イスラーム抵抗運動の登場、ハマースとヒズブッラー/イスラーム主義とは何か(第12回)

ハマス創設28周年 ガザで記念行進(2015年12月)(写真:ロイター/アフロ)

今回はロンドンから。所属先のロンドン大学SOAS-LMEIで開かれたある研究会でしきりに話題になったのが、東アラブ諸国の内政に対するイスラエルの影響である。

第2次世界大戦後の1948年に誕生した新たな国家としての、そして、事実上のユダヤ教徒による国家としてのイスラエルの存在は、パレスチナはもとより、ヨルダン、シリア、レバノンといった周辺諸国の内政を大きく揺り動かしてきた。研究会では、そのことを今一度再確認・再評価すべきではないか、との指摘がなされた。

イスラーム主義の歴史を考える上でも、イスラエルの存在は決して無視することはできない。今日の東アラブ諸国の政治を左右する2つの強大なイスラーム主義組織は、同国との関係のなかから生まれたものである。

パレスチナのハマース(ハマス)とレバノンのヒズブッラー(ヒズボラ)である。

イスラーム抵抗運動とは何か

マスメディアにおいて、ハマースとヒズブッラーはイスラーム過激派の一種として扱われることが多い。「イスラム原理主義組織」と呼ばれることもある。事実、両組織とも強力な軍事部門を持ち、時として「自爆テロ」をも厭わぬ、激しい武装闘争を繰り広げてきた。

そのため、ハマースもヒズブッラーも、その活動だけを取り上げれば、ジハード主義者ーー武器を取って戦うこと(小ジハードと呼ばれる)に特に固執するイスラーム主義者(第11回)ーーと大きな違いはないように見える。

しかし、ジハード主義者が、世俗主義や社会主義を掲げる独裁政権による苛烈な弾圧のなかで、その「不義の体制」を打倒するために過激化したのに対して、ハマースやヒズブッラーは、最初から外国軍、すなわちイスラエル軍による侵攻・占領に対する抵抗運動(レジスタンス)として結成された点で異なる。そして、両組織は、単なる抵抗運動としてではなく、外国軍に対する武装闘争をイスラームにおける義務として解釈・実践するイスラーム抵抗運動であった。

イスラーム主義も、そこから生まれたジハード主義も、あくまでも特定の政治や社会の状況のなかで選び取られる政治的イデオロギーとしての側面を持つ。ハマースもヒズブッラーも、パレスチナやレバノンで暮らすムスリムの主観的な信仰よりも、外国軍=イスラエル軍による侵攻や占領という客観的な政治状況を反映するかたちで結成されたものであった。

つまり、両組織の結成の背景には、軍事的な極限状態のなかで、イスラームに立脚した抵抗運動こそが最も効果的であるという認識の広がりがあった。

「ムスリム同胞団パレスチナ支部」としてのハマース

ハマースの正式名称は、「パレスチナにおけるイスラーム抵抗運動」。「ハマース」とは、そのアラビア語の各文字を拾ってつくられた略称であり、「熱情」を意味する。ハマースは、1987年にヨルダン川西岸・ガザ地区(以下西岸・ガザ)で勃発した第1次インティファーダ(民衆蜂起)の際にムスリム同胞団パレスチナ支部の軍事部門として創設され、イスラエルによる占領に対する抵抗運動を開始した(ムスリム同胞団については第7回を参照)。

創設者・初代指導者はガザ出身のアフマド・ヤースィーン(1937-2004年)、ムスリム同胞団パレスチナ支部の幹部である。1928年にエジプトで結成されたムスリム同胞団は、パレスチナやヨルダンの支部を通してパレスチナ人への人道支援に注力していた。しかし、インティファーダの勃発により、パレスチナ人の一般市民が抵抗運動に身を投じるような状況が生まれたことで、軍事部門の正式な創設に踏み切ったのである。

ハマースは、1988年に組織の綱領となる「ハマース憲章」を発表した。そこでは、パレスチナ全土の解放、すなわち、イスラエルの殲滅が謳(うた)われた。(1) そのため、いわゆる「二国家解決案」には反対の姿勢であり、1993年のオスロ合意以降の和平プロセスへの抗議のために「自爆テロ」を繰り返した時期もあった。ハマースにとって、将来のパレスチナ国家の領土が西岸・ガザに限定されることなど受け入れられなかったのである(その一方で、後にはイスラエルとの長期停戦の可能性も示すなど、現実主義的な一面も見せている)。

ヒズブッラーと「殉教作戦」

「ヒズブッラー」とは、アラビア語で「神の党」を意味し、クルアーン(コーラン)の章句「神の党こそ勝利する者である」(食卓章第56節)に由来する。その結成のきっかけとなったのが、1982年のイスラエルによるレバノン侵攻、通称レバノン戦争(~1985年)であった。ヒズブッラーは、首都ベイルートまで北進したイスラエル軍に対して、起伏の激しい丘陵地帯を利用したゲリラ戦による激しい抵抗運動を展開した。

この抵抗運動(当時、まだヒズブッラーの名称は用いられていなかった)が世界の注目を集めた事件が、レバノン国内に展開していたイスラエル軍や米軍を中心とした多国籍軍への「自爆テロ」であった。最初の作戦は1982年11月、標的はイスラエル軍兵営、90名の死者を出した。翌年にはベイルートの米国大使館と海兵隊駐屯地が攻撃され、実に241名もの米国人が犠牲となった(このときの海兵隊の1日の死者数は第2次世界大戦時の「硫黄島の戦い」に次ぐものであり、米軍全体として見ても単一の攻撃被害としては第二次世界大戦後最大規模のものとなった)。

これらのヒズブッラーによる一連の作戦こそが、今日の世界を震撼させているイスラーム主義者による「自爆テロ」の嚆矢(こうし)であった。

ここで注目すべきは、イスラームでは自死が禁じられていることである。伝統的なイスラーム法学において、自死を認めるような法解釈は皆無であった。だとすれば、「自爆テロ」はどのように正当化され得るのだろうか。

そこには、大きな発想の転換があった。すなわち、イスラームの信仰や共同体を守るための戦いで命を落とすことは、たとえそれが無謀なかたちであっても、神に背く行為(意図した死)ではなく、神に酬いる行為(意図せざる、結果としての死)であるーー。

ヒズブッラーは、このように「自爆テロ」を正当化し、「殉教作戦」と呼んだ(ちなみに、「自爆テロ」は他称であり蔑称である)。

むろん、こうした大胆な解釈の転換を詭弁と斥けるムスリムも少なくない。しかし、結果的に見れば、イスラエル軍と多国籍軍がレバノンからの無条件撤退を余儀なくされたことで、ヒズブッラーが採用した「殉教作戦」に軍事的な有効性・合理性を見いだす者たちが出てくることになった。ここに、「弱者の武器」としての「殉教作戦」が確立されたのである。

1985年、ヒズブッラーは組織の綱領である「公開書簡」を発表し、その存在を初めて公にした。(2) 同書簡では、レバノンからすべての外国軍を駆逐することに加え、それらの背後にいるとされる世界規模の「抑圧者たち」に対する抵抗を実践することが謳われた。こうした考え方は、1979年にイラン革命を成就させたホメイニーからの強い影響を受けている。ヒズブッラーの結成自体が、イランによる「革命の輸出」戦略の一環であった(第10回)。

1970年代以降の「イスラーム復興」のなかで

以上見てきたように、ハマースもヒズブッラーも、自らの土地を侵攻・占領する外国軍に対する抵抗運動として結成された。ただし、抵抗運動自体は決して新しいものではなく、その起源は現在の中東諸国が西洋列強の植民地支配下にあった20世紀前半までさかのぼる。しかし、ハマースとヒズブッラーの新しさは、いずれもイスラームの教えに立脚したイスラーム抵抗運動である点にあった。

なぜ、この時期にイスラームを掲げる抵抗運動が生まれたのか。その背景にあったのが、「イスラーム復興」と呼ばれる現象である。

イスラーム復興とは、ムスリムが自らの生におけるイスラームの意義と役割を再確認し、それを復権させようとする言動の総称である。「復興」を目指す以上、「没落」が出発点となる。具体的には、19世紀末以降の中東の政治や社会の急速な西洋的近代化がムスリムの生を豊かなものにできなかったこと、あるいは、独裁、紛争、低開発といった諸問題を解決するどころか蔓延させたという現状認識である。(3)

パレスチナとレバノンも、この「イスラーム復興」の例外ではなかった。むしろ、西洋近代的な国民国家の建設が頓挫したことが、人びとを「イスラーム復興」へと向かわせた。

パレスチナでは、そもそもパレスチナ人固有の国家は存在せず、イスラエルとの戦いーーつまり「パレスチナ解放」ーーは世俗主義や社会主義を掲げるアラブ諸国が担っていた。しかし、これらの諸国が1967年の第3次中東戦争でイスラエルに惨敗したことで、「パレスチナ解放」は世俗主義を掲げるパレスチナ自身による組織、すなわち「パレスチナ解放機構(PLO)」の手に委ねられることになった。ところが、そのPLOも、国際的なゲリラ闘争を展開したことで「テロリスト」の烙印を押され、1970年代後半以降活動を低迷させていった。

レバノンでは、1975年に内戦が勃発し(~1990年)、独立以来目指してきた世俗主義(ただし、「宗派制度」という複雑な仕組みが採用された)に立脚した独自の国民国家建設に行き詰まっていた。内戦により国防機能が麻痺した状態において、自国に侵攻してきたイスラエル軍を迎撃したのは世俗主義を掲げる民兵組織の連合体であったが、それも中東最強を誇る同国軍にはまったく歯が立たなかった。

パレスチナとレバノンでは政治環境が大きく異なるものの、西洋近代的な国民国家建設の頓挫と世俗主義を掲げる運動や組織の凋落は共通した現象であった。こうしたなかで、オルタナティヴとしてのイスラームを掲げる抵抗運動が結成され、人びとの支持を集めたのである。(4)

最後に、イスラーム抵抗運動の特徴を掴む上で重要な2つの点に触れておきたい。

1つは、ハマースもヒズブッラーも、自らの武装闘争の根拠を、宗教や宗派の違いではなく、侵攻や占領という現実の軍事・政治の問題に置いていることである。これは、一部のジハード主義者による組織が「不信仰者」、あるいは「異教徒」や「他宗派」を「敵」と見なすのとは大きく異なる(ただし、イスラエル側は、両組織を「テロ組織」に指定し、国家安全保障上の脅威と捉えている)。

もう1つは、ハマースとヒズブッラーが、単なるイスラーム抵抗運動ではなく、紛れもなくイスラームに依拠した社会改革や国家建設を目指すイスラーム主義組織であったことである。両組織とも、喫緊の課題は、自らの土地を(彼らの考える)外国軍の占領から解放することであるが、そもそも、外国軍による侵攻や占領はイスラーム法でなくとも違法であり、それに反発・抗議、そして、抵抗することはイスラーム主義組織の専売特許ではない。

重要なのは、ハマースもヒズブッラーも、自らの土地の解放の先に、イスラームに基づく社会や政治、言い換えれば、世俗主義や西洋的近代化ではない「もう1つの近代」を構想していたことである。そして、今日では、両組織ともに、それぞれパレスチナとレバノンの民主政治に合法政党として参画しており、多くの票を集め続けている。

武装闘争や「自爆テロ」といった現象レベルにおいては、ジハード主義者もイスラーム抵抗運動も同じ過激派に見えるかもしれない。また、それらがたとえば一般市民を標的とするような非道な行為に手を染めたときには、どちらも同じように非難されなくてはならないことは言うまでもない。しかし、その一方で、今日のイスラーム主義の多様な実態を理解するためには、ジハード主義者とイスラーム抵抗運動がそれぞれ異なる文脈で生まれ、また、異なる思想的特徴を持っている点に留意する必要があるだろう。

(1)「ハマース憲章」については、以下の邦訳がある。清水雅子訳「ハマース結成の理念 :『イスラーム抵抗運動「ハマース」憲章」『イスラーム世界研究』第4号1-2,2011年3月、鈴木啓之訳「ハマース憲章全訳:パレスチナ抵抗運動の一側面へのアプローチ」『アジア・アフリカ言語文化研究』第82号,2011年9月。

(2)ヒズブッラーの「公開書簡」は、※岡豊・溝渕正季訳『ヒズブッラー:抵抗と革命の思想』現代思潮新社,2015年に邦訳が収録されている。(※は「はしごだか」)

(3)人類学者の大塚和夫は、イスラーム復興を「文化的・社会的な現象」を指す用語とし、政治的イデオロギーとしての「イスラーム主義」と区別している(大塚和夫『イスラーム主義とは何か』岩波新書,2004年)。

(4)1980年代には、ソ連の侵攻(1978~1989年)を受けたアフガニスタンでも、イスラーム抵抗運動としてのムジャーヒディーンが組織された。これについては、次回論じることとしたい。