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「自立」よりも「相互依存」の人間関係があるのが、理想の組織ではないか

曽和利光人事コンサルティング会社 株式会社人材研究所 代表取締役社長
貸し借りの関係がある方が良好な組織かもしれません(写真:milatas/イメージマート)

■「自立」していることは無批判に肯定されるが

社会的望ましさの観点からは、「何かに依存することなく、自立せよ」とよく言われます。多くの企業でも「独立自尊」とか「自由と自己責任」とか「自立・自走」とか言葉は違えど、社員に自立を促しています。

理由は言う人によってそれぞれですが、おおむねは以下のようなことでしょう。

依存をすると、こうなってしまう・・・。

●依存する対象なしでは生きられなくなるから、依存する対象に操られてしまう

●自分で自分をコントロールできない人は、約束を守れないから信じることができない

●だから何にも依存することなく、自立して生きよ

もちろん一理あると思うのですが、厳密に言えばそもそも自由意思すら限定的にしか存在しないと思っている私としては、現実に立脚しない理想論であるように思えるのです。

■まず、何故に人は何かに依存するのか

人は、まずその存在を母胎との一体感から始めます。

世界と自分は分離されておらず、大いなる宇宙の中に埋没してその存在が始まるわけです。羊水の海にゆらりゆらりと揺れながら、意識も無意識も、覚醒も眠りも混濁とした中で生きている。それは心地よく安心できる場所でしょう。いや、不安もないから、安心するという概念さえ無く、ただ、何も考える必要もなく、穏やかに生きているのかもしれません。

ですが、生まれおちた瞬間から、その一体感は消えていきます。へその緒を切られて、母親から直接的に栄養をもらうことはできなくなり、呼吸が始まり自分で世界を取り込む必要が出てきます。文字通り一体であった母子は物理的にまず引き離されることになります。

そして今度は、心理的にも引き離される時がやってきます。母親から物理的に引き離された子どもは、自分から世界に働きかけ、要求し、何かを得るという行動を取っていかざるを得なくなっていく。食べ物や空気や水など、自分の欲望を自動的に満たされていた時(すなわち欲望を欲望と感じることがない時)には、感じることがなかった欲求不満を感じることになります。

世界は自分の思いどおりになどいきません。食べ物が欲しい時に泣いても、食べものはやってきたり、こなかったりする。そういう体験を通じて、世界は自分とは別のもので、自分の意思どおりには動かないものだということに気づき、自分は世界から切り離されていると認識することになるわけです。

そんな風にして、人は人生の最初から、一体感からはぐれ、孤独になっていくプロセスを味わうことになります。その後、人はもう一度最初の一体感を取り戻そうと、何かをその手がかりにしようとして依存していくのではないでしょうか。

■一体感への渇望が依存を生み出す

この引き離されるプロセスを、きちんと現実のものと受け止めて消化する、すなわち、深く絶望することで深く諦めがついた場合には、人はようやく前を向いて歩いて行くことができます。自立を受け止めることができる。もう二度と、原初のようなとろけるような一体感はこの世には存在しないのだと、深く諦めることでです。

しかし、それは現実的には可能でしょうか。聖人君子であればできるかもしれませんが、我々凡夫に可能なのでしょうか。

「ある」ことの証明は簡単だが、「ない」ことの証明は「悪魔の証明」と言われて極めて難しい。黒い白鳥はこの世にいないと、誰も証明できません。しかも、「究極の一体感」=「究極の依存関係」は、実際に自分の人生の原初に存在していたのです。「あった」のです。一度あったことは、二度ありえると思うことは普通のことです。むしろ、一度あったものが、なぜもう一度ありえると思えないでいましょうか。

また、世の中には「究極の一体感」への階段を思わせる入口がたくさんあります。お酒しかり、宗教しかり、スポーツなどでの高揚感しかり、恋愛しかり、セックスしかり・・・。むろんこれらすべてには終わりがあり、これら自体は「究極の一体感」ではありません。しかし、その入口を思わせるものではあります。「この先に進んでいけば、いつかのあの世界にもう一度到達できるのではないか」と思わせるものです。

そういう一体感≒依存の可能性を期待させるものがたくさんある以上、依存への渇望を捨てることは実際には難しいのではないでしょうか。

■そもそも依存することは悪いことか

もっと言えば、「依存する」ことに積極的な意味、メリットもあるのではないかと私は思います。

「依存」と言うと、世間での言葉の使われ方から、どうしても否定的な意味合いを帯びてしまっていますが、これを「信念」とか「ポリシー」とか「価値観」とか言い換えるとどうでしょう。「信念」というのは、その人が依って立つ拠り所です。混迷の世界の中をたくましく生きていく上で道しるべとなる考え方や価値観や理想です。そう考えれば、何らかの理念への「依存」とも言えないでしょうか。

また、よく「自由」という言葉の定義を議論することがありますが、自由とは「束縛されないこと(≒自立、independent)ではなく、譲れないものをひとつ持つこと(=ここで言うと何かに依存することとも言える)」ではないかと私は思っています。ここにも「依存」が見え隠れしています。

依存することなくしては、自分の存在の軸もなく、そのため明確な自己判断もできず、結局自律的に動くこともできない。何かに依存することによって、何らかの判断軸ができ、それによって行動を律することができる。ところが、その「軸」は自分の中からではなく外部から由来するものであり、そもそも、自分という存在はぜーーーんぶ外部から得たもので作られているのであって、完全に「内」から出てくる自発性などと言うものはそもそもほとんどないのではないでしょうか。

まとめると、

●人が何かに依存したくなるということは普遍的、根源的なものである

●まったく依存しないようになれるなんて、誘惑の多い中、非現実的である

●何かに依存してないと、そもそも自律的に動くことなんて不可能

ということです。

■良き「依存」関係のある組織で生きるのは安心

このように、「依存」という行為自体はニュートラルな価値を持つものだと私は思います。

ところが、依存する対象が現実的には存在しない「幻」や「誤解」であったり、手に入りにくい希少なもので獲得するのに多大な犠牲やコストを支払う必要があったり、依存する対象が自分が依存することを嫌がっていたり、すれば、それが問題になるということでしょう。

「依存」自体が悪いわけではない。むしろ、人間は本質的に何かに依存して生きざるを得ない。依存する行為はとても人間的な行為であると思います。

組織において考えれば、自立、自立とばかりむやみに言うのではなく、相互に理解して、お互いの強いところと弱いところを補い合って、「この人がいるから、自分は欠点を補って輝くことができる」と相手に依存していくことは悪いことではない。むしろ、皆が承認欲求や存在価値、重要感や互恵精神で満たされるというのは、良好な組織ではないかと思うわけです。

昨今の「自立」ばかり重視する風潮に少し違和感を感じて、こんなことを書いてみました。もちろん、相手にすべて「おんぶに抱っこ」ではダメでしょうが、お互いに依存しあうような関係、「相互依存」はそんなに悪いことではないのではないでしょうか。

人事コンサルティング会社 株式会社人材研究所 代表取締役社長

愛知県豊田市生まれ、関西育ち。灘高等学校、京都大学教育学部教育心理学科。在学中は関西の大手進学塾にて数学講師。卒業後、リクルート、ライフネット生命などで採用や人事の責任者を務める。その後、人事コンサルティング会社人材研究所を設立。日系大手企業から外資系企業、メガベンチャー、老舗企業、中小・スタートアップ、官公庁等、多くの組織に向けて人事や採用についてのコンサルティングや研修、講演、執筆活動を行っている。著書に「人事と採用のセオリー」「人と組織のマネジメントバイアス」「できる人事とダメ人事の習慣」「コミュ障のための面接マニュアル」「悪人の作った会社はなぜ伸びるのか?」他。

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