イスラーム過激派「第2世代」の出現、アル=カーイダ/イスラーム主義とは何か(第13回)

ビン・ラーディン(左)とザワーヒリー(右)(写真:ロイター/アフロ)

今回はシチリア島西端のマツァーラ・デル・ヴァッロから。イタリアのなかでもアラブ系移民の人口割合が特に高い街であり、公立学校でも生徒がイタリア語とアラビア語の両方が学べる同化の進んだ街として知られている。対岸チュニジアのアル=マフディーヤ市とは姉妹都市の関係にあり、家族・親族が両市にまたがるかたちで暮らしている人びともいる。ここマツァーラでは、アラブ/イタリア、ヨーロッパ/アフリカ、そして、キリスト教/イスラームを隔てる境界がぼやけて(blurred)見える。

かつての中東、少なくとも地中海沿岸地域では、これが「日常」であった。矛盾や葛藤、時に軋轢や対立を抱えながらも、多種多様な人びとが共生・共存するという長い歴史があった。

しかし、今日の中東では、宗教や宗派といった人間の属性により「敵」と「味方」を峻別する不寛容な思考様式が、かつてないほどに拡大している。

その一因として考えなくてはならないのが、「第2世代」のイスラーム過激派ーージハード主義者ーーの存在である。

「第1世代」から「第2世代」へ

ジハード主義者の「元祖」、すなわち「第1世代」は、1960~70年代にかけてのエジプトを中心に誕生した。彼らは、世俗主義や社会主義を掲げる独裁政権をイスラーム的に「不義の体制」と断罪し、武装闘争やテロリズムなどの暴力を用いた世直しを目指した(第11回)。

「第1世代」は、あくまでもアラブ諸国の国内政治の文脈から出現し、その「敵」も基本的には政権とその関係者ーー彼らが言うところの「不信仰者」ーーであった。このことを象徴したのが、1981年のジハード団によるサーダート・エジプト大統領の暗殺事件であった。

ところが、その後、1980年代の後半に入ると、ジハード主義者の活動範囲も「敵」も大きく変わっていく。すなわち、活動範囲は国内から国外へ、「敵」もムスリム社会の「不信仰者」から非ムスリム社会の「異教徒」へと変わっていく。

この新たな特徴を持つジハード主義者は、一般に「第2世代」と呼ばれる(例えば、LSEのGerges教授の論考)。

プッシュ要因

ジハード主義者は、なぜこのような変容を遂げたのか。その背景を理解するために、ここではプッシュ要因とプル要因という言葉を用いてみよう。

まず、プッシュ要因は、「第1世代」のジハード主義者を国内から締め出す力学のことである。1970年代末から80年代初頭にかけての時期には、サーダート大統領暗殺事件の他、シリアでは大規模な反政府武装闘争(1976~1982年)やサウジアラビアのマッカ(メッカ)ではアル=ハラーム・モスク占拠事件(1979年)など、中東各国においてイスラーム主義者の過激化が見られた。こうした事態を受け、アラブ各国の政府はジハード主義者に対する弾圧や取り締まりを強化していった。その結果、彼らは、自らが生を営む祖国を離れることを余儀なくされた。

彼らはどこに向かったのか。

あくまでも祖国における「不信仰者」の駆逐や「正しいイスラーム」の実現を訴える者たちは、隣国や西欧各国ーー例えば、英国やフランスなどーーに身を潜めた。彼らは、そこを活動拠点に、祖国への帰還と独裁政権の打倒のためのジハードを企図した。

他方、祖国にこだわらず、あくまでも武力によるジハードの実践それ自体に意義を見い出す者たちは、「敵」との戦いに従事する(ことができる)ための戦場を求めていく。彼らの多くが目指した土地の1つが、1978年からソ連軍による侵攻・占領(~1989年)下にあったアフガニスタンであった。

プル要因

ここでプル要因の説明が必要となる。世界の紛争地のなかで、なぜアフガニスタンが多くのジハード主義者を惹きつけたのか。アラブ諸国で生まれ育ったムスリムが遠く離れたアフガニスタンでソ連軍との戦いに参加することに、どのような意味があったのか。

イスラームは、信徒と神との一対一の関係だけでなく、信徒と信徒との集合的な関係を重視する。「ウンマ」、すなわちイスラーム共同体の教えである。クルアーン(コーラン)には「これは汝らのウンマ、単一のウンマである」(諸預言者章第92節)と記されており、ウンマの単一性を信じることはイスラームの根本的な教義の一部をなす。平たく言えば、ムスリムは世界のどこにいようとも、皆同胞(兄弟姉妹)であり、1つの「想像の共同体」のなかで生きている、という論理である。

この論理に基づけば、アフガニスタンの危機は、ウンマの危機であり、ムスリム同胞の危機である。したがって、「無神論者」であるところのソ連の軍勢に対するジハードを敢行し、アフガニスタンと同胞を助けなくてはならないーー。

こうして、アラブ諸国からジハード主義者が「義勇兵」としてアフガニスタンのイスラーム・ゲリラ(ムジャーヒディーン)に加わり、ソ連軍に対するジハードに身を投じたのである。ムジャーヒディーンは、ソ連を「共通の敵」とする米国の軍事支援を受けながら(第10回)、1989年にソ連軍をアフガニスタンから撤退させることに成功した。

ウサーマ・ビン・ラーディンとアル=カーイダ

アフガニスタンへの「義勇兵」の1人が、サウジアラビア人のウサーマ・ビン・ラーディン(1957-2011年)であった。後のアル=カーイダの首領である。

1979年にビン・ラーディンをアフガニスタンへと誘ったのは、パレスチナ人のアブドゥッラー・アッザーム(1941-1989年)と言われている。彼は、ヨルダン・ムスリム同胞団の幹部であった。また、後にビン・ラーディンの右腕・後継者となったエジプト人のアイマン・ザワーヒリー(1951年-)は、エジプトのジハード団の幹部であった。アッザームもザワーヒリーも、独裁政権による弾圧や外国の占領を逃れるかたちでアフガニスタンへと渡った経歴を持っていた。

ビン・ラーディンは、アフガニスタンでソ連軍に勝利した翌年の1990年にサウジアラビアに「英雄」として帰国するものの、同国内の米軍の駐留ーー同年の湾岸危機が起こり、イラク攻撃のための多国籍軍の基地が建設されたーーに激しく反発したかどで冷遇される。そして、1992年には再び祖国を離れ、アル=カーイダという独自の組織を結成し、世界各地でジハードを展開していく。

新たな「敵」は米国であった。

アル=カーイダは、スーダンやアフガニスタン(ターリバーンの支配下)を活動拠点としながら、イエメン、サウジアラビア、タンザニア、ケニアなどの米国政府・米軍関連の標的への攻撃を繰り返した。

肥大化した被害者意識としての反米思想、そして、9.11事件

なぜ、ビン・ラーディンは、対ソ連戦における「共闘者」であった米国を敵視するようになったのか。

ビン・ラーディンにとって、ソ連が崩壊した今、ウンマにとっての最大の脅威は唯一の超大国となった米国であった。彼は、1996年に英紙「アル=クドゥス・アル=アラビー」に最初のファトワー(イスラーム法の法学裁定)を発表して以来、世界各地のムスリムに対して繰り返し米国に対する攻撃を呼びかけた。ムスリムであれば、軍人であれ一般市民であれ、米国人を殺害することは義務である、と(ただし、ビン・ラーディン自身は伝統的なイスラーム法解釈の資格を持っていなかった)。

ビン・ラーディンの言説にたびたび登場したのが「十字軍」という表現である。ウンマは現在米国を中心とした「キリスト教徒の軍勢」によって政治的・軍事的・経済的・文化的に攻撃されている。そのため、武力でもってジハードをしなくてはならないーー。

米国による長年にわたるイスラエル支援(パレスチナ人ムスリムの抑圧)、1991年の湾岸戦争におけるイラク攻撃(イラク人ムスリムの虐殺)、二聖都(マッカとマディーナ)を擁するサウジアラビアへの部隊の駐留、さらには、市場万能主義や民主主義という外来物の押しつけなどが、ジハードを行う根拠として繰り返し言及された。

このように異常なまでに肥大化したある種の被害者意識によって、ジハード主義者の標的は、「近い敵」であるムスリム社会の「不信仰者」から、「遠い敵」である非ムスリム社会の「異教徒」へとシフトしていったのである。そこには、軍人や政府関係者だけでなく、一般市民も含まれるようになった。

ビン・ラーディン率いるアル=カーイダによる反米闘争が頂点に達したのが、米国本土への直接攻撃、2001年の米国同時多発テロ事件(以下9.11事件)であった。この非道な行為は、ウンマの自衛措置としてのジハードであるとして正当化された。

ジハード主義者「第2世代」の2つの特徴

このアル=カーイダの台頭は、ジハード主義者の「第2世代」の2つの特徴を顕著に示している。

第1の特徴は、脱領域性である。「第1世代」が基本的には特定の国家内で活動していたのに対して、アル=カーイダは世界全体を作戦行動範囲とした。また、メンバーについても、インターネットを駆使して自らの言説を世界に拡散し、人種や国籍を問わず様々な国や地域からのリクルートを行った。

第2に、ジハードの自己目的化である。それまでのイスラーム主義運動の多くは、自らが生を営む場所の世直しを掲げ、暴力を用いたジハードはあくまでもそのための手段の1つと捉えていた。これに対して、アル=カーイダは、9.11事件が象徴したように、自らが生を営む祖国から遠く離れた米国を攻撃すること自体を目的としていた。

むろん、彼らの論理では、米国攻撃もイスラーム世界の自衛のための1つの手段と位置づけられていた。だが、それでもなお、その後に一応ながら想定されていた米国の打倒(とその後の世界大のイスラーム国家の樹立)という目的は現実味を著しく欠いたものであり、その意味において、彼らはジハードの実践それ自体を目的としていたと言える。

そのため、9.11事件に象徴される自死を厭わぬ「自爆テロ」も、自らの信仰世界の内での自己満足的な行為としての側面が強かった。これは、「第1世代」やイスラーム抵抗運動(第12回)が独裁政権による苛烈な弾圧や外国軍による侵攻・占領という政治的・軍事的制約のなかで戦術として武装闘争やテロリズムを選択したのとは対象的である。

ジハード主義者の「第1世代」の足場も関心もあくまでも自国内にあり、「不信仰者」、とりわけ世俗主義や社会主義を掲げる時の政権がその闘争の標的であった。そのため、彼らのジハードの標的も基本的にはハードターゲットが中心であった。

しかし、「第2世代」になると、関心は国際問題へと移った。国内の「不信仰者」や独裁政権はもちろん「敵」である。しかし、彼らは国内に闘争のための足場を失ったことから、世界大のウンマのための反米闘争という「壮大すぎる」シナリオを描くようになる。そして、そのシナリオが「壮大すぎる」ゆえに、彼らは事実上ジハードを自己目的化せざるを得ず、また、ソフトターゲットを含む無差別な暴力の行使に手を染めることになったのである。