テロリストたちは本当にイスラーム教徒だったのか/イスラーム主義とは何か(第3回)

ブリュッセル近郊モレンビーク地区でのパリのテロ事件への追悼集会(写真:ロイター/アフロ)

ロンドン大学アジア・アフリカ研究学院、通称SOAS。アジア、アフリカ、中東に関する教育・研究を専門とする大学であり、これらの地域からの留学生も多い。「イスラーム国(ダーイシュ、IS)」によるパリでの凄惨なテロ事件を受けて、中東出身の彼ら彼女らの口から聞こえてくるのは、怒りと悲しみだけではない。「もうたくさんだ」という嘆きの声である。

こうしたテロ事件が起こるたびに、イスラームやイスラーム教徒(ムスリム)に対するヘイトスピーチや嫌がらせ、さらには暴力までもが沸き上がる。そして、そのたびに、「ムスリムはテロリストと同義ではない」、「イスラームと「イスラーム国」は違う」、といった、ある意味では馬鹿げた説明を繰り返さなくてはならなくなる。「もうたくさんだ」と言いたくなるのも無理はない。

「テロリズムに宗教はない」

今回の事件では、イスラームやムスリムに対する偏見や誤解を解くためにSNSを中心に広がったスローガンの1つに、「テロリズムに宗教はない(terrorism has no religion)」というのがあった。

これまでも、「イスラームは平和の宗教だ」「テロリストたちは真のムスリムではない」といったかたちで、イスラームとテロリズム、ムスリムとテロリストを混同するような言説に対抗する動きは繰り返し起こってきた。今回の「テロリズムに宗教はない」のスローガンはその延長線上にあり、従来からの訴えをさらに強めたものとみることができる。

筆者は、ムスリムに対するヘイトスピーチや嫌がらせ、暴力を防ぐためにこうしたスローガンを掲げることは社会的に大事なことだと考えている。こうした行動は、自らの行為を正当化するためのネタ探しに余念のないレイシストや排外主義者を牽制するだけではなく、事件のたびにそれに怯えなくてはならない多くのムスリムたちを勇気づけ励ましたことだと思う。

しかし、あるスローガンを掲げることが道義的に正しいことと、そのスローガンの中身が正しいこととは別である。むしろ、単純化されたスローガンが、テロリズムについて、イスラームについて、深く考え理解するきっかけを損ねてしまうこともある。むろん、ここで問題とされるべきは、スローガン自体ではなく、そこに含まれるメッセージを正確に読み取るための、私たちのリテラシーである。

テロリストたちは「偽ムスリム」だったのか?

テロリストたちは本当にイスラーム教徒でなかったのか。結論から言えば、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。この曖昧な答えには、それが事実であった可能性も含まれる。しかし、ここで強調したいのは、ある人がムスリムであるかどうかを判断できるのは神だけである、というイスラームの基本的な教えである。イスラームでは、人間による「異端審問」も「魔女狩り」も認められない。

ムスリムは、神との契約関係にある。ムスリムは、神の意思に従って生きる。神にそのことが認められれば、死後に楽園(天国)の報償が与えられる。これを信じないムスリムはいない(これを信じることがイスラームである)。

問題は、この神の意思をめぐって、広い解釈の幅が存在することである。第1回で触れたように、全知全能である神の意思を人間が100%理解することは不可能である、と考えられている。それゆえに、ムスリムは、知の研鑽を重ねることで、少しでも神の意思を理解しようと努力をする。

テロリストたちは、自らを「偽ムスリム」どころか、自分たちこそが真のムスリムであると考えて(信じて)いた可能性は高い。そうだとすれば、その行為は、神の意志をめぐる彼ら彼女らなりの理解に基づいていたことになる。大多数の一般のムスリムがそれを見て「あんな奴らは真のムスリムではない」と言いたくなるのは自然なことであるが、それでもなお、彼ら彼女らをムスリムではないと断ずることは容易にはできない。それができるのは、神だけである。

この問題を克服するために、本来神にしかできないその判断を人間ができる、やるべきだ、と仮に主張したとしよう。そうすれば、テロリストたちを「偽ムスリム」と「認定」でき、イスラームとテロリズムの混同に歯止めをかけることができるかもしれない。

しかし、それは危険をともなう行為である。なぜなら、それがまさにテロリストが掲げる思想だからである。テロリストたちは、神に代わってこの地上で「偽ムスリム」を見つけ出し排除しなくてはならない、と考える。つまり、「偽ムスリム」の拡大に対して無作為であってはならず、その排除のために行動することこそが神の意志である、という転倒である。「イスラーム国」が欧米の異教徒だけではなく、中東やアフリカのムスリムたちを攻撃するのはそのためである。

こうした考え方は、タクフィール主義と呼ばれる(タクフィールとは「不信仰者宣告」の意)。これを、神の教えを守るために神をも恐れぬ倒錯した行為である、とする批判はムスリムたちのあいだでも少なくない(が、その是非も結局は神に委ねられる)。

ジハード主義者というカテゴリー

整理しよう。テロリストたちは自らの独善的なイスラーム解釈を振りかざして、他のムスリムを「偽ムスリム」として断罪しようとする。反対に、大多数の一般のムスリムは、テロリストがどれだけ憎くても「偽ムスリム」と断じることができない(ことを知っている)。こうした非対称な関係のなかで、結局のところイスラームとテロリズムが地続きになってしまっているため、社会における両者の混同はいつになってもなくならないーー。

BBCニュースでも、「イスラーム武装集団(Islamic militants)」や「イスラーム急進主義(Islamic radicalism)」などの表現が繰り返し用いられている。「イスラーム」の語を連発すると、あたかも犯行の動機がイスラームという宗教にあるかのように聞こえてしまう、といった批判も耳にする。しかし、それでもなお、テロリストがイスラームとまったく無関係であると言うことはできない。

何とかして、テロリストと大多数のその他一般のムスリムを混同に歯止めをかけるための基準を設定することはできないのだろうか。こうした問題意識を受け、アカデミア(学界)やマスメディアで広く使われるようになったのが、ジハード主義という用語である。

ジハードは、聖戦、義戦などと訳されることが多いが、実際には、「神の道のためにおいて奮闘する」ことを意味する、イスラームにおける義務の1つである。神の意志を理解する努力、そして、それに応える努力の義務のことである。そのためには、神が創造したこの世界において慈善活動に勤しむのもよし、クルアーンを繰り返し精読し内面の信仰を深めるのもよし、実際には様々な方法があるだろう。そして、実際に大多数のムスリムは、こうして良き/善きムスリムとして生きようとする。それもジハードである。

ここで言うジハード主義者(jihadist)は、様々な方法があるはずのジハードを武装闘争に短絡してしまう者たちのことを指す。確かに、ジハードには、イスラームの信仰や共同体が危機に瀕したときには武器を取って戦うことも含まれる。また、イスラームの教えを真剣に勉強し、熟考の末に武装闘争という結論に行き着く人もいるだろう。

しかし、ジハード主義者と呼ばれる者たちは、そうした深く慎重な思考のステップを踏むことなく、一気に「武装闘争しかない」という結論に達してしまう。彼ら彼女らは、「偽ムスリム」でもイスラームを曲解した者でもなく、単に不勉強や視野狭窄(きょうさく)な者たちだとでも言えばよいであろうか。

回路を断ち切るためには

今回のパリの事件の容疑者についても、「信仰に篤くなかった彼/彼女が、なぜ突然あんなことをしたのか」といった困惑の声も伝えられた。しかし、信仰に篤かったからではなく、むしろ篤くなかったからこそ、ジハード主義へと短絡してしまったものと見ることもできる。

ジハード主義への回路を断ち切るためには、どうすればよいのか。インターネット上には、武力をともなうジハードだけがイスラームの義務であるかのように喧伝する過激な思想が存在する。こうした思想へのアクセスは簡単で、かつ、その思想自体が単純で「お手軽」になっているゆえに「感染力」は強い。クルアーンを手に取ることなく、ネットのいわば「まとめサイト」だけで歪んだ「真のムスリム」に目覚めてしまうのである。こうした事態を阻止するには、過激派の取り締まりやインターネットの管理強化だけではなく、ムスリムの知識人を中心とした宗教教育などの充実化や見直しも必要であろう。

しかし、それだけでは不十分である。大事なのは、武力をともなうジハードだけが解決である、と思わせないようにすること、つまり、過激な思想の説得力を奪うことである。そのためには、欧州におけるムスリム市民、移民、難民への差別への対処が求められる。シリアやイラクへの軍事介入は、現存する「イスラーム国」のテロリストたちに確実に打撃を与えることができるかもしれない。だが、それが結果的に過激な思想の説得力を増強し、ジハード主義への回路をさらに開いてしまう危険性があることを無視すべきではないだろう。