「コーチ」と呼ぶ。

その「コーチ」がある時、縁あってマネジメントに関わるようになった阿部勇樹に尋ねた。同年代のマリノスの選手で、一番記憶に残っているのは誰か? 日本代表としても活躍してきたMFは、即答したそうだ。

「トキオ」

阿部が所属していたジェフ市原の下部組織は、多くの優秀なJリーガーを輩出してきた。関東で腕を競っていたマリノスも、負けないくらいに多くのプロ選手を育ててきた。

阿部と同年代で、マリノスのユースからプロの世界に飛び出した選手は、枚挙にいとまがない。同い年なら石川直宏(FC東京等)や大橋正博(横浜F・マリノス等)、1学年下ならば坂田大輔(横浜F・マリノス等)、田中隼磨(現松本山雅)らと、プロとして長く活躍してきた選手が多い。

そうした選手たちがそろう中でも、阿部に最も強烈な印象を残したのは、「中居時夫」というフォワードなのだという。

同年代では引退した選手も多いが、そのかつての天才少年は阿部と同様に今もボールを蹴り続けている。ただし、活動の場はJリーグでも、日本でもない。

プロに絡みたかった高校時代

「コーチは、お元気ですか?」

デュッセルドルフの駅で初めて顔を合わせると、柔和な笑顔で右手を差し出してきた。中居さんは今、ドイツに暮らす。

「阿部ちゃんとは、ユース時代に2人でディズニーランドに行ったりする仲でしたね」

レストランでドイツ料理をほおばる中居さんは、目を細めながら10代を振り返る。

昨年にテレビ番組で「消えた天才」として紹介された小松原学さん(ベルマーレ平塚ユース出身)については、「ライバルだったんで、影響を受けたとはあまり言いたくないんですけどね。いつも彼が一歩先を行っていたので、かなりむかつく存在でしたよ」と苦笑いする。同じFWである神奈川県内の好敵手とは、中学2年で関東選抜のチームメイトになった。「石川ナオ(直宏)も一緒で、大会で優勝しました。皆、ものすごく高いモチベーションを持って団結していて、良いチームでしたね」。そのチームに、千葉県から阿部勇樹も参加していた。

生まれ育った横浜市内でプレーしていたが、小学校時代のチームはとても強豪とは言えなかった。横浜市外からも才能が集まるのが横浜マリノスで、対戦した際には「0-7くらいでボロ負けした」が、そのゲームが転機となった。マリノスのスタッフに目をつけられ、誘いのままにジュニアユースの入団テストを受験。倍率数十倍の難関だったが、見事に合格した。

名門クラブのジュニアユースで、中居さんはぐんぐんと力を伸ばす。前述の通り、2年生で関東選抜に入り、3年生になると1学年上の選手たちが主体となるU-16日本代表に飛び級で招集された。

そうした選抜チームに入る選手たちは、プロを目指すエリートだ。当然、中居さんに対しても、マリノスからユース昇格が提示された。どんどんと狭くなる門の通行手形を与えられたにもかかわらず、中居さんは簡単に手を差し出すことはしなかった。

U-16日本代表で出会った年上の選手たちから聞いた話が、心に引っかかっていたからだ。

「代表に入っている他のチームの選手たちは、サテライト(当時存在した2軍にあたるチーム)やトップチームにも行っているという話を聞いていたので、興味を引かれました。ユースに入って3年間頑張ってプロになるんじゃなくて、高校に入った時点でプロに絡めるようになりたかったんです。マリノスの枠に入って満足するだけではなく、もっと上のステップに行きたいと思って、他のチームにも話を聞きました」

実際、当時は酒井友之や山口智(ともに当時、ジェフ市原)、稲本潤一(当時、ガンバ大阪)と、高校生年代でJリーグの公式戦に出場するクラブのアカデミー育ちの選手が出てきていた。中居さんのやる気は、強く刺激されていた。

他クラブに話を聞きにいってみると、トップチーム入りの後押しをするという誘いの声もかかった。マリノスからはなかなかプロ直結に積極的な話は出てこなかったが、「3年間育ててくれた恩師の『マリノスに残って頑張れ』という言葉もあったので、できるだけ早くトップチームに絡めるように見ていてくださいという条件で」ユース昇格を承諾した。

卒業を待たずしてイタリアへ

ユース昇格前後の勢いを、中居さんは「とんとん拍子で、もう止まれませんでしたね。とにかくできる限り早くプロになって、自分よりうまいプロの選手の中でさらに成長したかった。現状に甘えるのが、すごく嫌だったんです」と振り返る。

中学3年生で1学年上のU-16日本代表のレベルに肌で触れると、もはやジュニアユースの練習では満足できなかった。ユースに上がって、サテライトの練習には呼ばれるようになった。「当時は中村俊輔くん(現横浜FC)もいるサテライトで一緒にやらせてもらい、試合に出ても、そこそこできるようになっていました」。それでもトップチームからの声はかからず、中居さんはストレスをためていった。

「どうしてもトップチームに絡みたくて、我慢できませんでした。トップの練習に参加もしていないのに、試合になんて絶対出られるわけがないじゃないですか。それが悔しくて」。そのストレスが、中居さんの内面の思わぬスイッチを押すことになる。

「海外に意識が行き始めたんですよ。もともと海外のサッカーはよく見ていて。憧れはACミランの(マルコ・)ファン・バステンでした。万能選手の彼を見ていたら、楽しくて、楽しくて。彼を目標に、いつも海外のサッカーを見ながらサッカーをしていました。そんな思いから、高校1年生の時に海外に行くって決心したんです」

高校2年生の夏、実際に中居少年はイタリアへと飛び出した。クラブに何も告げずに欧州へと渡り、伝手を頼って選手育成に定評のあるトリノの練習に参加した。「当時も力が飛び抜けていて、ユース年代のイタリア代表選手を結構抱えているチーム」だったが、中居さんの勢いはここでも止まらなかった。日本から来たアタッカーは強化部の目を引きつけ、「すぐにうちに来てくれ」という話になったのだという。

異国で突然開けたプロ入りの道だが、さすがに展開が早すぎた。日本での学校生活や、そもそもマリノスに所属していることもあり、そのままイタリアに残りたいという強い思いとプロになる夢をかばんに押し込んで、一度は日本に戻らざるを得なかった。

明らかなフライングではある。だが、思わぬ展開は、マリノスの考えを動かした。

「無断でイタリアに行ったのは申し訳なかったんですけど、自分にはこういう考えがあって、どうしても早くプロとしてやりたいという気持ちがある、と話し合いをしました。その結果、マリノスが初めてトップ契約の話を持ち出してきたんです。だったら、なんで最初からそういう話をしてくれなかったんだろうと思いました。自分の中では、海外に行くという気持ちがすでに強くなっていたので、少しは揺らぎましたが、もう遅かった。イタリア行きを決心しました」

ただし、中居さんにとって不運だったのは、帰国後に負傷してしまったことだ。左足の第5中足骨を折ってしまい、リハビリに9カ月を要した。完治する頃には高校3年生になっていたが、中居さんの熱は冷めてはいなかった。母親には「せめて高校は卒業してほしい」と泣かれたが、高校3年生になる4月、すべてを振り切ってイタリアへ渡った。

カルチョは、やはり世界最高峰だった。すべてが、ものすごいスピードで動く。9カ月は、世界が一変するのに十分な時間だ。中居さんをトリノへ誘った強化担当者は、すでにクラブを去っていた。とんだアクシデントはあるが、中居さんの勢いを止められるものではなかった。

だが、今思い返せば、この程度の問題はイタリアの厳しさを知る洗礼に過ぎなかったのかもしれない。

その2「カッサーノの称賛と最後に待ち受けた地獄」へ続く>