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2011年に新型コロナを予言していた映画『コンテイジョン』──パンデミック・フィクションへの想像力

松谷創一郎ジャーナリスト
2011年2月10日、『コンテイジョン』撮影中のジュード・ロウ(写真:Splash/アフロ)

 フィクションは、かならずしも社会や現実を反映するとは限らない。むしろその真価は、まだ現実化していないひとびとの潜在的な欲求や絶望、あるいは期待や予想を具象化することにある。

 この点を踏まえれば、新型コロナウイルスのパンデミック状況において、感染症をモチーフとした過去のフィクションは複雑な現実を解きほぐすひとつのヒントとなる。

 2011年に公開されたスティーヴン・ソダーバーグ監督の映画『コンテイジョン』は、まさにその代表例だろう。未知の感染症の世界的流行を描いたこの映画をいま観直すと、まるで予言としか思えないほどのリアリティでわれわれに迫ってくる。現在、Netflixで観賞できることもあり、日本でも注目が高まっている。

ソダーバーグらしい抑えた描写

 物語は、香港出張から帰ってきたアメリカ人女性が急死するところから始まる。次いでその息子も死亡し、接触していた夫は症状はないものの隔離される。

 以降、この映画では複数の人物が並行して描かれる。最初に亡くなった患者の遺族、アメリカ・CDC(疾病予防管理センター)の研究者、陰謀論をネットで繰り広げるブロガー、WHO(世界保健機関)の研究者等々。

 CDCの研究者がウイルスの存在を特定し培養にも成功するなか、ブロガーは独自の偽医学情報をネットで拡散させる。隔離されていた遺族は退院するが、病院には多くの患者が押しかけ、体育館を新たな患者たち収容場所とする準備が進む。香港では、WHOの研究者が感染経路を特定すべく監視カメラの映像を確認する──。

 このように舞台はめまぐるしく変わりながら、感染は拡大し事態は悪化していく。尺は105分ほどだが、2時間半もあるかのように感じるほど密度が濃く、高い緊張感が続く作品だ。

 主人公らしき中心人物はいないが、俳優陣は、マリオン・コティヤール、マット・デイモン、ローレンス・フィッシュバーン、ジュード・ロウ、グウィネス・パルトロー、ケイト・ウィンスレットととても豪華だ。だが、けっしてひとりの人物をヒーローにするような描写はない。その演出はきわめて抑制的で、このあたりはとてもソダーバーグらしい。展開は複雑ではないが、非常にシビアな表現を徹底している。

予言のようなリアルさ

 日本でも2011年の秋に公開され、筆者もそのときにマスコミ試写で観た。当時の印象は「出来はとても良いが、かなり地味」という以上のものではなかった。その半年ほど前に起きた東日本大震災によって、こういうタイプの映画にあまり乗り切れなかったところもあったかもしれない。

 実際、日本ではまったく大きなヒットにはならなかった。大規模公開されたものの、興行収入は3億7000万円程度に終わった。海外では、大ヒットというほどではないがそれなりに注目されたのと比べると、注目度はきわめて低かった。

映画『コンテイジョン』パッケージ。現在Netflixなどで観ることができる(画像はAmazonプライムビデオより)。
映画『コンテイジョン』パッケージ。現在Netflixなどで観ることができる(画像はAmazonプライムビデオより)。

 震災疲れもあったのかもしれないが、この2年前に新型インフルエンザの騒動があったことも関係しているだろう。当時、日本では海外からの旅客機で検疫をし、陽性者が即座に隔離されるなど厳格な対応をした。結果的に多くの感染者を出したものの、強毒性ではなかったこともあって騒動は収束した。あのとき拍子抜けしたひとも少なくなかったはずだ。このときの記憶が関係していたのかもしれない。

 また、2002~03年にかけて広がったSARS(重症急性呼吸器症候群)が日本では流行しなかったこともヒットにつながらなかった要因として挙げられるだろう(公開翌年の2012年以降にはMERS[中東呼吸器症候群]が広がったが、これも日本には来なかった)。つまり、パンデミックによって生活に支障をきたすような未来に対し、日本の多くのひとびとはリアリティを持てなかったのだろう。

 しかし、いま観直すとこの映画はまるで予言のようなリアルさがある。感染が広がっていくにつれて徐々に社会機能が不全化し、ひとびとが混乱に陥っていくプロセスは、今回の新型コロナウイルスととてもよく似ている。

人類に対する警告の映画

 実際この映画は、入念な専門家への調査を経て創られていた。スリラーとして評価されているが、医学的な側面の厚みがあるのが特徴だ(※)。よって予言的であるのは、なかば必然であるのかもしれない。

 なかでも、テクニカル・アドバイザーとしてこの作品に参加している疫学者のラリー・ブリリアントは、今回の新型コロナウイルスについて語るなかで『コンテイジョン』をこのように振り返っている。

あの映画は先見の明があると評価されました。いままさに、科学が正しかったことが証明されているわけです。過去10年か15年間、疫学の研究者たちは常に、いつかこうしたパンデミックが起きると警告し続けてきました。問題は起きるか起きないかではなく、いつ起きるかでした。人々に耳を傾けてもらうことは本当に難しいと思います。

出典:スティーヴン・レヴィ「新型コロナウイルスとの戦いの行方は? 『全人類に感染の恐れがある』と、天然痘の撲滅に貢献した疫学者は言った」 『WIRED』2020年3月25日

 言い換えれば、これは人類に対する警告の映画だったのだ。

 2020年3月末の現在、世界の状況はこの映画の1時間が経過しようとするあたりだろうか。商店では買い占めが生じ、病院には患者が詰めかけ、都市は封鎖される。

 この映画は作中の時間をはっきり見せないので、ここまででどのくらい経過しているのかはわからない。ただ、そこから結末に向かうプロセスも決してアクロバティックなものではない。医学的にきわめて真っ当なプロセスを描いていく。が、それゆえに新型コロナウイルスがきわめて大きな難題であることが理解できる。

映画と異なるSNS+スマホの浸透

 最後に、この映画のなかでまだわれわれの現実では生じていない(あるいは大きな問題となっていない)現象がひとつある。それは、ジュード・ロウ演じる陰謀論ブロガーが、パニックに乗じて医学的根拠に基づかない治療法をネットで拡散させることだ。

 すでに陰謀論やフェイクニュース、あるいはデマなどは多く見られるが、幸いにしてそれらは大きく拡散することなく沈静化している。ただし、現段階でまだ楽観できることではない。この映画が公開された2011年と現在とは、スマートフォンとSNSの浸透は大きく異なるからだ。すでにそれらがわれわれの日常に浸透した現在と、まだその黎明期だった9年前とでは、われわれの情報環境には大きな差がある。TwitterやFacebookは作中にも登場するが、この映画のなかに出てくる携帯電話はまだBlackBerryだ。

 パニックとも大きく関係するこのあたりの描写は、われわれの現実がまだ到達していない未来なのか、それともフィクションで想像できなかった未来なのかはわからない。前者であれば暗澹たる未来だが、後者のまま収まると考えるのも楽観的だ。

 この映画を通して、作品では予想されなかった未来の到来もわれわれは想像しておく必要があるだろう。

※ある映画関係者から聞いたが、映画界では感染症を扱う物語はヒットしにくいと見られているそうだ。ウイルスは映像に映らないからという至極単純な理由だそうだが、そうした事情によってゾンビ映画が生み出され、一般化していったのではないか。

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ジャーナリスト

まつたにそういちろう/1974年生まれ、広島市出身。専門は文化社会学、社会情報学。映画、音楽、テレビ、ファッション、スポーツ、社会現象、ネットなど、文化やメディアについて執筆。著書に『ギャルと不思議ちゃん論:女の子たちの三十年戦争』(2012年)、『SMAPはなぜ解散したのか』(2017年)、共著に『ポスト〈カワイイ〉の文化社会学』(2017年)、『文化社会学の視座』(2008年)、『どこか〈問題化〉される若者たち』(2008年)など。現在、NHKラジオ第1『Nらじ』にレギュラー出演中。中央大学大学院文学研究科社会情報学専攻博士後期課程単位取得退学。 trickflesh@gmail.com

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