イラン・イスラーム革命とは何だったのか/イスラーム主義とは何か(第9回)

革命の指導者ホメイニーの凱旋帰国を再現した記念式典(2012年)(写真:Ruhollah Yazdani/Mehr News Agency/ロイター/アフロ)

国際会議のためにイランの首都テヘランに来ている。数日前に実施された第10期国会(イスラーム諮問評議会)選挙と第5期専門家会議では、保守穏健派や改革派と呼ばれる勢力の大躍進が報じられている。また、1月には経済制裁の解除が実施されており、内政と外交の両面において、この国が転換期を迎えていることを感じさせる。

イランの正式な国名は、「イラン・イスラーム共和国」。「イスラーム共和制」という独特の政治体制を採用している世界にただ1つの国である。その成立は、1979年のイラン革命にさかのぼり、20世紀におけるイスラーム主義の1つの到達点であった。

西洋化と独裁の果て

イスラーム主義運動ーーエジプトのムスリム同胞団やイラクのイスラーム・ダアワ党などーーは、多くの中東諸国において反体制派としての「定位置」にあった。政権が世俗主義をはじめとする西洋的近代化を推し進めていただけではなく、独裁や低開発といった諸問題が蔓延するなかで、イスラーム主義は社会や国家の状況を改善するための処方箋として人びとの注目や支持を集めた。

イランでも基本的な構図は同じであった。1925年に成立したパフラヴィー朝は、第2次世界大戦後にはアメリカへの政治・経済・軍事面での依存を強め、社会と国家の西洋化路線を強く打ち出していった。

これを植民地主義への従属と見なした人びとによる揺り戻しはあったもののーーモサッデク首相率いる国民戦線が主導したアングロ・イラニアン石油会社の国有化、およびその後のCIA/MI6の画策による政権転覆ーー、いや、それゆえに、国王(シャー)は自らにさらなる権力を集中させることで政権基盤を固めようとした。独裁は権力の腐敗を生み、権力の腐敗は国民生活を蝕んでいった。

国王の独裁に対する国民の不満が高まるなかで、反体制派としてのイスラーム主義運動は勢力を強めていく。

ホメイニーの革命論

そのなかで頭角を現したのが、イスラーム法学者(ウラマー)のルーホッラー・ホメイニー(1902-1989年)であった。

ホメイニーは、1902年、イラン南部の小村の法学者の家に生まれた。学研都市ゴムでイスラーム法学を修めた後、国王の独裁と対米追従路線を激しく批判したことから、1964年には国外追放処分を受けた。しかし、その後も国外からパフラヴィー朝に対する反体制派としての活動を続け、次第に国内外に暮らすイラン人たちの支持を集めていった。

ホメイニーは、現代シーア派イスラーム法学における「法学者による統治」論の論者の1人であった(第8回)。1970年のイラク・ナジャフでの一連の講義録『イスラーム統治体制:法学者の監督』において、次の2つの理由からパフラヴィー朝に対する革命の必要性を説いた。

第1に、抑圧や社会正義の欠如の原因は、西洋列強による植民地主義の拡大とそれにともなう社会の「脱イスラーム化」にある。第2に、そもそも正しいイスラーム的統治は初代イマーム(指導者)であるアリー(第4代正統カリフ)の死(661年)をもって途絶えており、その後生まれた世襲王朝についてはイスラーム的な正当性の観点からすべて不正である。

つまり、イランのパフラヴィー朝が革命の対象となったのは、それが社会の西洋化を闇雲に推し進めていたことだけではなく、その王政という枠組み自体が根本的に不正であると見なされたためであった。

その上で、ホメイニーは、イスラーム法の解釈権限を持つ高位の法学者が国家の運営を「監督」すべきとの理論を提示し、革命の成功後にはその実現に邁進するように人びとに呼びかけた。

このホメイニーの革命論は、演説を録音したカセットテープのかたちでイラン国内に大量に流通した(ダビングが繰り返された)。こうして、反王政運動は拡大していった。

反王政運動の広がり

ただし、イランでの革命は最初からイスラーム共和制の樹立を既定路線としていたわけではなかった。この時期の反王政運動を担っていたのは、ホメイニーのようなイスラーム主義者に加えて、モジャーヘディーネ・ハルクやフェダーイーヤーネ・ハルクなどの左派勢力、トゥーデ党や国民戦線などのナショナリストであった。

実際、ホメイニーの革命論には、階級闘争の要素も多分に含まれていたーー世界は「抑圧者たち」に支配されており、彼らを打倒する「被抑圧者たち」が連帯して立ち上がることが必要である。

フランスの中東政治研究者ジル・ケペルは、こうしたホメイニーの思想を「シーア派社会主義」と呼び、イランで革命を成就させるには社会主義者たちや貧困層の支持が欠かせなかったと指摘している(ジル・ケペル『ジハード:イスラム主義の発展と衰退』(丸岡高弘訳)産業図書, 2006年, pp. 147-188)。こうした呼び名の妥当性には議論の余地があるが、ホメイニーの革命論が単なる過去への回帰ではなく、社会主義という20世紀的あるいは現代的な一面を持っていたことは注目に値する。

いずれにしても、反王政運動は一般国民を巻き込んだ全国規模のデモへと発展し、1979年1月、国王は休暇の名目で国外へ退避、それと入れ替わるかたちでホメイニーが亡命先のフランスから凱旋した。15年ぶりに踏んだ祖国の地であった。

こうして、パフラヴィー朝は終焉を迎え、イラン革命は成功した。

「革命」から「イスラーム革命」へ

革命によって「不義の体制」を打倒した後に、どのような国造りをすべきなのか。反王政運動で共闘してきたイスラーム主義者、左派、ナショナリストのあいだの見解の違いは、やがて激しい権力闘争を引き起こすことになった。

こうしたなかで、ホメイニー率いるイスラーム主義勢力は、「法学者の統治」論に基づく「イスラーム共和制」という新たな国家像を示し、1979年12月のイスラーム共和国憲法の発布を経て、1980年3月に実施された第1期国会選挙では大勝を収めた。そして、ホメイニーが初代の最高指導者(後述)の座に着いた。

テヘラン市内、革命防衛隊の壁画(写真:筆者撮影、2008年12月)
テヘラン市内、革命防衛隊の壁画(写真:筆者撮影、2008年12月)

イスラーム共和国憲法では、「民法、刑法、財政、経済、行政、文化、軍事、政治ならびにその他の法律と規則は、イスラームの基準に基づかなければならない」(第4条)と定められた。革命後のイランでは、法学者を中心にイスラームに基づく国造りが進められていくことになり、これにともない「イラン革命」は「イラン・イスラーム革命」と呼ばれるようになった。

「イラン・イスラーム革命」の成功、すなわち民衆革命による世俗主義・親西欧政権の打倒とイスラームに基づく政治体制の樹立は、紛れもなく20世紀のイスラーム主義運動の最初の大きな勝利であった。

イスラーム共和制とは何か

20世紀のイスラーム主義者たちは、イスラームの教えを社会変革・国家建設の基調としながらも、西洋的近代化の方法や成果を取り入れることで、現代という時代を担うことができる新たな秩序の形成を模索していた。彼らに人びとの支持が集まったのは、彼らが過去よりも未来、破壊よりも建設を目指していたからであろう。

こうした事実は、イスラーム共和制という希有な政治体制に如実に表れている。現代の共和制は、18世紀の米国やフランスに生まれたまさしく近代西洋の所産である。しかし、ホメイニーたちは、これをイスラーム法による統治と融合させることを試みた。

詳しく見てみよう。このイスラーム共和制では、高位のイスラーム法学者が最高指導者として君臨しながらも、行政・立法・司法の三権分立や選挙による政権交代が実施されている。冒頭で触れたように、国会選挙(議員定数290、任期4年)の結果は紛れもなく国民の投票によって左右され、行政の長である大統領選挙(任期4年)も同様である。

しかし、イランは「非民主的」、あるいは権威主義体制の一種として語られることが多い。例えば、アメリカを拠点とする国際NGO「フリーダムハウス」の最新の指標(2016年)によれば、イランの「自由度」は100点満点中17点であり、世界でも有数の「不自由」な国に分類されている。いわば、民主主義の落第生である。

低評価の理由は、行政・立法・司法の三権を優越する機関が別個に存在していることにある。具体的には、最高指導者、専門家会議、そして、監督者評議会の3つである。

イスラーム共和制は、国民を政治の主体とする共和制であると同時に、イスラームの教えに沿ったものでなくてはならない。したがって、民意がいかなるものであろうと、もし仮にそれがイスラームの教えに反する場合には、イスラーム法に精通した者、すなわち法学者によって正されなければならない。つまり、イランでは一般国民に優越するかたちで法学者たちが君臨している。

最高指導者は、シーア派イスラーム法学の最高位である「マルジャア・タクリード」の称号を持つ法学者のみが務めることができる(憲法第109条)。その豊富な学識を通して、国民を指導する立場にあり、三権に加えて国軍と革命防衛隊のそれぞれの長の任命・罷免権を有するなど、絶大な権力を持つ。

専門家会議は、この最高指導者を任命・罷免するための機関であり、86人の「ムジュタヒド」の称号を持つ法学者から構成される。メンバーの任期は8年で、一般国民が投票する選挙によって選ばれる。

監督者評議会は、イスラーム法学者6名と一般の(=イスラーム法ではない)法学者6名の12名から成る。国家の統治がイスラーム的に正しく行われているかどうか、文字通り監督する機関であり、特に、国会で審議された法案や国会選挙の立候補者の選定に対する拒否権を持つ。

総じて言えば、イランのイスラーム共和制は、民意を汲み取るための「民主的」な仕組みが整備されながらも、イスラーム法学者たちが様々な局面で意思決定に発言力を行使できるような制度設計がなされている。それゆえに、しばしば「非民主的」という評価がなされるのである。

むろん、イラン人自身も現在のイスラーム共和制を完全に「民主的」と考えているわけではないだろう。保守強硬派が主導する選挙不正の噂は後を絶たず、今回実施された2つの選挙においても、監督者評議会が多くの立候補者を「不適格」として退けるなど、民意が軽視されているという感覚は多くのイラン人に共有されている(民主化の先進国と呼ばれるような国でも国民の政治に対する不信・不満が後を絶たないことも忘れるべきではない)。

しかし、重要な点は、イラン・イスラーム革命は、ホメイニーの猛々しい言動から反西洋近代や過去への回帰のイメージが人口に膾炙(かいしゃ)したものの、実際には西洋的近代化を経た不可逆的な現代という時代に相応しい新たなイスラーム的社会や国家の実現を試みるものであった、ということである。その試みは、様々な問題を抱えながらも、革命から30年以上経った今も続いている。