「トリプルスリー」の神話――新語・流行語が紡ぐ新たな歴史

12月1日、ユーキャン新語・流行語大賞を授賞した山田哲人選手と柳田悠岐選手(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

いつから偉大な記録に?

 12月1日、今年もユーキャン新語・流行語大賞が発表されました。そこで、「爆買い」とともに大賞に選ばれたのが、「トリプルスリー」です。野球ファンには周知のことですが、これは打率3割以上・30本塁打以上・30盗塁以上をすべて達成した記録を指します。

トリプルスリーは、巧打力(打率)と長打力(本塁打)に加え、高い走力(盗塁)が必要なこともあり、これまで達成者はとても少ない稀有な記録です。しかし今年は、ともにリーグMVPを受賞したソフトバンクホークスの柳田悠岐とヤクルトスワローズの山田哲人が揃って達成しました。

 それにしてもこの「トリプルスリー」なる言葉、いつから使われるようになったのでしょうか? もっと言えば、いつからそれは偉大な記録と見なされるようになったのでしょうか?

1983年・簑田浩二のケース

 ここで過去のトリプルスリー達成者について振り返ってみましょう。柳田と山田を除けば、過去には8人しか達成していません。以下がその一覧表です。

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日刊スポーツ1983年9月25日付
日刊スポーツ1983年9月25日付

 1953年の中西太を最後に、そこから1983年の簑田浩二(阪急ブレーブス)まで30年もの間、達成者は現れませんでした。しかし、このときの蓑田の記録は「トリプルスリー」とはあまり呼ばれていませんでした。それよりも目立つのは、パチンコに引っ掛けたのか、「3・3・3フィーバー」や「3フィーバー」、あるいは「30フィーバー」といった表現です。とは言え、「3割・30本・30盗塁」が強く意識されたのがこのときであるのは、間違いありません。

 このときの蓑田は、スポーツ紙で以下のように表現されています。そのなかには、「トリプルスリー」という言葉も見られます。

「三拍子そろった選手」という表現がある。蓑田の記録は攻撃部門での“三拍子”である。巧打でアベレージが高くて、パワーで一発も打つ。塁に出たら得点を奪うのに有効な俊足を生かす―。日本でただ一人の3000本安打を達成している張本勲氏(現評論家)が現役を引退するとき「オレが、これぞ最高、理想だと思いながらやり残したのがトリプルスリーだった」と語っている。

(略)

野球選手として、すべての面で、あの広岡監督だってケチのつけようのない“パーフェクト・プレーヤー”蓑田こそMVPにふさわしい。それほどの大記録だ。

出典:デイリースポーツ1983年9月25日付

 蓑田がこの記録を成し遂げたのには、あるきっかけがありました。30号を放った後、蓑田はこう言います。

「キャンプでなにげなく口にした“30・30・30”の大目標が、現実になるとはね」(※1)

 このとき蓑田が、中西の記録や張本の発言を知っていたかどうかはわかりません。しかし、「トリプルスリー」の歴史がこれ以降活性化するのもまた事実です。もし「なにげなく」そう言ったならば、偶然トリプルスリーの神話は始まったことになります。

1989年・秋山幸二

 蓑田の次にトリプルスリーを達成したのは、1989年の秋山幸二(西武ライオンズ)でした。5年目の85年に40本塁打を達成した秋山は、87年に38盗塁をするなど、当初から走力にも目を見張るものがありました。そこで課題となったのは打率ですが、なんとか3割を超えたのが89年だったのです。

 しかし、このときの秋山はそれほどトリプルスリーが注目されていたわけでもありません。というのも、シーズン後半の打率は2割8~9分台で推移しており、本人も「ボクの目標は40本、40盗塁」と話していたほど(※2)。さらに、30盗塁を達成した前日は、同僚の清原和博がデッドボールに怒り、ロッテの平沼定晴投手にバットを投げつける大乱闘を起こした日だったのです。

スポーツニッポン1989年9月25日付
スポーツニッポン1989年9月25日付

結果、新聞にもでかでかと載ったのは「清原謝罪」「平沼さんスミマセン」「スッキリ“和解”」といった見出し(※3)。秋山の30本・30盗塁はベタ記事扱いでした。

 その後秋山はシーズン終盤に打率を3割に乗せたものの、この年は近鉄バファローズとオリックス・ブレーブス、そして西武が三つ巴の優勝争いを繰り広げていました。最終的な結果も3位の西武まで0.5ゲーム差、優勝した近鉄とオリックスのゲーム差は0という混戦でした。近鉄のブライアントが西武とのダブルヘッダーで4打数連続本塁打を打ったのは、いまでもプロ野球ファンの記憶に強く残っています。

 このように優勝争いばかりが注目されていたこともあり、秋山の記録はそれほど注目されませんでした。しかし最終戦、秋山は1打席だけ凡退し、打率を3割1厘としたところで交代。なんとかトリプルスリーを達成したのでした。

1995年・野村謙二郎

 秋山の次にトリプルスリーを達成したのは、それから6年後の1995年、野村謙二郎(広島東洋カープ)でした。セ・リーグでは1950年以来45年ぶり。シーズン128試合目で、すでに優勝が決まっていたヤクルトから、ディレードスチールで30個目の盗塁を達成しました。

実は、「トリプルスリー」という言葉がメディアで多く見られ始めるのは、この野村のときからです。たとえばスポーツ新聞は以下のように書いています。そこにはメジャーリーグの記録にも言及するなど、“大記録”としてのニュアンスが強まっています。

 1989(平元)の秋山幸二(西武)以来6年ぶり、セ・リーグでは1950年の岩本義行(松竹)た達成してから実に45年ぶりの「3・3・3(トリプル・スリー)」だ。巨人長嶋監督が新人だった58年(昭和33)、一塁ベースを踏み忘れた幻のホームランもあり、あと1本で達成を逃した。日本のプロ野球では、過去5人米大リーグでも7人しか記録していないという事実が、価値の高さを物語る。

出典:日刊スポーツ1995年10月7日付
日刊スポーツ1995年10月7日付
日刊スポーツ1995年10月7日付

 当時29歳、若手から中堅に差し掛かっていた野村ですが、他の選手と比べてもひとりだけ特殊なトリプルスリー達成者だと言えます。と言うのも、野村が本塁打を30本以上打ったのはこの年のみ。その次に多いのは1990年の16本で、通算本塁打数も169本にとどまります。一方で盗塁王を3回獲得した野村は、どちらかと言えば俊足・巧打の中距離打者。つまり95年だけ“確変”したのです。なお、この年の野村には長男・颯一郎君(現在・亜細亜大学野球部2年)が誕生しており、記事ではそのことについても触れてあります。

 ただ、この野村の記録も驚くほどの注目はされませんでした。1995年とは、阪神大震災とオウム真理教事件など、世の中が大きく変動した一年でした。プロ野球では前年にブレイクしたイチローを中心するオリックスがペナントレースを制覇、震災で傷ついた本拠地のある神戸を勇気づけました。野村のトリプルスリーを報じる10月7日付のスポーツ新聞各紙も、トップで報じたのはオウム真理教の広報担当・上祐史浩氏に逮捕状が出たという記事。野村のトリプルスリーは、運悪く一面を飾れなかったのです。

2000年・金本知憲、2002年・松井稼頭央

 95年の野村によって一般的な認知も高くなったトリプルスリーですが、その次に達成したのも同じ広島東洋カープの金本知憲でした。2000年のことです。

 しかし、金本のトリプルスリーも、今年の柳田や山田ほどには目立ちませんでした。と言うのも、この年の広島の順位は5位。巨人の優勝は既に決まっており、金本がトリプルスリーを決める30号本塁打を放ったのは、セ・リーグ最終戦でもある10月11日のこと。優勝チームでMVPを獲得する柳田と山田ほどの注目度は、そもそもなかったのです。

スポーツニッポン2000年10月12日付
スポーツニッポン2000年10月12日付

 とは言え、この頃になると、スポーツ紙だけでなく一般紙である朝日・読売・毎日でも「トリプルスリー」という言葉が見られるようになります。同時に、この記録を評す言葉として見られるのが「万能」です。95年の野村のときに読売新聞が「万能記録」と見出しに使い、このときの金本には各紙が「万能」と評価をします。つい先日も金本が阪神タイガースの新監督に就任した際、毎日新聞は「トリプルスリー(打率3割、30本塁打、30盗塁以上)を達成した万能選手」と紹介しました。

 野村と金本に使われたこの表現からわかるのは、「トリプルスリー」の一般的なイメージが徐々に固まってきたことです。指名打者や代走、守備固めと、分業が明確になりつつあった野球において、トリプルスリーは攻・走・守すべての能力を持つ「万能選手」の栄誉として捉えられるようになったのです。

 こうして広く認知されたトリプルスリーですが、金本の2年後に達成したのが、現在も楽天イーグルスで活躍する松井稼頭央(西武ライオンズ)です。

松井の場合は、蓑田以来のとても高い注目度でした。なぜなら、ほぼ達成を確定させたのは、シーズン終了まで1ヶ月近くある9月16日のこと。既に30盗塁をクリアし、打率も3割を大きく超えていた松井は、この日、30号本塁打を放ったのです。シーズン終盤でなんとかトリプルスリーに到達した秋山、野村、金本の3人と異なり、余裕の到達でした。

 松井は、野村と同じように当初は盗塁王を幾度も獲得する俊足巧打の選手でしたが、メジャーリーグに渡る直前のこの頃は、攻・走・守を兼ね備える、まさに「万能選手」でした。

「トリプルスリー」の神話

 ここまでを簡単に整理すると、蓑田(83年)で認知され、それから秋山(89年)・野村(95年)・金本(00年)と5~6年おきに騒がれることで認知が定着し、そして02年の松井で大きく拡がったという流れでしょう。

ただ、そのとき気になるのは、1953年から1983年まで、30年間、トリプルスリー達成者が現れなかったことです。もちろん今回の柳田と山田が13年ぶりであるように、決して簡単な記録ではありません。しかし、それにしては30年はやはり長いです。

 そこで想定できることは、やはりむかしは「トリプルスリー」という意識が選手たちにそもそもなかったのではないか、ということです。事実、それを裏付ける記事もあります。蓑田の記録達成時、1953年の達成者である中西太(当時ヤクルト・ヘッドコーチ)が以下のように証言しています。

私の時代([昭和]二十八年)はそんな記録があるなど知らず、夢中で打って走っただけ。あんまり盗塁するものだから、おやじ(当時の三原西鉄監督)から、ケガをしたら困るので盗塁禁止令が出た。打撃技術、走力を兼備しなくては出来ないので三冠王くらいの価値があるのでは…。蓑田君のお陰でフットライトを浴びたのは光栄だし、世間に中西太の名前を思い出してもらえうれしいね。

出典:スポーツニッポン1983年9月25日付

 1953年、当時プロ入り2年目の20歳だった中西は、結果的にトリプルスリーを達成していたものの、その意識はなかったのです。また、当時のマスコミがトリプルスリーに注目している記事も見当たりません(※4)。

さらに調べていくと、実はこの30年の間にトリプルスリーにあと一歩と迫った選手が幾人も存在することが見えてきます。具体的には、以下がその一覧です。

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 登場するのは、長嶋茂雄、張本勲、山本浩二、衣笠祥雄といった、球史に名を残す錚々たる面々です。なかでも新人だった1958年の長嶋は、本塁打が30本まであと1本に迫っていました。しかもこの年、長嶋は一塁ベースを踏み忘れて本塁打を一本損するという、後に語りぐさになる出来事も起こしています。つまり実力的には達成していたのです。

張本、山本浩二、衣笠も、晩年しか知らないひとには意外かもしれません。若き日の彼らは俊足でも知られており、衣笠にいたっては盗塁王も獲得しています。トリプルスリーでもっとも難しいのは、30盗塁です。長打・巧打に長けた選手は必然的にクリーンナップに置かれますから、次の強打者を前に盗塁することは簡単ではありません。また、長打力は30代以降も維持できても、走力は30代以降に衰えていきます。中西も25歳以降は体重が100キロ近くまで増えていました。また20代後半から4年連続で首位打者を獲得する張本も、盗塁は徐々に減っていきます。

報道を信じるならば、このなかでトリプルスリーを明確に意識していたのは、前述したように張本のみです。しかし、もし「トリプルスリー」という言葉がその頃に一般化していれば、もしかしたら長嶋や山本浩二、衣笠もそれを目標としたかもしれません。

逆に、秋山や野村、金本などは「トリプルスリー」という認識があったからこそ、達成できたのかもしれません。実際、83年以降の33シーズンでは7人も誕生しています。これは平均すると約5年弱にひとりのペース。今後も、そのポテンシャルを秘めた秋山翔吾(西武)や梶谷隆幸(DeNA)、丸佳浩(広島)、陽岱鋼(日本ハム)あたりが目標としても不思議ではないでしょう。

 「トリプルスリー」という言葉が選手の意識を左右し、新たな歴史を紡いでいく――まさに「神話作用」が生じていると考えられるのです。

※1……スポーツニッポン1983年9月25日付。

※2……スポーツニッポン1989年9月25日付。

※3……同前。

※4……この頃の新聞記事では、本塁打・打点・打率の打撃三冠ばかりに注目が集まっており、盗塁王についての関心は低いような印象を受ける。もしかしたら、60年代の広瀬叔功(南海)や柴田勲(巨人)、あるいは70年代の福本豊(阪急)までは強く注目されなかったのかもしれない。

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