イスラーム主義はいかにして「国際問題」になったのか/イスラーム主義とは何か(第10回

米大使館占拠から31年 イラン各地で反米デモ(2010年11月4日)(写真:ロイター/アフロ)

今回はワシントンDCから。出席した日本のエネルギー安全保障に関する会議で、ひときわ話題になったのがイランである。アメリカとイラン両国の関係は、核合意や経済制裁など改善の兆しが見えつつあり、日本が原油を安定的に確保していく上での大きな関心事となっている。

アメリカとイランの関係悪化のきっかけとなったのが、1979年のイラン・イスラーム革命であった。

宗教の復興という衝撃

アメリカを代表する週刊誌『ニューズウィーク』と『タイム』の表紙を見てみよう。両誌とも1979年2月12日号、つまり、イランで革命が成就した直後に刊行されたものであり、また、いずれも革命の指導者ルーホッラー・ホメイニーの肖像が表紙の誌面いっぱいに大きくあしらわれている。

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『ニューズウィーク』は、「イランの謎の男(Iran’s Mystery Man)」と記された帯で誌名が隠れるような、一方、『タイム』は、ホメイニーが壁紙を突き破って現れるようなデザインとなっており、いずれからもアメリカ社会がイラン革命に大きな衝撃を受けたことをうかがわせる。

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それが衝撃的であったのは、単に、革命が起こり、盤石と思われていたーー当時のテヘランにはCIAの中東最大のステーションがあったーーパフラヴィー朝が崩壊したからだけではない。その革命が、黒ターバンに髭の宗教指導者によって引き起こされたからであった。

当時、アメリカだけではなく、ヨーロッパにおいても、いや、20世紀半ばの世界全体において、宗教は時代が進むとともに徐々にその役割を縮小するものと考えられていた。いわゆる近代化論の考え方である。それは、西洋近代の啓蒙思想、とりわけ世俗主義に支えられており、神中心ではなく人間中心の国家や社会を築くべきだという規範に特徴づけられていた。そして、それこそが、「人類の進歩」であると考えられていた。

そのため、イスラーム法学者が革命の指導者となり、また、新たに建設された国家の最高指導者となるような事態は、当時の「常識」からは考えられない、時代に逆行する不可思議な出来事として、当時の人びとの目に映ったのである。

アメリカの驚きと戸惑いは、「イランの謎の男(Iran’s Mystery Man)」という表現に見ることができる。商業誌ゆえの「煽り」も含まれているとは思われるが、多くのアメリカ人にとって黒ターバンと髭の宗教指導者は、「常識」を覆す「謎の男」だったのだろう。

しかし、イラン・イスラーム革命の衝撃は、こうした認知論的な問題だけにとどまらなかった。革命の成功はさまざまな国や地域における現実の政治を大きく揺さぶり、その結果、1980年代の国際政治はその姿を大きく変えていく。

以下では、ホメイニー流のイスラーム主義の特徴、すなわち、「イスラーム共和制」、「反米姿勢」、「革命の輸出」の3つに注目し、イスラーム主義がイラン革命の成功を経て、国際政治の姿を徐々に変えていく様子を描いてみたい。

「イラン型」国家のフォーマット

まず、「イスラーム共和制」について見てみよう。世俗主義や政教分離が「常識」と考えられていた当時において、イラン革命が生み出したイスラーム共和制は、宗教と政治が再び結びついた「イラン型」国家として注目された。

イスラーム主義者は、イスラームに依拠した社会改革や国家建設を目指す。しかし、それがどのような仕組みを有する(べきな)のかについては、彼ら彼女らが活動するそれぞれの国や地域、また時代によって様々なバリエーションがある。また、実際には、具体的な制度や運営方法を記したマニフェストやプログラムの類いが作成・提示されないこともあり、完全無欠の神の意志であるイスラームにしたがえば、よりよい社会や国家ができるといった、主観的な信仰に基づいた抽象的・楽観的なものも少なくない。

こうしたなかで、イランでの革命の成功とイスラーム共和制の樹立は、世界中のイスラーム主義者たちに先例を見せつけたと言える。それは、欧化主義者・世俗主義者に対する「勝利」であり、何よりも、政教分離が進む現代世界においてイスラームの教えに基づく社会改革や国家建設が可能であることの証明となった。

イラン革命は、ムスリム同胞団がイスラーム主義「運動」のフォーマットをつくったのに対して(第7回)、「イラン型」と呼ばれるイスラーム国家のフォーマットを提示した。イスラーム主義者がイスラームに基づく社会と国家の建設を目指すとき、「イラン型」は賛否両論を生みながらも、1つの実践例となったのである(ただし、今日では「イラン型」は反面教師として言及されることも多い)。

「抑圧者」アメリカに対する抵抗

次に、「反米姿勢」を見てみよう。ホメイニーは、アメリカを「大悪魔」と呼び、激しい批判を浴びせた。これに触発された若者たちが、1979年11月4日、テヘランのアメリカ大使館に押し入り、アメリカ人外交官や海兵隊員とその家族ら計52人を人質に立てこもった。最終的に人質が解放されるまで実に444日もの時間を要し、イランとアメリカの国交断絶のきっかけとなった(この事件を題材にしたベン・アフレック監督・主演の映画「アルゴ」(2012)が第85回アカデミー賞作品賞を受賞したことは記憶に新しい)。

ホメイニーは、なぜアメリカを激しく批判したのか。その理由は、イスラームとキリスト教という宗教の違いにあると誤解されることも多いが、実際にはアメリカの対外政策という政治の問題として捉える必要がある。

ホメイニーは、世界は「抑圧者たち」に支配されており、その支配を終わらせるためには世界中の「被抑圧者たち」が連帯して立ち上がることが必要であると説いた(第9回)。その「抑圧者たち」の筆頭が、アメリカだというわけである。

むろん、それには根拠があった。革命で倒れたパフラヴィー朝イランの国王(シャー)が、アメリカの事実上の傀儡(かいらい)であったことである。少なくとも、国王はその独裁政治を維持するためにアメリカ、とりわけCIAに大きく依存していた。

アングロ・イラニアン石油会社の国有化を宣言したモサッデク首相がCIA/MI6の画策によって失脚したクーデタ事件(1953年)や、CIA仕込みの秘密警察(SAVAK)を駆使した独裁政治の強化・拡大は、イラン国民のあいだに反米感情を着実に植え付けていった。また、アメリカによるイスラエルーー聖地エルサレムを含む土地を占領し、そこに暮らすパレスチナ人を抑圧していると批判されるーーへの支援も、ホメイニーの強い反米姿勢の根拠の1つであった。

イランが革命によって親米から反米へと転じたことは、アメリカにとって大きな打撃となった。ソ連との冷戦において、アメリカにとってイランは中東最大の同盟国の1つであったからである。アメリカは、中東におけるソ連の影響力を封じ込めるために、イランとサウジアラビアの両国を「湾岸の憲兵」とする「二柱政策(twin-pillar policy)」を実施してきた。ホメイニーの登場により、アメリカは柱の1つを失い、対中東政策の抜本的な見直しを強いられたのである。

「革命の輸出」戦略

最後に、「革命の輸出」である。アメリカの失点はソ連の得点。その逆もまた然り。こうしたオセロゲームのような攻防が、冷戦下の世界で起こってきたことであった。しかし、同盟国イランの喪失という米国の失点はソ連の得点にならなかった。ホメイニーが「西でも東でもない(資本主義でも共産主義でもない)」という対外政策を打ち出したからである。ホメイニーは、アメリカだけでなくソ連も敵視し、イスラーム主義こそが「抑圧者たち」の世界支配を終わらせることができるイデオロギーであると説いた。

「抑圧者たち」による支配を打ち破ることに成功したイランは、世界各地の「被抑圧者たち」にとっての前衛やロールモデルとなるーー。ホメイニーは、世界中のムスリムに対して立ち上がることを呼びかけ、イラン革命政府はそれを政治的・経済的・軍事的に支援することを宣言した。これが「革命の輸出」戦略である。

1980年代には、レバノン、バハレーン、クウェートなどで、実際にイランの支援を受けていたとされるグループによるテロが頻発した。また、直接的な支援を受けていなくとも、イランでの革命の成功を追い風に、中東の各地でイスラーム主義運動が活動を活発化させた。例えば、1980年にはシリアでシリア・ムスリム同胞団を中心に「イスラーム革命宣言」が発表され、大規模な反政府武装闘争が引き起こされた(が、1982年までにハーフィズ・アサド政権によって鎮圧された)。1981年には、エジプトでアンワル・サーダート大統領が軍事パレード中にジハード団によって暗殺された。

迷走するアメリカの対中東政策

イスラーム主義者の急速な台頭を警戒した各国政府は、イスラーム革命の波及を予防するための行動を起こした。革命直後の1979年12月には、ソ連がイランの北東に位置するアフガニスタンに侵攻(~1989年)し、イスラーム革命の自国領内ーー特にムスリム人口の多い南部の諸共和国ーーへの飛び火を未然に防ごうとした。また、1980年9月にはイラクが直接イランに侵攻、いわゆるイラン・イラク戦争(8年戦争)が勃発した。

アメリカは、ソ連という「古くからの敵」とイスラーム主義という「新しい敵」への対応において戦略上のジレンマを抱えることとなった。このままでは、アフガニスタンはソ連の勢力圏に取り込まれる。それを阻止するためには、ソ連軍と戦う同国のイスラーム・ゲリラ(ムジャーヒディーン)を支援する必要がある(1988年公開の映画「ランボー3:怒りのアフガン」にその様子が戯画的に描かれている)。だが、彼らの肥大化は、アフガニスタンのイスラーム化を招く危険もあるーー。

このようなジレンマを抱えていたゆえに、アメリカが1988年にソ連がアフガニスタンから撤退したとたんにムジャーヒディーンへの援助停止に踏み切ったのは道理であった。アメリカは、アフガニスタンが共産化するのもイスラーム化するのも嫌ったのである。

しかし、こうしたアメリカの対外政策は、イランだけでなく、さまざまなイスラーム主義運動のあいだに反米感情を拡散させる一因となった。後のアル=カーイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディン(1957-2011年)は、アメリカへの攻撃を正当化する上で、1990-91年の湾岸危機・戦争における米軍によるイラク市民の虐殺に加えて、ムジャーヒディーンを「使い捨て」にしたことを挙げている。そして、彼らは21世紀の今日、アメリカの安全保障上の最大の脅威の1つとなっている。

イラン・イスラーム革命は、現代世界に宗教に基づく統治を再び実現しただけではなく、それによって冷戦下の東西両陣営のパワーバランスを大きく震撼させ、今日にいたるイスラーム主義者・運動の国際化や過激化を生み出すきっかけとなった事件であった。中東の各国で反体制派としての「定位置」にあった彼らは、1980年代以降、国内政治の文脈を超えて、国際政治を揺るがす存在となっていった。しかし、その背景には、「イラン型」を範とするイスラーム主義のイデオロギー的な急進化だけでなく、20世紀後半の中東政治や国際政治の打算や誤算の連鎖があったのである。