イスラーム改革者の系譜をたどる/イスラーム主義とは何か(第6回)

パリ・アラブ世界研究所(Institut du monde arabe)(写真:アフロ)

調査のためにパリに来ている。昨年11月のテロ後に延長された非常事態宣言の下、フランスの全土では厳戒態勢が続いている。ムスリムたちは、国家や社会からのいっそう厳しい目に晒されるようになった、とこぼす。

パリから発信されたイスラーム改革思想

1883年、このパリを1人のムスリム思想家が訪れている。ジャマールッディーン・アフガーニー(1839~1897年)、現代におけるイスラーム主義の「レジェンド」である(第5回)。

西洋列強の帝国主義が猛威を振るうなか、イスラーム共同体(ウンマ)は危機に瀕している。この危機を克服するためには、イスラームが持つ本来の力を蘇らせなくてはならないが、それは西洋近代が生んだ思想や科学を拒絶することを意味しない。そうではなく、人間による硬直化したイスラーム法解釈を再活性化することで、それらとの共存が可能となり、新たな時代に応じた政治や社会を築くことができるーー。

このような考え方は、イスラーム改革思想(イスラーヒーヤ)と呼ばれる。

パリに到着したアフガーニーは、このイスラーム改革思想を世界に発信することを決意し、1884年、『固き絆』と題した政治評論を発刊した。『固き絆』は、同年3月から10月のあいだ通算18号が刊行され、世界各地のムスリムたちが直面する数々の困難、とりわけ西洋列強による軍事面・文化面の二重の脅威を乗り越えるためにはイスラーム改革が不可欠であると訴えた。

復刻版の『固き絆』、アフガーニーとアブドゥの名前が刻まれている(写真:筆者撮影)。
復刻版の『固き絆』、アフガーニーとアブドゥの名前が刻まれている(写真:筆者撮影)。

アフガーニーからアブドゥへ

『固き絆』には、実は共同執筆者がいた。アフガーニーの弟子、エジプト出身のムハンマド・アブドゥ(1849~1905年)である。アフガーニーが発行責任者を、アブドゥが編集長をつとめ、師の思想を弟子が書き綴るというかたちがとられた。

カイロのアズハル学院で伝統的なイスラーム教育を修めたアブドゥは、1871年、カイロに滞在していたアフガーニーに出会い、人生を大きく変えていく。アフガーニーのイスラーム改革思想に深い感銘を受け、高弟の1人となったのである。その後、イスラーム法学者(ウラマー)ではなく世俗的な師範学校(ダール・アル=ウルーム)の教師となり、また、自宅で西洋近代思想の学習会を開くなど、イスラームと西洋近代が生んだ思想や科学との接点を模索した。

そうしたなか、アブドゥは、1881年にエジプトで起こった反英独立運動(ウラービー運動)に荷担したかどで、エジプト追放の憂き目に遭う。その際、パリに居を移し、師であるアフガーニーの出版活動に合流したのである。

7年後、アブドゥは、エジプトへの帰国を許され、アズハル学院の運営委員会のメンバーを経て、同国のイスラーム法の権威である最高ムフティーに就任した。そして、アフガーニーのイスラーム改革思想の理論化とその発展につとめ、エジプトの法や教育の分野に大きな変革をもたらした。アブドゥのこうした活動の根底にあったのは、「純粋なイスラーム」を追求することで、イスラームと近代西洋の思想や科学が両立する、言い換えれば、人智の及ばない神からの「啓示」と人間が備え持つ「理性」が調和しうる、という信念であった。

つまり、アブドゥは、安易な「親西欧」でも「反西洋」でもなく、自らのよりどころであるイスラームにしたがった「非西洋」の道、すなわち「もう1つの近代」があることを示そうとしたのである。

そして、リダーとサラフィー主義へ

こうしたアブドゥの考え方は、伝統的なイスラームを護ろうとする伝統墨守派と近代的な西洋化路線を掲げる欧化主義者とのあいだの中庸の思想として、イスラームと西洋近代のはざまで揺れ動くムスリムたちに広く受け入れられ、多くの弟子たちを集めることとなった。そのなかには、『女性の解放』を著したカースィム・アミーンやエジプト独立運動の指導者となったサアド・ザグルールなどがいた。

だが、その後のイスラーム主義の発展という文脈で見た場合、特に重要なのが、シリア出身のムハンマド・ラシード・リダー(1865~1935年)であった。リダーは、アフガーニーとアブドゥのイスラーム改革思想における「純粋なイスラーム」の追求という点に特にこだわった思想家であった。

故郷のシリア(現在のレバノン北部)で伝統的なイスラーム教育を受けていたリダーは、パリから発信された『固き絆』に綴られたイスラーム改革思想に衝撃を受ける。そして、1897年、32歳のとき、アブドゥに師事するためにエジプトへの移住を決意した。

カイロに渡ったリダーは、アブドゥとともに新たな雑誌『マナール(灯台の意)』を創刊した。『マナール』は、1898年からリダーが死去するまでの約40年間にわたって刊行され、西はモロッコから東はジャワ島まで広く流通し、各地のムスリムたちにイスラーム改革思想を伝えていった(その思想に共鳴した者たちとしては、アブドゥルラフマーン・カワーキビーやシャキーブ・アルスラーンなどが挙げられる)。また、現実のイスラーム共同体で起こっている時事問題への言及も数多く、イスラーム改革思想に基づく政治や社会の改革の実践を呼びかけるものでもあった。

総計3万ページにも及んだ『マナール』の最大の功績は、「サラフィー主義(サラフィーヤ)」と呼ばれる思想の確立と理論化であった。サラフィー主義とは、イスラーム初期世代(サラフ)からスンナ派の四大法学祖までを範とし、クルアーン(コーラン)とハディース(預言者ムハンマドの言行録)に直接的に依拠しながらイスラーム法の規範を導き出すことを是とする思想である。端的に言えば、後生の人間によるイスラーム解釈から距離を置き、初期世代が体現した原点を重視しようという立場である。

『マナール』は、イスラーム共同体の衰退を許した伝統墨守派だけではなく、その解体を引き起こしかねない欧化主義者に対しても批判を繰り返した。そして、イスラーム初期世代が体現した「純粋なイスラーム」に立ち返ることこそが、イスラームと西洋近代が生んだ思想や科学との調和を可能とする唯一の方法であると説いた。

つまり、アフガーニーやアブドゥにも「純粋なイスラーム」へのこだわりはあったが、リダーはそれをいっそう濃厚かつ体系的なかたちで提示したのだと言える。その意味で、イスラーム改革思想が本来持っていた柔軟性や許容性を損ねたという批判が向けられることにもなったが、リダー自身はアブドゥの一番弟子を自認し、その生涯を綴った伝記を執筆・刊行している。

以上見てきた3人のイスラーム改革者の思想と活動をたどっていくと、この時期に彼らが掲げた理想としての「イスラーム」が主観的な信仰とは異なるものになっていることに気がつく。それは、もはや「西洋近代」や「伝統」と対比させられる客観的な対象であり、それゆえに、ムスリムが、内面の信仰ではなく政治的な立場として、自らの意志で選び取るものであった。ここに、「イデオロギーとしてのイスラーム」、すなわちイスラーム主義の形成を見ることができるのである。