「幕末」としての中東の現代/イスラーム主義とは何か(第2回)

かつてのオスマン帝国の帝都、イスタンブール(現トルコ共和国)(写真:アフロ)

ドイツ、ミュンヘン中央駅に到着した。今年の8月から9月にかけて、ここに中東からの難民が大挙して押し寄せたことは記憶に新しい。各国当局による国境の管理強化や難民に対するケアの拡充によって、現在は平穏を取り戻している。

だが、ウィーンからの列車の車窓からは、警察や軍に誘導される難民たちの姿がたびたび見られた。着の身着のままで戦火や恐怖政治のシリア(だけではないが)を逃れ、祖国から遠く離れた欧州の地を彷徨うその姿に胸が痛む。筆者の知るあの平和だったシリアがわずか4年あまりでこれほどまでに荒廃してしまうとはーー。シリアはこの先どうなってしまうのかーー。

世界の誰もがシリア「内戦」の一刻も早い終息を願っている。しかし、シリアという国がどうあるべきか、という問いに対してはいまだに一致した答えがない。国際社会はもとより、シリア人自身も「あるべき秩序」をめぐって分裂状態にある。

こうした「あるべき秩序」をめぐる意見の不一致が深刻なのが、シリア、広くは中東という地域の大きな特徴である。中東の近現代史は、「あるべき秩序」をめぐる無数の思想やイデオロギーの拮抗と調和に彩られてきた。イスラーム主義も、こうした「あるべき秩序」を追い求めるイデオロギーの1つとして生まれたものである。

イスラーム主義が追い求める「もう1つの近代」

イスラーム主義を信奉する人びと、すなわちイスラーム主義者は、イスラームの教えに基づいた政治や社会こそが「あるべき秩序」だと考える。前回の記事で述べたようにその解釈には大きな幅があるが、重要なのは、彼ら彼女らの目には現実の政治や社会がイスラームではない何か別のものによって規定されていると映っている、ということである。

現代の中東地域は、かつてこの地に君臨したイスラーム国家オスマン帝国(1299~1922年)の版図にほぼ重なる。帝国末期の19世紀以降、中東にも西洋的近代化の波が押し寄せ、西洋諸国を範とした制度や法律が次々に導入されていった。特にナショナリズム(民族/国民主義)やセキュラリズム(世俗主義)が影響力を強めていくなかで、自分たちの政治や社会がイスラームの教えからかけ離れてしまっていると感じる人びとが現れるようになった。イスラーム主義は、このような西洋的近代化に対する疑念や異議申し立てのなかから生まれた。

20世紀に入ると、第1次世界大戦の敗戦国となったオスマン帝国が崩壊し、中東は西洋列強による植民地支配の下で本格的に西洋的近代化の洗礼を受けた。それは、人びとに対して、制度や法律はもちろんのこと、国家とは何か、そこで人びとはどう生きるのか、といった実存に関わるような大きな転換を迫るものでもあった。

自分は何のために生きているのか。例えば、それまで神のために生きてきた人が、これからは国民国家や「民族/国民」のために生きることになる。あるいは、自分は何者なのか。それまで同じイスラーム教徒だったのが「イラク人」となり、同じ言葉を話し同じ宗教を信じている「シリア人」や「ヨルダン人」とは区別される。帝国の崩壊と植民地化、そして国民国家の創出は、人びとのアイデンティティを大きく揺るがした。

第2次世界大戦を経て独立した中東諸国では、国民国家を単位としたさらなる西洋的近代化が推し進められる一方で、クーデタ、独裁、低開発、内戦、戦争などが頻発した。例えば、シリアは、1946年の独立から最初の20年あまりのあいだで4度のクーデタと3度のイスラエルとの戦争を経験し、独裁、政情不安、経済的停滞に苦しんだ。イランでは、米英を後見人とする王(シャー)による専制政治が確立し、石油輸出収入の多くを両国の企業に握られる状況が続いた。

こうしたなかで、イスラーム主義は、西洋的近代化とは異なる「もう1つの近代」を追い求めることで、次々に立ち現れる諸問題を解決するための処方箋として中東の人びとのあいだに広がっていった。そのため、西洋的近代化の行き詰まりが深刻化すればするほど、人びとのイスラーム主義へ期待は高まることになった。

長い帝国崩壊の過程

オスマン帝国崩壊以降、中東の人びとは、イスラームと西洋のはざまで、新たな時代を支えるための政治や社会を創造するための挑戦を続けてきた。様々なイデオロギーが、あるときは互いに衝突し、あるときは融和を見せながら、「あるべき秩序」を模索してきた。しかし、誰もが納得できるような「あるべき秩序」は、21世紀の今日まで見つかっていない。そのため、帝国崩壊後の中東は不安定な状態に置かれてきた。

それが特に顕著なのが、シリアを中心とした東アラブ諸国である。パレスチナ問題、クルド問題、そして「イスラーム国(ダーイシュ、IS)」の台頭など、既存の国家の存在を根底から揺るがし続ける問題群はこの地に集中している。

この点については、これまでも多くの中東研究者から指摘されてきた。例えば、オックスフォード大学のアヴィ・シュライムは、中東の不安定が続いていることを「ポスト・オスマン帝国症候群」と呼び、その原因を帝国崩壊後に生じた「新たな政治的・領域的秩序に関する正当性の欠如」にあると論じてきた(Avi Shlaim, “The Post-Ottoman Syndrome,” Raja Shehadeh and Penny Johnson eds., Shifting sands: The Unravelling of the Old Order in the Middle East, London: Profile Books, 2015)。

つまり、現代の中東は、オスマン帝国なき時代の「あるべき秩序」の模索が続く、「長い帝国崩壊の過程」の最中にあると捉えることができる。筆者自身は、これをしばしば日本の「幕末」に喩えてきた。260年にわたった天下太平の世を築いた江戸幕藩体制が黒船の到来によって揺らぐなか、これから日本はどうなっていくのか、これからの日本はどうあるべきか、様々な信念を持った志士たちが、理想を語り合い、またあるときは兵刃を交え、新しい時代にふさわしい「あるべき秩序」を模索した。そこでは、開国か攘夷かの二者択一を基調としながらも、佐幕、倒幕、勤王などの立場の違いも存在し、そして尊皇攘夷や公武合体などの新たな思想が紡ぎ出されていった。

オスマン帝国崩壊に始まった中東の「幕末」は今日まで続いており、その意味では、イスラーム主義者も社会主義者もナショナリストも「志士」たちである。日本の「幕末」と同じように、激しい時の流れのなかで理想を語り、拮抗と調和を繰り返しながら、新たな時代にふさわしい「あるべき姿」を模索してきたのである。

「幕末」の創造的な営みの1つとして

こうして中東の現代史を見てみると、イスラーム主義は、ともすれば中東の混乱の「原因」として見られがちであるが、実際にはオスマン帝国崩壊以来の中東の地域秩序の流動化の「結果」として生まれたものであったことがわかる。

確かに、「イスラーム国」などの過激派が、硬直した「あるべき秩序」を振りかざすことで中東の人びとの創造的な営みを阻害するだけでなく、過剰なまでの恐怖と暴力を通じて「幕末」の不安定を拡大させているのは事実である(過激派については別途論じる)。しかし、過激派の言動ばかりに目を奪われ、イスラーム主義者=テロリストといった短絡的な図式でもって彼ら彼女らの営みを評価することは、現実の正確な理解を妨げるだけでなく、自他のあいだの憎悪を煽りそれを糧とする過激派の世界観や戦略に意図せずして与することになりかねない。過激派が掲げる「あるべき秩序」に現実味がないのと同様に、中東においてイスラーム主義を完全に排した「あるべき秩序」を目指すこともーー独裁政治やイスラーム主義者に対する不当な弾圧を肯定しない限りーー現実的とはいえない。

「幕末」的な状況は不安定であり、それがいつまでも続くことは望ましいことではない。しかし、だからこそ、偏見や先入観に惑わされることなく、イスラーム主義がなぜ生まれたのか、何を目指しているのか、その意義と役割(そして、なぜそこから過激派が出てきたのか)を中東の歴史的文脈のなかにしっかりと位置づけながら理解していく必要がある。イスラーム主義は、オスマン帝国崩壊後の「あるべき秩序」を模索する無数のイデオロギーの1つとして、中東の政治や社会の現実をかたちづくってきたのである。