サッカーの芸術性を追求しなければ、その未来はない
日本U−23の五輪出場は、日本と他国の国力を比較すれば特段、驚くべきニュースではない。だが、アジアを際どく勝ち上がる姿をヒヤヒヤ気分で見つめる行為は、思いのほか楽しい。最近のコラムで僕はそれを「B級ホラー」だと書いたが、それが密の味だと最初に気付いたのは93年秋のことだ。ドーハの悲劇で知られるアメリカW杯のアジア最終予選。そしてそれが確信につながったのが4年後のジョホールバルだ。勝ち抜く快感を知った日本人は、98年フランスW杯本大会に大挙駆けつけた。その数、約10万人。2002年日韓共催W杯観戦のために外国から訪れた観光客の総数が5万6千余人なので、それと比較すれば、いかに常軌を逸した数だったかが分かる。だが、中にはW杯そのものへの関心が、フランス行きの動機になっている人もいた。従来からサッカー好きだった人に多いタイプだが、それは、サッカーの魅力は何かと問われた時、世界性と答えそうな人たちと言えた。
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