シーア派イスラーム主義運動の挑戦、イスラーム・ダアワ党/イスラーム主義とは何か(第8回)

バーキル・サドルの写真を掲げるイラクのシーア派住民(写真:ロイター/アフロ)

今回は再びロンドンから。現代のイスラーム主義運動の嚆矢(こうし)は、1928年にエジプトで結成されたムスリム同胞団であった(第7回)。同胞団によって生み出された運動の「フォーマット」は、エジプトの地を越えて、多くの国々のイスラーム主義者たちをインスパイアした。こうして、20世紀の後半には、世界各地でさまざまなイスラーム主義運動が結成された。

エジプト国民の大多数はスンナ派である。そのため、同胞団は、しばしば「スンナ派のイスラーム主義運動」と呼ばれる。このことは、裏を返せば、「シーア派のイスラーム主義運動」が存在することを示している。同胞団が確立したイスラーム主義運動の「フォーマット」を共有しながらも、シーア派のイスラーム主義運動は独自の発展を遂げてきた。その原点といえる、イラクのイスラーム・ダアワ党を取り上げてみたい。

スンナ派とシーア派

そもそも、スンナ派とシーア派は何が違うのか。

近年、中東情勢に関する報道では両派の軋轢が取りざたされているが、実際のところでは、それぞれの信徒は、同じイスラーム教徒(ムスリム)としてのアイデンティティを共有している。お互いの存在を認め、リスペクトする、というのが一般的なムスリムの立場であろう。イスラームという宗教への信仰という点に違いはない。

スンナ派とシーア派の違いは、イスラーム共同体(ウンマ)のあり方と、その根拠となる歴史をめぐる認識にある。

632年に預言者ムハンマドが死去した後、誰がウンマを率いるのか、という後継者をめぐる問題が生じた。預言者の後継者を「カリフ」と呼ぶ。

この後継者問題は、4代目のカリフ、預言者の嫁婿(義理の息子)であるアリー(600頃-661年)のときに顕在化した。ある人びとは、このアリーが正統な後継者であると考えた。いわば、血筋を重んじる立場である。これに対して、後継者は必ずしも世襲でなくてもよい、話し合いで決めればよい、と考える人びともいた。

前者の預言者の血筋を重んじた人びとが、シーア派である。「シーア」とは、党派や派閥を意味する。もともとは「アリーに付き従う党派(シーア・アリー)」と呼ばれていたものが、後に「シーア」の語がだけが残ったといわれている。

これに対して、後者の話し合いを重んじた人びとが、やがてスンナ派と呼ばれるようになった。「スンナ」とは、慣行や範例の意である。預言者の後継者は、ウンマの団結や合意によって決めればよい、という、文字通り慣行や範例を重視する人びとということになる。

この預言者の後継者問題は、ウマイヤ朝(661-750年)の建国によって一応の収束を迎えることとなった。ウンマを二分した内乱において、シーア派が次期カリフに推したアリーの息子フサインが戦死したのである。

しかし、シーア派は、その後もアリーの子孫を約300年間、12代にわたって預言者の後継者・ウンマの指導者として支持し続けた。第12代を最後に血筋が途絶えてしまってからも、いつか訪れる「終末の日」の直前にその子孫が救世主(マフディー)として再臨するとされている。

現在、世界のムスリム人口は16億から17億人と言われているが、そのうちの90%がスンナ派であり、シーア派は10%程度である。シーア派信徒が特に多く暮らしているのが、イラン(人口の90-95%)、イラク(同65-70%)、バハレーン(65-75%)、レバノン(45-55%)である(PRCのデータによる)。

バーキル・サドルとイスラーム・ダアワ党

シーア派のイスラーム主義運動の原点が、1957年にイラクで結成されたイラク・イスラーム・ダアワ党である。「ダアワ」とは、一般に布教や教宣と訳され、クルアーン(コーラン)にも何度も登場する言葉の1つである。人びとをイスラームの教えに招くための呼びかけを意味する。

ダアワ党は、カリスマ的なイスラーム法学者、ムハンマド・バーキル・サドル(1935-80年)を中心に結成された。その背景には、当時のイラク社会の急速な世俗化に加えて、アラブ社会主義バアス党による一党独裁と、それにともなう社会経済的諸問題の深刻化があった。

1935年、イラク中部のカーズィミーヤに生を受けたバーキル・サドルは、師範学校を卒業したムスリム同胞団の創始者ハサン・バンナーと異なり、伝統的なイスラーム教育を修めた、いわば正統派の法学者であった。シーア派特有のイスラーム法学の「知のヒエラルキー」において、高い位階にまで上り詰めた人物でもあった。

バーキル・サドル全集第1巻「帰納法の論理的基礎」(写真:筆者撮影)。
バーキル・サドル全集第1巻「帰納法の論理的基礎」(写真:筆者撮影)。

バーキル・サドルは、「法学者の統治」論を唱えた思想家の1人であった。「法学者の統治」論は、イラクのムハンマド・シーラーズィーやサーディク・サドル、レバノンのムハンマド・フサイン・ファドルッラーなど、20世紀のさまざまなシーア派の法学者たちに共通して見られた政治思想であり、イスラーム法学者が自ら主導して国家と社会を運営すべきだとする理論を展開した。これは、「法学者はあくまでイスラーム法の番人であり、統治者とは一線を画すべきである」としてきた伝統的なスンナ派の政治思想とは異なる考え方であった。

ダアワ党は、イラクが抱える様々な課題を解決するためには、イスラームに基づく社会変革と国家建設が必要であると説き、多くのメンバーや支持者を獲得していった。

フサイン政権による弾圧と運動の分裂

イスラーム主義を掲げるダアワ党は、世俗主義や社会主義を掲げる時の政権によって激しい弾圧を受けることとなった。1969年のバアス党政権の成立、そして、1979年のサッダーム・フサイン(1937-2006年)の大統領就任を経てダアワ党に対する弾圧は頂点に達し、1980年に解散命令を受けた後、バーキル・サドル自身を含む多くのメンバーが逮捕・処刑された。

その結果、ダアワ党はイラク国外での活動を余儀なくされるようになり、亡命の過程で運動は分裂の危機に直面した。主な活動拠点はイランーーイラク・イスラーム革命最高評議会(SCIRI)の一翼としてーーであったが、1988年にはシリアのダマスカス、そして、ここロンドンにも支部が設立された。

ちなみに、2003年のイラク戦争後に設置されたイラク統治評議会の議長や暫定政府の首相を務めたイブラーヒーム・ジャアファリー(現外相)、それから、現首相のハイダル・アバーディーも、ダアワ党のロンドン支部の出身者であり、それぞれ在英経験を持つ。

英国には、1950-60年代にイラクからの移住者が訪れるようになり、1980年代初頭以降はフサイン政権による弾圧を逃れたきた国外避難民(とりわけクルド人)が押し寄せた。その後に、イラク戦争とその後の内政の混乱によって、再び大きな移住者の数が急増した。IOM(International Organization for Migration)のデータでは、2007年の段階で、在英イラク人の数は20万人を超えていた。イラク出身者としてよく知られている1人が、日本の国立競技場の建て替え問題で渦中の人となったザハ・ハディドである。彼女は、1972年に留学のために英国に渡ったが(現在は英国国籍)、後にフサイン政権の独裁を嫌って家族を呼び寄せている。

ダアワ党は、長く過酷な弾圧の時代においてもイラク最大の反体制派としての活動を続け、国内のシーア派住民を中心に支持者の支持に努めた。そして、2003年のイラク戦争によってフサイン政権が倒れた後、選挙を通して政権の座に着き、以後、同国の政治を主導する大きな勢力となっている。

最後に強調しておくべきことがある。今回の記事ではスンナ派の同胞団とシーア派のダアワ党というかたちで論じたが、両派のイスラーム主義運動が自分たちの宗派をことさら強調したり、宗派の違いを理由に相手を敵視したりすることは、一部の過激派を除けば、過去にも現在にも皆無である。

特定の目標、立場、支持者、資源を持つ運動ーーそもそもイスラーム主義は政治的なイデオロギーーーである以上、現実の政治において競合・対立することはある。しかし、それを単純に「宗派対立」と呼んでしまえば、刻一刻と変化する政治の動態を見落としてしまうだけでなく、宗派の違いを政治化・争点化することに荷担する、つまり、本来存在しないはずの「宗派対立」の具現化を助長してしまう恐れがある。現実の政治はそれほど単純ではないが、だからこそ、辛抱強く丁寧に見ていく必要がある。