イスラーム主義の起源を考える/イスラーム主義とは何か(第5回)

英国バーミンガム大学で発見された「世界最古」のクルアーン(写真:ロイター/アフロ)

アラブ首長国連邦、ドバイの空港でこれを書いている。今回はフライトの乗り換えのために立ち寄っただけだが、この街のめざましい経済発展にはいつも驚かされる。ドバイは、今や人、モノ、カネ、情報が飛び交う世界最先端のグローバル都市であり、非西洋諸国において最も近代化した都市である。

しかし、歴史を紐解いてみると、現在のアラブ首長国連邦を含むアラビア半島の大部分こそが、「純粋(ピュア)なイスラーム」を求める復古主義的な勢力が台頭した土地であった事実に気がつく。18世紀に興ったワッハーブ派である。

ドバイは、ワッハーブ派と手を結んだ第1次サウード王国(1744-1811年)、第2次サウード王国(1824-1891年)の版図に組み込まれ、1852年に大英帝国の保護領になるまで、同派が掲げる厳格なイスラームの信仰と実践がなされていた。

イスラーム主義の起源としてのワッハーブ派?

一昔前の研究では、このワッハーブ派が現代のイスラーム主義の起源であるかのような記述がなされることもあった。ドバイを含むアラビア半島で勃興したワッハーブ派が、後に中東の各地に広がったイスラーム主義の原型をつくったといった説明である。しかし、この説明には少々問題がある。

ワッハーブ派とは、イスラーム四大法学派の1つであるハンバル派の法学者ムハンマド・ブン・アブドゥルワッハーブ(1703-1792年)を始祖とする宗教改革運動のことである。彼らは、厳格なイスラーム解釈で知られ、自分たちこそが真のムスリムであると考えた。

他方、彼らの基準に満たないムスリム、例えば、スーフィズム(神秘主義)やアニミズムを奉じる人びとなどは、偽のムスリムと認定され、批判や攻撃の対象とされた。そのため、ワッハーブ派は、タクフィール主義(タクフィールとは「不信仰者宣告」の意)の元祖と言われることもある。

このように、ワッハーブ派が問題視したのは、ムスリムたちの「堕落」であった。その意味で、同派は「純粋(ピュア)なイスラーム」を追求する「内部的改革運動」(大塚和夫)であった。

これに対して、イスラーム主義は、イスラームに依拠した社会改革や国家建設を目指す政治的イデオロギーである。その際、イスラーム主義者たちは、自ら依拠するべき「イスラーム」とは何かについて思考をめぐらせることになる。なかには、ワッハーブ派のように「純粋なイスラーム」を追求したり、また実際に同派の影響を受けた者たちも現れた。しかし、彼ら彼女らは、いわば「ワッハーブ派的なイスラーム主義者」と呼ぶべき者たちであり、その思想はあくまでもイスラーム主義のバリエーションの1つに過ぎない。

要するに、イスラーム主義は、主として信仰というムスリムの内的側面から発する宗教改革運動というよりも、実際の政治や社会の変化や危機という外的な刺激をきっかけに生まれた政治的イデオロギーと捉える必要がある。その外的な刺激とは、イスラーム国家オスマン帝国時代末期に本格化した西洋列強による帝国主義の拡大とそれに伴う西洋的近代化の波であった。すなわち、第2回で論じた「幕末」である。イスラーム主義は、あくまでも近代以降に生まれた政治的なイデオロギーなのである。

にもかかわらず、なぜ、ワッハーブ派がイスラーム主義の起源と見なされることがあったのか。その原因として、「イスラム原理主義」のパラダイム(第4回)の存在を指摘できる。イスラーム主義は、宗教に立脚した政治や社会の建設を目指していることから時代錯誤的(反西洋近代的)なイデオロギーと見なされ、それゆえに、未来ではなく過去を、革新ではなく保守を指向する(とされる)「イスラム原理主義」と同一視されたのである。

イスラームにこだわり続ける論理

19世紀以降に顕在化した西洋列強の脅威の前に大きく動揺するオスマン帝国。イスラーム主義者たちは、政治や社会が徐々に「イスラームではないもの」によって組み替えられていくなかで、西洋化ではなく(再)イスラーム化こそが自らの歩む道であり、また、イスラームこそが様々な問題への解決であると考えた。

そうだとすれば、イスラーム主義は、イスラームという宗教への信仰だけではなく、それがよりよい政治や社会を築くものであるという信念がなければ成立し得ない。

しかし、観察者の私たちには、次のような疑問が生じるだろう。イスラーム主義者たちは、イスラーム国家オスマン帝国が西洋列強に圧倒されたにもかかわらず、なぜ、イスラームに対する信頼を失わなかったのか。なぜ、西洋化こそがよりよい政治や社会を築くことができると考えなかったのか。

イスラーム主義者が、イスラーム国家オスマン帝国が没落してもなおイスラームにこだわり続ける理由には、西洋列強への対抗意識や反帝国主義の論理もあっただろう。日本を含む他のアジア・アフリカ地域でも、西洋列強の帝国主義に対抗するために、自らの文化や歴史、アイデンティティや伝統を「再興」させようとする動きがあった。

しかし、ここで注目すべきは、これまでも何度か触れてきた「全知全能の神と非力な人間」というイスラームの基本的な考え方である。すなわち、イスラームを掲げた国家オスマン帝国が衰退したのは、イスラームそれ自体に問題があったからではない。問題は、人間が神の意志であるイスラームへの信仰と実践に対する努力を怠ったことにあるーー。

つまり、イスラームそれ自体には政治や社会を支える強い力がある。にもかかわらず、西洋列強に敗北してしまったのは、神の意志を理解しようとする人間の努力が足りなかった、という論理である。具体的には、イスラーム主義者たちは、天下太平のオスマン帝国時代に長らく停滞していたイスラーム法解釈を再活性化し、近代以降の社会や政治の激変に対応していくことの必要性が訴えられた。

「レジェンド」としてのアフガーニー

こうした思想を掲げた先駆者として広く知られているのが、イラン出身のジャマールッディーン・アフガーニー(1839-1897年)である。

アフガーニーは、伝統的なイスラーム教育を受けた後、滞在中のインドで英国による植民地支配の実態を目の当たりにした。その後、オスマン帝国の帝都イスタンブール、カイロ、パリ、ロンドン、モスクワ、テヘランなどを歴訪し、西洋近代が生み出した思想や科学に触れながら、イスラーム共同体(ウンマ)の衰退に警鐘を鳴らし続けた。

アフガーニーは思想家というよりも活動家であったが、彼の主張の創見は、長らく停滞していたイスラーム法解釈の活性化を通じてイスラームが持つ本来の力を引き出すことで、イスラーム共同体の危機を克服できるとしたことにあった。

人間が積み重ねてきた法解釈の歴史を反省的に見つめ直すという意味において、アフガーニーの思想にも「純粋なイスラーム」に対するこだわりを見て取ることができる。しかし、それは「純粋なイスラーム」の追求のそれ自体を目的とした保守主義などではなかった。アフガーニーは、「純粋なイスラーム」を追求することによって、むしろ西洋近代が生み出した思想や科学との共存が可能となり、新たな時代に応じた政治や社会を築くことができると説いた。

西洋近代が生み出した思想や科学も、突き詰めれば神の被造物であり、イスラームの教えと矛盾するとは限らない。最初から矛盾すると斥けてしまうのは、人間の知的努力における怠惰に他ならない。このようにアフガーニーは考えたのである。

こうしたアフガーニーの思想は、伝統的なイスラーム法学者だけではなく、西洋列強からも危険視された。彼は、オスマン帝国当局に拘束・幽閉され、帝都イスタンブールの獄中で客死することとなったが、むしろこの事実こそが、当時における彼の思想がイスラーム共同体に与えた衝撃の大きさを物語っている。

今日において、アフガーニーの名前を知らぬムスリムは少数派であろう。アフガーニーは、ムスリムにとっての「レジェンド」となっている。ただし、「レジェンド」ゆえに、その後のイスラーム主義をめぐる歴史記述に大きく影響を与えており、アフガーニーを唯一の起源とするような見方には注意が必要であろう。現代のイスラーム主義はアフガーニーの思想から単線的に発展してきたわけではなく、その黎明期の段階で政治環境や地域性に根ざした豊かなバリエーションがあったものと考えられる。

それでもなお、現代のイスラーム主義者たちの多くが「レジェンド」の思想や活動の意義を反芻(ないしは再生産)していることを考えれば、仮にそれが「創られたもの」であったとしても、やはりイスラーム主義の起源としてのアフガーニーの役割は大きいと言える。事実、イスラームと西洋近代の調和を説いたアフガーニーの思想は、やがて印刷物を通じて世界の各地のムスリムに広く浸透していく。これについては、次回に論じてみたい。