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海外組のリアル 「価値」 異境へ渡ったJリーガーが鳴らす警鐘

杉山孝フリーランス・ライター/編集者/翻訳家
坂田さんは2011年、ヨーロッパリーグでマンチェスター・シティと対戦した(写真:ロイター/アフロ)

近年、多くのサッカー選手が夢を抱いて海を渡る。日本代表でも「海外組」という言葉が使われるようになって久しい。アマチュアの立場でも、ヨーロッパを目指す選手が多い時代だ。海外でのプレー、生活、意味とはどんなものなのか。その「現実」を、実際に体験した冒険者たちに聞く。

突然の冒険“打ち切り”

「話は終わった、って言われて。即、代理人に電話しました」

本来ならば新シーズンに向けて意気上がる開幕前の合宿が暗転した瞬間を、現在はサッカーの選手代理人となった坂田大輔さんは振り返る。

地元の名門、横浜F・マリノスユースの下部組織からトップチームに昇格し、年代別の日本代表としても活躍した。世界大会にも出場し、早くも20歳前後の頃にはヨーロッパのクラブからの誘いの声もあったという。

しかし、横浜F・マリノスで10年を過ごし、ついに欧州のピッチに立ったのは、27歳になった2011年のことだった。出産を控える妻を日本に残し、覚悟を持っての挑戦だった。

ヨーロッパといっても、近年にJリーガーが多く渡るようになった、ドイツやオランダといった“先進国”ではない。目指した先は、ギリシャ。当時、未曾有の経済危機に見舞われていたことも思えば、かなり冒険的な選択だったとも言える。

移籍したアリス・テッサロニキは、リーグ優勝経験もある古豪だった。当時は、国内でも上位をうかがうシーズンが続いていた。

だが、冒険は突然終了した。失敗ではなく、打ち切りである。移籍から半年、新シーズンを前にしてのことだった。

「そもそも最初から給料が払われない状況が続いていたんです。でも、シーズン前のイタリア合宿で、キャプテンが『オレが会社と掛け合っているから待ってくれ』と言ってくれて。その選手はギリシャ代表のキーパーで、個人的にスポンサーがついているから羽振りは良かったんですけどね(笑)。その選手が話し合ってくれていて、クラブの幹部も『新シーズンになるまでに何とかするから待ってくれ』って頭を下げるので、オレもチームメイトも信じていたんですけどね。でも、キャプテンが合宿で皆を集めて、『話は終わった』ということになって…」

それでも、坂田さんはこう振り返る。

「ギリシャに行って、良かったですよ」

一度は渡欧を見送った理由

もしかしたら、もっと早くに海外へ飛び出していたかもしれない。

2003年に出場したトゥーロン国際大会やワールドユースには、クリスティアーノ・ロナウドやハビエル・マスチェラーノなど、その後に世界トップレベルに上り詰める選手たちがいた。「やっぱり、すごかったですよ。それを肌で感じて。ロナウドなんてオレより歳が下なのに、差を見せつけられました」。

極めつけが、ワールドユース準々決勝のブラジル戦だった。「完膚なきまでにやられました。その時、相手の右サイドバックに入っていたのがダニエウ・アウベス。中央へのコースを切ってボールを持たせてフタをしてやろうとしたら、日本の選手が全員抜かれちゃうんですよ。アウベスにボール持たせたら、もう終わり。そのくらいコテンパンにやられて。その時、日本でやっているだけじゃ無理だ、日本を出なきゃダメなんだ、と一番強く思いました」。

失意の一方、自身は大会得点王に輝いている。だからこそ、大会後には「もう(海外に)行けるかなと思った」と手応えも感じていた。事実、「主要国じゃないけど、確かスイスあたりから」移籍の打診もあったという。

だが、代理人に諭された。

「結局、環境面とかレベルなどトータルで比較をしたら、日本でプレーした方がいいんじゃないかという話になりました。オレ自身としては『行きたい』という気持ちが強かったんですが、給料を下げてまで無理矢理にでも移籍したら、日本人の価値を下げることになってしまう、って代理人に言われて。確かに、そういう移籍の仕方をしたら、次に続く人にも影響しちゃうんですよね。単に本人の思いだけで、とにかく行かせるだけなら簡単だけど、そういう移籍の仕方は違うよね、と言われて」

勢いだけの安易な移籍は、おそらく坂田さん自身にもうまく働かなかったはずだ。

ならば、なぜ20代後半に入って、海外を志したのか。

「アリスに移籍した時は正直、海外に行けるとは思っていませんでした。自分のピークなどあらゆることを考えて、海外に行けるという考えは薄れてきていましたから。そもそも海外に行くにあたって、最初の選択肢にギリシャを挙げたりしませんよね(笑)」

2010年オフ、横浜F・マリノスから来季の契約を更新しないと告げられた坂田さんには、他のJリーグクラブからの誘いもあったという。一方、ヨーロッパで広くつながる代理人のネットワークで、ギリシャからも関心を寄せられていた。

最初の海外移籍のチャンスとは違い、この時には明確な狙いとオファーが合致した。

「若い頃の海外移籍で、メインになるのは自分の成長ですよね。確かに、日本より悪い環境に置かれても、切磋琢磨することでむしろ自分の伸びしろが広がるかもしれない、という思いはありました。マリノスで10年プレーして、ある程度自分のプレースタイルもサッカーに対する考え方も固まっていましたからね。それよりも、求められるのは結果だ、と思っていました。とにかく、ヨーロッパリーグに出られるというのが、大きかった。次のラウンドで、アリスがマンチェスター・シティと対戦することが決まっていましたから」

ちょうどクラブが中東資本の手に渡って2年、カルロス・テベスやダビド・シルバらを補強し、マンチェスター・シティが現在につながる世界最高峰のクラブへの歩みをスタートさせていた頃だった。その新たなるメガクラブとの国境を越えての対戦に、一番の価値を見いだしていた。

「基本的に、ギリシャで活躍したかったわけじゃないんです。ステップアップのために行きたかった。例えば、ギリシャとマリノスで過ごす若い頃の10年間を比べたら、マリノスでプレーする方が成長できたと思います。施設も指導者もしっかりしていましたからね。でも、世界に目を向けてアピールする場というのは、ヨーロッパリーグやチャンピオンズリーグ。ギリシャ国内のリーグでも、どこかから目が届く。それこそが、海外挑戦の意味だと思います。ヨーロッパリーグに出られるというのは、アピールするチャンスがあるということだったんです」

27歳だからこそ見極めたポイントだった。

明確な自分の立ち位置

マンチェスター・シティとのラウンド32での対戦では、ホームとアウェイでの2試合ともに先発した。ホームでの初戦は0-0で引き分けたが、乗り込んだアウェイの地で0-3と敗れた。

ヨーロッパリーグでの挑戦は早々に終了したが、もちろんギリシャでの日々で学ぶことも多々あった。

経済危機なのに、あるいは「だから」なのか、人々は仕事をするでもなく何時間もカフェで語らっている。シエスタを取っているのか、銀行も昼間は閉まっていた。ようやく開設した現地の銀行口座だったが、給与が振り込まれることはなかった。「自分で交渉しに行って、必要な額を言うと、ようやくもらえるんです」。仲間たちもわずかな額が振り込まれたと言っては、ロッカールームで大笑いして盛り上がる。それでいて、無給で働くホペイロやマッサーには、選手が生活費をカンパした。

試合に集う観客も、チケット代を払っているかは定かではない。それでも試合になれば3万人のスタジアムは満員になり、文字通りにスタンドが揺れ、スタジアムが震える。ファンの強すぎる愛情は時に暴走し、敗戦後に “包囲”されたスタジアムで、選手がロッカールームから出られなくなることもあった。

坂田さんはギリシャで、濃密な約半年間を過ごした(写真:アフロ)
坂田さんはギリシャで、濃密な約半年間を過ごした(写真:アフロ)

「もしもギリシャに行きたいって言う選手がいたら、オレは挑戦を勧めますね。ギリシャのサッカーがすごく良いわけじゃないけど、オリンピアコスとパナシナイコスは本当に世界的にも名立たる選手ばかり。その2強相手に引き分けたら大喜びだし、負けても0-1なら『よく頑張った』と褒められる。一方で、下位チームには絶対に勝たなければいけない。自分たちの現在地と目標がはっきりしているんですよね。絶対に勝つために、あるいは何とか引き分けるために、口先ではない本気の取り組みをする。そういう、サッカーの本質的なものというのは、感じられると思いますね」

立ち位置というものを、自分も周囲もしっかりと見極めている。だからこそ、「マンチェスター・シティとの試合でも、何とか目立って引き抜いてもらおうという選手ばかり」と、誰もがステップアップへの強い思いを抱えて、日々を生きていた。

大事な「入り口」

ギリシャでの初シーズンは、僅差でヨーロッパリーグへの出場権を逃して終わった。それでも、ヨーロッパでのアピールへの可能性も感じられた半年間だった。まだ挑戦を続けるつもりだっただけに、冒険の打ち切りがつらかった。

「強い気持ちを持って出てきたから、できれば残りたかった。少しでもお金の支払いが改善されて、普通に生活できるくらいになっていたら、絶対に残っていましたね。それが無理だと宣告された瞬間に、もうあのクラブで続けることは無理でした。他の国でもいいからヨーロッパで挑戦したかったんですが、移籍市場があと2、3日で閉まるというタイミングで。代理人には、日本に帰るかどうか、あと数時間で決めてくれと言われました。嘘でもいいから、クラブが『目途は立つから』とでも言って、少しでも支払ってくれる姿を見せてくれたら信じてもよかったんですが…。『話は終わった』と言われては、どうしようもなくて」

FC東京への移籍に、クラブがごねることはなかった。過去の記録を調べると、ほとんどの外国人選手が移籍金なしで、その夏にクラブを“脱出”している。

坂田さんはその後、アピスパ福岡でも6年プレーし、今年の春に選手を引退した。現在は、選手時代に所属した代理人事務所で、自らがエージェントとなるべく仕事に励んでいる。

海外に多くの選手を送り込んでいる事務所で、坂田さんは今一度、最初に海外移籍を思いとどまらせた代理人の言葉を思い出す。

「選手だった当時はそれほど深く考えたわけではなかったのですが、引退して今の立場になると間違いなく、ただ海外に行けばいいってもんじゃないと思います。選手でそれぞれ違うでしょうが、目的そのものもそうだし、そこにたどり着く逆算をしなければいけないと思います。日本代表になってワールドカップで活躍するとか、バロンドールを取るといった目的があるなら、正しくの順序を踏んでいかないとダメ。そのために、今の時点で“活躍できる国”というものが、必ずあるはずなんです」

選手が自身を輝かせる方法は、必ずある。選手と舞台の価値の見極めが、これからの坂田さんの腕の見せどころになる。

「もしもマンチェスター・シティ相手に、アウェイでも良いプレーをして勝っていたら、何かが変わったかもしれない。でも、そこで活躍できなかったのがオレなんです。とにかく、“入り口”は用意してもらえました。ステップアップの入り口を見つけてもらうっていうのは、大事なことですよね。ただどこかのクラブに行くのではなく、ステップアップしていけるような活躍できるところじゃないと、意味がありませんから」

海外挑戦から、坂田さんが現在でも生きる大事なものを持ち帰ったことは間違いなさそうだ。

(筆者撮影)
(筆者撮影)
フリーランス・ライター/編集者/翻訳家

1975年生まれ。新聞社で少年サッカーから高校ラグビー、決勝含む日韓W杯、中村俊輔の国外挑戦までと、サッカーをメインにみっちりスポーツを取材。サッカー専門誌編集部を経て09年に独立。同時にGoal.com日本版編集長を約3年務め、同サイトの日本での人気確立・発展に尽力。現在はライター・編集者・翻訳家としてサッカーとスポーツ、その周辺を追い続ける。

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