イスラームと政治の関係を考える/イスラーム主義とは何か(第1回)

シリア・ダマスカス郊外、サイイダ・ザイナブ・モスク(写真:アフロ)

ある国際会議に出席するためにウィーンに来ている。会議のテーマは「民主主義とイスラーム」。ここオーストリアでも、他の西欧諸国と同じように、民主主義の「先進国」として、昨今のムスリム(イスラーム教徒)の急増への対応が大きな課題となっている。これまで培ってきた民主主義を持続・発展させながら、増え続けるムスリム住民たちとどのように向き合うべきなのか。西欧諸国では、その試行錯誤が続けられている。

他方、民主化の「途上国」としての多くの中東諸国にとっても、「民主主義とイスラーム」は長年の政治的・社会的な課題である。2011年の「アラブの春」を経た今もなお、民主主義への移行を果たしたアラブ諸国はチュニジア1国だけであり、その他の諸国では独裁が続き、過激なイスラーム主義者によるテロが拡散しつつある。ムスリムが人口の圧倒的多数を占める中東諸国においても、どのような民主主義が可能なのか、模索が続いている。

国際会議であらためて確認されたのは、次のような点である。西欧諸国が民主主義からイスラームを見ているのに対して、中東諸国はイスラームの存在という前提の上に民主主義のあり方を考えているが、結局のところ両者は1枚のコインの表裏の関係にある。そして、現段階では、いずれの側からも「最適解」が見つかっておらず、「民主主義」のあり方自体の問い直しも射程に入れなくてはならない--。

「政治的」な宗教としてのイスラーム

それにしても、なぜイスラームばかりが民主主義との関係を問題視されるのだろうか。「民主主義とキリスト教」や「民主主義と仏教」といった課題設定を目にすることは少ない。現代の民主主義は、原則的には宗教の違いによって個人の自由や権利が制限されたりしてはならない、というリベラリズム(自由主義)に立脚しており、また、その根底には政教分離を是とするセキュラリズム(世俗主義)を置いている。だとすれば、「民主主義とイスラーム」という課題が設定されるのは、イスラームがこれらに「抵触」するような性質を持っているため、ということになる。

確かに、イスラームには独自の政治に関する理念がある。ある人がイスラームを信じるということは、神からの啓示である聖典クルアーン(コーラン)の教えを信じることである。クルアーンには、信仰や儀礼についてだけではなく、政治や社会のあるべき姿も記されている。ムスリムである以上、クルアーンの教えを信じるが、そのなかの「政治的」な箇所(記述)だけは信じない、という姿勢は成立し得ない。つまり、イスラームには、信徒の私的な生き方だけではなく、公的な政治や社会のあり方に関する理想が存在する、ということになる。このことは、リベラリズムやセキュラリズムに「抵触」する可能性を孕(はら)む。

「政治的」の解釈を続けるムスリム

しかし、これをもって「民主主義とイスラーム」は相容れないと結論づけるのは尚早である。中東の過激なイスラーム主義者に見られるように、西欧諸国が培ってきた民主主義を一切拒絶する極論が存在するのも事実である。だが、それだけに目を奪われてしまうと、ムスリムによる融和的で建設的な試みや多様な政治や社会の現実を見落としてしまう。

現実にはイスラームにおける政治や社会に関する教えをどのように受け止め、どのように実践するのか、ムスリムのあいだでも多種多様な意見や立場がある。全知全能の神の意志を人間が完全に100%正しく理解することはそもそも不可能であるとされる。しかし、だからこそ、ムスリムたちは、知の研鑽を重ねながら、神が示す「政治的」なるものの様々な解釈(人間なりの理解)にいそしんできたのである。ゆえに解釈には豊富なバリエーションがある。

民主主義を例に取ってみよう。一般的な見方として、民主主義がイスラームに反する、と結論する者は少ない。多くのムスリム論者が、イスラームに民主主義に通底する考え方(例えば「協議」の教え)があるため、両者には矛盾はないと考えている(ただし、この場合、民主化の是非をめぐっては、だからこそ西洋的な民主化は不要とする立場と、西洋的な民主化を推進するべきとする立場がある)。他方、選挙に代表される民主主義の基本制度だけを利用すべきとする立場をとる論者もいる(ただし、立法行為の是非をめぐっては、議員が実定法の制定の責任を負うとする立場と、法曹法としてのイスラーム法を重視する立場がある)。

イスラーム主義という視角

そもそも、ある人がイスラームを信じているからといっても、政治や社会の「イスラーム化」に熱心であるかどうかは別の問題である。ムスリムの誰もが、日々の暮らしのなかで、常に政治や社会がイスラームの教えに即しているかどうかについて考えているかといえば、もちろんそうではない。ムスリムのなかにも民主主義を自然に受け入れている者がいるし、受け入れているからといってその人がムスリムらしくないということはない。

その一方で、イスラームの教えにおける政治や社会のあり方をめぐる解釈を積極的に引き受けながら、その実現を目指す政治的イデオロギーを選択したムスリムもいる。彼ら彼女らを、一般にイスラーム主義者と呼ぶ。

イスラーム主義とは、「宗教としてのイスラームへの信仰を思想的基盤とし、公的領域におけるイスラーム的価値の実現を求める政治的なイデオロギー」と定義できる。平たく言えば、イスラームに依拠した社会改革や国家建設を目指す政治的イデオロギーのことである。

イスラーム主義者なかには、自らのイデオロギーを生み出し発展させるだけではなく、出版・広報活動を行ったり、社会運動や政党を組織したり、あるいは武装闘争に訴える者もいる。イスラームという宗教への信仰を有していることと、イスラームを政治的なイデオロギーとして信奉することとは別個のものであることに注意が必要である。

「イスラーム主義とは何かを考える」ということ

このイスラーム主義が何を目指し、どのような実態を有しており、また、どのように変化しているのかを正確に捉えていくことは、「民主主義とイスラーム」、広くは現代世界における政治と宗教の関係についての21世紀的な「最適解」を模索していく上で、不可欠な作業であるように思う。

しかし、イスラーム主義をめぐる議論は、イスラーム主義者=テロリストの短絡的な図式に収斂されるようなやせ細ったものになってしまっている。その一因として、21世紀の幕開けとなった2001年9月11日の米国同時多発テロ事件以降、イスラーム主義は既存の秩序に対する挑戦者(他者)として治安取り締まりの対象としてのみ扱われる傾向が強まったことがある。そして、2011年の「アラブの春」後の過激派組織「イスラーム国(ダーイシュ、IS)」の急速な台頭は、こうした傾向に拍車をかけている。

言うまでもなく、過激派もテロも21世紀の世界が直面する脅威であり、可能な限りの手段と方法を講じながら対応していかなくてはならない。そのためには、過激なイスラーム主義者に関する情報収集や研究は重要である(筆者自身もそれに取り組んできた)。また、過激派ではないからといって、イスラーム主義者が掲げる理念がそのまま実現すればよりよい政治や社会が導かれるというわけでもない。

それでもなお、イスラーム主義に関する議論がやせ細ってしまうことで、本来であれば避けられたはずの対立や憎しみが生じてしまう可能性があることは、やはり危惧すべきであろう。中東諸国の現代史を見ても、主観的な不安に後押しされた過剰な治安取り締まりや差別・迫害が、一般のムスリムを追い詰め、結果的に偏狭で過激なイスラーム主義者を生み出す一因となってきた。思考停止は連鎖する。過激派やテロの脅威に対しては、あくまでも「正しく恐れる」必要がある。

日本においても、2015年初頭の日本人誘拐脅迫殺害事件を境に、「イスラーム国」と「イスラーム主義」と「イスラーム」を十把一絡げ(じっぱひとからげ)にテロと結びつけるような発言が散見されるようになった。もし仮に、こうした言説が拡大するようなことがあれば、日本の社会にとっても、国際社会における日本にとっても、マイナスにしかならない。

重要なことは、今日の世界において、イスラーム主義とは何か、私たちは彼ら彼女らをどのように見るべきなのか、考えていくことである。それは、個人の思想信条や信仰とは別のところで、イスラーム主義をあくまでも知識として探求していく営みである。次回からは、基礎的な歴史や最新のニュース、それから学術的な研究成果を交えながら、イスラーム主義の実像を素描していきたい。