「アラブの春」とイスラーム政党/イスラーム主義とは何か(第15回)

エジプト各地で大規模集会 反モルシ派 数十万人集結(写真:ロイター/アフロ)

ウェールズのランピターで開かれている英国中東学会(BRISMES)に来ている。ロンドンから電車とバスを乗り継ぐこと5時間、文字通り人里離れたこの小さな街に、英国からだけでなく、世界各国の中東研究者が最新の研究成果を持ち寄り、それぞれ報告し、3日間にわたって議論を交わす。

筆者の報告は、2011年「アラブの春」以降のレバノン・ヒズブッラー(ヒズボラ)のイデオロギー的変容とその政治的帰結について。とりわけ、シリアの紛争への軍事介入が、組織のアイデンティティや中東政治における役割を大きく変えたことを論じた。

「アラブの春」という未曾有の出来事により、ヒズブッラーだけでなく、あらゆるイスラーム主義者たちがそのイデオロギーや戦略の転換を余儀なくされ、翻って、それが中東政治の姿を大きく変えていく。

これが、今回のテーマである。

「アラブの春」とは何であったのか

「アラブの春」とは、アラブ諸国における長年にわたる独裁政治に対して、市民が自由や民主主義を求めて立ち上がった一連の事件のことを指す。2010年末にチュニジアで発生した市民による抗議デモは、わずか1ヶ月あまりで24年間続いてきた独裁体制を崩壊させた。

この革命の熱狂は瞬く間に他の中東諸国にも広がり、エジプト(2011年2月)、リビア(10月)、イエメン(11月)でも政変が起こった(シリアやバハレーンでは体制側と反体制側のあいだの武力衝突が発生した)。

歴史的に見れば、アラブ諸国の独裁政権に対する反体制派を主導してきたのは、イスラーム主義者たちであった。彼ら彼女らは、長年にわたって反体制派としての「定位置」にあった。

このような体制/反体制の対立構図が生まれた背景には、第2次世界大戦後に独立を果たした多くの中東諸国が多かれ少なかれ西洋的近代化、とりわけ政治と宗教の分離を是とする世俗主義による統治を目指してきたこと、そして、それが1960年代末には、独裁、低開発、他国との戦争、内戦といったかたちで行き詰まりを見せたことがあった。

そのため、もし仮に政変が起こるとするならば、それはイスラーム主義者によるものとなる、という想定が、研究者だけでなく、政策決定者にも広く共有されていた。

にもかかわらず、実際には、イスラーム主義者が市民に「春」の主役の座を奪われた背景には、2001年の9.11事件を機に急速に勢力拡大したアル=カーイダに代表されるイスラーム過激派への反感があった。すなわち、「アラブの春」は、中東の市民による新たな主体的な営みであり、混乱と絶望の色に染まった9.11事件からの10年間、そして、それを支配してきた過激派による「イスラームの戦い」と米国主導の「テロとの戦い」に対する痛烈なアンチテーゼであったと見ることができる。

つまり、中東の市民は、暴力と憎しみが飽和点に達したとき、暴力ではなく非暴力、過激なイスラーム主義者ではなく市民、ジハードよりも民主主義を選んだのである。

「イスラーム政党」の台頭

ただし、過激な思想や手段が忌避されたからといって、イスラーム主義自体の力が失われたわけではなかった。中東の市民にとって、イスラームに基づく社会や国家の建設は平和や繁栄を築いていく上での選択肢の1つであった。

重要なのは、「アラブの春」によって、中東の市民が暴力や憎しみではなく、選挙や対話によって、イスラーム主義を含む様々な選択肢を自由に議論できるようになったことである。そこには、それまでの中東にはほとんど見ることができなかった、自由と寛容の空気が生まれつつあった。

そうしたなか、イスラーム主義者たちは「イスラーム政党」を結成し、積極的に民主政治へとコミットしていった。イスラーム政党とは、「「イスラームに思想的基盤を置く政治イデオロギー」に立脚する政党」であり、1. 政党と自己規定する政治組織であること、2. 何らかの形で公然と「政治へのイスラームの適用」を実現すべき目標として掲げていることを特徴とする。(1)

例えば、チュニジアのナフダ党、パレスチナ自治政府のハマース(ハマス)、レバノンのヒズブッラー、エジプトのムスリム同胞団系の自由公正党などが挙げられる。

2011年のチュニジアとエジプトの政変後の選挙では、イスラーム政党が大きく票を伸ばした。チュニジアでは政変後の制憲議会選挙でナフダ党が第一党になった。エジプトでは、ムスリム同胞団出身のムハンマド・ムルシー(1951年-)が大統領に選出され、同国史上初めてイスラーム主義運動が政権を獲得した。これは、1990年のアルジェリアにおけるイスラーム救国戦線(FIS)、2006年のパレスチナ自治政府におけるハマースに続く、イスラーム主義運動の選挙での大きな勝利ーーイスラーム政党としての成功ーーであった。

イスラーム主義運動の組織力・動員力

なぜ、「アラブの春」の抗議デモの際には鳴りを潜めていたイスラーム主義者が、ひとたび選挙となったときに市民から「アラブの春」の主役の座を奪い返すことができたのだろうか。

エジプトのムスリム同胞団/自由公正党を例に見てみよう。

同胞団は、「アラブの春」の抗議デモの開始後しばらくしてから、これを支持する立場を鮮明にした。こうした同胞団の慎重な姿勢にはいくつかの理由が考えられるが、主にフスニー・ムバーラク(1928年-)大統領の独裁政権といわばなれ合いの関係(お互いが本気でつぶし合わないという暗黙の了解)があったこと、それゆえに、同胞団は体制を脅かすことのない非政治的な活動(福祉や医療などの分野における草の根の社会活動)に注力し、その結果、草の根の支持基盤を確立していたことなどが指摘されている。(2)

つまり、同胞団は、「アラブの春」以前からエジプトの社会にその根を深く下ろしており、選挙戦を有利に進めるための組織力・動員力を高めていたということである。これに対して、「アラブの春」の抗議デモを主導した無党派の青年たちは、SNSのような新たなツールを用いたとしても、政変から選挙までの短期間でイスラーム主義者たちを上回る勢力を築くことは困難であった。

ここで強調すべきは、世俗主義を掲げたムバーラク大統領による独裁に対する「揺り戻し」としての一面があったとしても、少なからぬ市民がイスラーム政党を支持したという紛れもない事実である。自由と寛容を取り戻したエジプトにおいて、イスラームの教えを何らかのかたちで政治に反映しようとするイスラーム主義者たちが自由に発言し、また、彼ら彼女らを支持する市民が数多く存在したのである。

破局への序曲

しかし、「アラブの春」によって生まれた自由と寛容の空気は長く続かなかった。その原因は2つあった。

1つは、新たに誕生したイスラーム主義者主導の政権の拙い政治運営であり、その結果として引き起こされた政治と社会の混乱であった。

チュニジアでは対話による権力の禅譲や法制度の整備が進められたーー民主化プロセスにおける「移行」から「定着」へと歩を進められたーーのに対して、エジプトではイスラーム主義者による「数の論理」を盾にした権力の独占が目立った。その結果、野党勢力は態度を硬直化させ、与野党間の対話による「民主的」な政治は停滞した。加えて、政変によって生まれた社会の混乱を鎮め、経済成長を目指すためのテイクオフにも失敗した。

執政を司ったことのない「政治の素人」であるイスラーム主義者たちに、長年の独裁政治の負の遺産を精算する仕事は荷が重過ぎたのである。

もう1つは、イスラーム主義者による政権の誕生や勢力拡大を危惧する国際政治の力学であり、その結果として引き起こされた独裁政治の復活であった。

「アラブの春」では、独裁体制の崩壊後には西洋諸国を範とするリベラルな民主政治が訪れるものと期待され、選挙におけるイスラーム主義者の勝利は「想定外」か、少なくとも歓迎されざるものであった。そのため、ムルシー政権下のエジプトに対しては、民主化を達成したにもかかわらず、欧米諸国による政治的な支持も経済的な支援も低い水準にとどまった。

それだけではない。2013年6月、新政権への失望から一般市民による抗議デモが発生すると、これを好機と捉えた軍ーームバーラク政権の残党ーーがクーデタを起こした。多くの西洋諸国は、クーデタ後に成立した軍事政権を事実上容認し、ムルシー自身を含むムスリム同胞団/自由公正党のメンバーに対する人権侵害に対して沈黙を続けた。軍事政権は、同胞団や同党の関係者を「テロリスト」と断罪し数百人単位で逮捕・死刑判決を下すなど、かつてのムバーラク時代よりも過酷な弾圧を実施した。

こうして、「アラブの春」後の自由と寛容の空気は過去のものとなっていった。暴力と憎しみが再燃するなか、過激なイスラーム主義者の台頭はもはや不可避となった。「イスラーム国(IS)」の登場である。

(1) 小杉泰「イスラーム政党をめぐる研究視座と方法論的課題:比較政治学と地域研究の交差する地点で」『アジア・アフリカ地域研究』第1号, 2001年。

(2) 横田貴之/ダルウィッシュ・ホサム「エジプト政治の民主化と社会運動:「1月25日革命」とムバーラク政権の崩壊」酒井啓子編『中東政治学』有斐閣, 2013年。