イスラーム主義運動の誕生、ムスリム同胞団/イスラーム主義とは何か(第7回)

会見を開くムスリム同胞団指導部(2012年11月)(写真:ロイター/アフロ)

今回はモロッコの首都ラバトから。街角で時々目に入ってくるのが、現国王ムハンマド6世の写真や肖像画。17世紀にこの地に支配を確立したアラウィー朝第23代国王である。

モロッコの歴代国王は、アラビア語で王を意味する「マリク」に加えて、イスラーム共同体(ウンマ)の指導者カリフを指す「アミール・アル=ムーミニーン(信徒たちの長)」を自認してきた。さらには、預言者ムハンマドの血筋を引く「シャリーフ」であるとされている。

このことが示唆するのは、モロッコの政治体制の正統性(レジティマシー)にはイスラームの要素が多分に含まれていることである。王が王であるのは、それがイスラーム的に正しいからである、という論理である。

実は、中東のなかでも統治の正統性をイスラームに依拠(依存)している国は、モロッコの他に、イランやサウジアラビアなどごくわずかに限られている。逆に言えば、中東のほとんどの国では、政治とイスラームを分離する世俗主義、あるいは西洋型の近代国家を模した統治が行われている。

イスラーム主義運動とは何か

イスラーム主義者たちから見れば、こうした現実は好ましいものではない。彼ら彼女らは、イスラームに依拠した社会改革や国家建設を理想としている。そのため、世俗主義に基づく体制や西洋的近代化へと大きく傾斜した社会や国家を変革しようと、政治への働きかけを余儀なくされる。

こうして生まれたのがイスラーム主義運動である。イスラーム主義運動とは、その名の通り、イスラーム主義を掲げる社会運動のことを指す。

ただし、ある人がイスラーム主義者になる動機を、内面の信仰、つまり、篤信的であることだけに求めることはできない。実際には、現実の中東が低開発、独裁、戦争、内戦といった諸問題に直面するなかで、世俗主義や西洋的近代化ではない「もう1つの近代」を目指すという側面があることを見逃してはならない。

つまり、イスラームを政治的なイデオロギーとして信奉するかどうかは、どちらかと言えば信仰よりも理性の問題である。イスラーム主義は、その理念や政策の善し悪しや他の運動や政党の比較のなかで、あくまでも選び取られるものなのである。

バンナーとムスリム同胞団

イスラーム主義運動の嚆矢(こうし)が、有名な「ムスリム同胞団」である。ムスリム同胞団の結成は、20世紀の初頭までさかのぼる。創始者は、エジプトの小学校教師ハサン・バンナー(1906-49年)であった。

バンナーは、アズハル学院のような伝統的なイスラーム教育機関ではなく、西洋的近代的のなかで新たに設置された師範学校(ダール・アル=ウルーム)の出身者であった。ただし、英国の植民地支配下にあった当時のエジプトにおいて、バンナーは近代西洋に無批判であったわけではなかった(実際に反英独立闘争を支持した)。だが、その一方で、西洋列強に故郷が蹂躙されるなかで有効な手立てを打ち出すことのできない伝統的なウラマーたちに対しても疑念を抱いていた。

欧化主義者でもなく、伝統墨守派でもなく、いったい自分はどこに向かえばよいのかーー。煩悶(はんもん)するバンナーに一筋の光を与えたのが、アフガーニー、アブドゥ、リダーの系譜に連なるイスラーム改革思想であった(第6回)。

長らく停滞していたイスラーム法の解釈を再活性化することで、西洋近代が生んだ思想や科学との共存が可能となり、新たな時代に応じた政治や社会を築くことができるーー。バンナーは、この思想を先人たちとは違う方法で教宣(ダアワ)することを決めた。社会運動の結成である。それこそが、ムスリム同胞団であった。

ムスリム同胞団は、1928年、スエズ運河に面した街イスマーイリーヤで結成された。同胞団の活動は、モスクの建設・運営、医療奉仕活動、教育、学生・女性・労働者の組織化、企業経営、ボーイスカウトやスポーツクラブの設立・運営など多岐にわたった。その背景には、性急な国家権力の奪取ではなく、個人、家族、社会、国家、そして世界へと開かれた段階的なイスラーム的価値の実現を目指すという、バンナー個人の信念があった。

ムスリム同胞団は、アフガーニーらのイスラーム改革思想を本格的に実践に移すために誕生したと言っても過言ではない。バンナー自身、運動のアイデンティティとしてサラフィー主義を掲げており、また、リダーの死後(1935年)、『マナール』の復刊にも尽力している。同胞団は、1932年にカイロに本部を移した後には、50万人を超えるメンバーを抱えるほどの巨大な社会運動へと急発展した。

反体制派としての「定位置」

このようにムスリム同胞団は、欧化主義者と伝統墨守派の中間に位置し、また、ただちに国家権力の奪取を目指すこともない、いわば中庸を歩む穏健な運動であった。

しかし、エジプトでは、英国からの独立を果たした後もなお、西洋的近代化を既定路線とする国造りが進められていった。そのため、体制の側から見たとき、イスラーム主義を掲げるムスリム同胞団は、たとえ穏健な運動であっても、国のあり方を大きく変えてしまいかねない潜在的な脅威に他ならなかった。

こうしたなか、エジプトの政府は、1948年12月、ムスリム同胞団を解散させ非合法化した。これに対して、同胞団は首相の暗殺というかたちで応え、体制との対決姿勢を鮮明にした。翌年には、バンナーが何者かによって暗殺された。

以後、ムスリム同胞団は、先に述べたような様々な社会活動を続けながらも、エジプト政治における権力闘争のプレイヤーとしての色彩を強めることとなった。世俗主義と西洋的近代化を推し進める体制側に対して、イスラーム主義を掲げるムスリム同胞団が反体制派の「定位置」をとる、という図式ができていったのである。

むろん、体制とイスラーム主義運動との関係は常に一定ではなく、デタント(雪解け)の兆しが見られる時もあれば(例えば、1952年の自由将校団による共和革命時など)、苛烈な弾圧が行われる時もあった。ムスリム同胞団は、地道な社会活動を続けながら、また、弾圧への反発から過激な分派(過激派)を生み出しながらも、エジプト社会に深く根を張っていった(その底力は、半世紀以上を経た2011年「アラブの春」の後に実施された国民議会選挙と大統領選挙での勝利というかたちで証明されることになる)。

イスラーム主義運動の代名詞?

バンナーの著作は、イスラーム主義の基本的な考え方だけでなく、社会運動のノウハウを伝えるものとして、世界中で読まれ続けている。昨年には、日本でも邦訳が刊行された(北澤義之ら編訳『ムスリム同胞団の思想(上):ハサン・バンナー論考集』岩波書店, 2015年)。

ラバトの書店、バンナー関連書籍の棚。モロッコにも運動はある(写真:筆者撮影)。
ラバトの書店、バンナー関連書籍の棚。モロッコにも運動はある(写真:筆者撮影)。

さらには、ムスリム同胞団の組織自体が国際展開をしており、中東や南アジア、東南アジアの各国にも支部や関連団体が存在する。中東ではヨルダン、シリア、スーダンなどに同名の支部があり、パレスチナでは「ハマース」、レバノンでは「イスラーム集団」、イラクでは「イスラーム党」の別名で活動している。中東以外では、インド、パキスタン、インドネシア、マレーシア、アフガニスタンなどに別名の関連団体がある。(1)

こうしたことから、今日、ムスリム同胞団はイスラーム主義運動の代名詞とも言える存在となっている。しかし、あらゆるイスラーム主義運動がムスリム同胞団のような「フォーマット」を採用しているかのような見方には注意しなくてはならない。その「フォーマット」とは、次の3つの特徴からなる。

第1に、テキスト化された思想、すなわち綱領やマニフェストがあること、第2に、カリスマ的な指導者と組織化された指導部があること(社会運動論における社会運動組織にあたる)、第3に、世俗主義や西洋的近代化を推し進める体制との直接的な対決姿勢、すなわち反体制派として「定位置」をとること、である。こうした「フォーマット」へのこだわりは、特にフランスの研究者に強く見られると指摘されている(この点については、あらためて論じたい)。

ムスリム同胞団がイスラーム主義運動の嚆矢であり、大きな1つのトレンドをつくってきたことに間違いはない。しかし、すべての運動がこの「フォーマット」に収まるものではないことも事実である。中東各地のイスラーム主義運動が織りなす現実は差異と変化に満ちている。本連載では、引き続き、その現実を浮き彫りにしていきたい。

(1)ムスリム同胞団には「国際組織(タンズィーム・ダウリー)」が存在するが、「同胞団の歴史における重要な特徴であり、運動の発展に重要な役割を果たしてきた」ものの、今日では実質的な機能は果たしていないとされる(Alison Pargeter, The Muslim Brotherhood: From Opposition to Power, new edition (London: Saqi, 2013), p. 105)。