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「下から目線のプロ素人」の原理

松谷創一郎ジャーナリスト
同じ地平における、立った者に対するしゃがんだ者のまなざし

ヘイトスピーカーの素性を特定する記事

 講談社のウェブサイト『現代ビジネス』に発表された、ジャーナリスト・安田浩一氏の記事が波紋を呼んでいます。

 一昨年、安田氏はヘイトスピーチを行う差別団体・在特会を追ったルポルタージュ『ネットと愛国――在特会の「闇」を追いかけて』を上梓し話題となりましたが、今回の記事はネット上でヘイトスピーチを振りまく「ヨーゲン」なる人物を追ったものです。

安田浩一『ネットと愛国――在特会の「闇」を追いかけて』(2012年/講談社)
安田浩一『ネットと愛国――在特会の「闇」を追いかけて』(2012年/講談社)

 このヨーゲン氏は、Twitterではとても有名なひとです。詳しくは安田氏の記事に譲りますが、ヨーゲン氏は病的とも思えるヘイトスピーチを日々繰り広げていました。このケースにおけるヘイトスピーチとは、マイノリティーである在日コリアンに対する憎悪表現のことを指します。孫引きになりますが、ヨーゲン氏は「不逞鮮人は日本から出ていけ」「在日こそ人殺し。在日殺すぞ!」「朝鮮民族を絶滅させよ!」といった差別発言を日々吐き続けていたのです。

 この記事には、そんな差別発言に苦しむ在日コリアンのひとたちと安田氏が連携し、ヨーゲン氏の素性を割り出していった過程が記されています。

 この記事については、批判する向きも一部で見られます。そのなかでもっとも目立つのは、「一般人」のヨーゲン氏を安田氏が追い詰めたことについてです。つまり、(ヘイトスピーチでは法に問われていない)一般のネット右翼について、(プロの)ジャーナリストが出版社のウェブサイトで、個人の人となりにまで言及してルポルタージュを書くことは許されるのか――という批判です。なかにはそれを「私刑」とまで断ずるひともいます。

 しかし、この批判はどれほど妥当なものなのでしょうか。

大きな社会問題となっているヘイトスピーチ

 結論から書けば、安田氏がやっている取材行為とその記事内容とは、週刊誌等では当然のように見られるものです。『現代ビジネス』が『週刊現代』から派生したウェブマガジンであるように、それは雑誌ジャーナリズム的な有り様だと言えます。インターネット以前、雑誌は新聞や放送(テレビ、ラジオ)に次ぐ第三のジャーナリズムの地位にありましたが、その機能が現在は徐々にウェブに移行しているわけです。

 こうしたジャーナリズムにおいて、犯罪行為に限らず社会的に問題視される行為を続ける存在を取材し、報道することは日々行われています。たとえその対象が公人(政治家や芸能人)でなくとも、それが社会的に問題だとされれば十分に報道の対象となりうります。このケースで言えば、日常的に悪辣なヘイトスピーチを吐き続けるヨーゲン氏は、その行為が大きな社会問題の一端であったと言えます。

 もちろん、このヨーゲン氏のヘイトスピーチをどのように評価するかで、安田氏の記事の評価も変わってくるでしょう。たとえば、法を基準だとするひとは、ヘイトスピーチで法的に裁かれていないヨーゲン氏を報道することを否定するはずです。あるいは、ヨーゲン氏のヘイトスピーチを肯定するひとも、記事を否定するでしょう。

 しかし、ヘイトスピーチは、もはや十分な社会問題です。8月には、国連の人種差別撤廃委員会が日本に対してヘイトスピーチに法的対処を求める勧告をしました。おそらく来年にも、国会でヘイトスピーチ法案が審議入りすると見られます。それほどまでに重大な問題なのです。そしてそこで問題視されているのは、在特会の街宣活動だけではありません。

 在特会がネットに出自を持つように、ヘイトスピーチ問題はネットという要素をかなり含んで進展してきたものです。ヨーゲン氏は、このネット上でのヘイトスピーチをもっとも盛んに行っていた人物なのです。よって、ヨーゲン氏が報道対象になることに大きな問題はありません。ヨーゲン氏の人権を慮って安田氏を批判するひとが徹底的に看過するのは、まさにこの点です。

 私はこの記事が、ヨーゲン氏や他の多くのヘイトスピーカーを抑止し、同時に、こうした問題が世の中に存在することを一般に報知する効果も十分にあったと捉えています。マスコミやジャーナリストは、罪を犯していない一般人であれば誰に対しても優しいということは決してありません。問題のある一般人について伝えることに公益性があると判断できるならば、報道する必要はあります。もし、マスコミやジャーナリストに追われたくないならば、ヨーゲン氏のようなヘイトスピーチをしなければ良いだけの話なのです。

緩衝材としてのジャーナリスト

 とは言え、私は記事を読んで、「安田さんは、バランスを取っているな」と思ったのも事実です。普段から安田氏は、レイシストを糾弾するだけでなく、事後処理もしています。あるとき見かけたのは、「最初に移民が来たときに大虐殺をしませんか?」とツイートしたあるレイシストとのやり取りでした。この発言は、ネット上で即座に強く問題視され、この人物はひどく狼狽していました。おそらく軽い気持ちだったのでしょう。

 安田氏はそんな彼に対し、自分自身で警察に連絡して説明するように説得し、彼はそのとおりにして逮捕を免れ、以降ヘイトスピーチをやめることを宣言しました。社会からヘイトスピーチをなくすために、安田氏は日々こうした活動をしています。

 ヨーゲン氏について書いたこの記事でも、決して彼の実名を記すことなく(逮捕時に実名報道されているにもかかわらず)、記事にもあるように被害者たちにもヨーゲン氏の所在について教えてはいません。そこには、安田氏なりのジャーナリストとしての強い倫理観が見て取れます。

 この記事で安田氏が果たしている役割とは、被害者側に立った上で、加害者であるヘイトスピーカーのヨーゲン氏と、被害者である在日コリアンとの衝突を回避させる緩衝材なのです。もしヨーゲン氏を社会的に抹殺しようと思う者が彼の個人情報を掴んだならば、記事など書かずに他の手段を採るはずです。

 しかし、安田氏はそうしませんでした。自らの署名原稿として、つまり自らが責任主体となることを引き受けているのです(この点は、2ちゃんねる等で見られる匿名者たちによる個人特定および炎上劇とは明確に異なります)。

 現状のヘイトスピーチ問題でもっとも危惧されるのは、悪辣な差別発言を投げかけるヘイトスピーカーに、怒った被害者側が違法なかたちで反撃することです。具体的にいえば、在特会のメンバーやヨーゲン氏に傷害を負わせるようなことは、もっとも避けなければなりません。加害者であるレイシストたちを、決して被害者にしてはならないのです。その逆に、被害者である被差別者を、決して加害者にしてはなりません。それこそレイシストたちの思う壺だからです。

 安田氏がこの記事で果たしているのは、そうしたリスクの回避です。この記事は、テクスト(記事内容)だけでなく、この記事を出すことによる影響を踏まえて評価すべきであり、そこには公益に見合った十分な社会調整力があると私は判断します。そして、これこそがジャーナリズムの機能のひとつなのです。

旧来型の「マスコミ対一般人」構図

 さて、この安田氏の記事への批判にはもうひとつ奇妙に思えたものがありました。それは、ヨーゲン氏の問題行為を等閑視したまま、この記事を「マスコミによる一般人の私刑」として捉えるものです。つまり、「マスコミの強大な権力によって一般人(ヨーゲン氏)を攻撃するな」という批判です。これに、とても強い違和感を覚えました。

 そこで持ちだされているのは、「マスコミ対一般人」という素朴な旧来型の構図です。これが、今回のケースにおいてどれほど妥当なのか、そしていまの時代においてどれほど適用できるのかは、あらためて考えてみてもいいかもしれません。

 マスメディアとは、現在は大きく4つに分類できます。テレビ・ラジオ(放送)、新聞、雑誌、そしてネットです。近年の大きな特徴は、ネットメディアが伸長する一方で、新聞と雑誌の影響力が弱まり続けていることです。

 「マスコミ対一般人」という構図は、ネットの浸透以前どころか、かなり早い段階からマスコミ報道を批判する際に見られていました。マスコミ研究も、送り手(マスコミ)が、発信する手段を持たない受け手(一般人)に影響を与えるという研究を続けてきた歴史があります。

 近年では、2011年のフジテレビ抗議デモにおいて参加者にこの構図が共有されていたことが記憶に新しいでしょうか。その批判の内容は、マスコミであるフジテレビが偏向報道をしているというものでした。このデモを主導していたのは、在特会同様にネットから生まれた排外主義の団体でした。

 今回の安田氏の記事への批判は、「マスコミ対一般人」という構図を前提としている点において、質的にはこのフジテレビ抗議デモにおける批判と近しいものがあります。ただし、そこで決定的に異なることがあります。それが、テレビ局とネットメディア(出版社の媒体)という違いです。両者は、同じマスコミではありますが決定的に違う存在です。

 テレビ局は、影響力の強さや有限の電波を独占する免許事業であることもあって、放送法により(「表現の自由を確保する」名目で)報道が規制されています

 しかし、ネットメディアはそうではありません。前述したように、『現代ビジネス』は雑誌から派生したうウェブマガジンであるように、そこには放送法の「政治的に公平であること」といったような規制はありません。『WiLL』(ワック・マガジンズ)が右寄りの雑誌であり、『週刊金曜日』(金曜日社)が左寄りの雑誌であるように、言論の自由が十分に保証されている日本社会においては、さまざまな雑誌が存在します。

 そういえば15年ほど前、あるトークイベントで大手新聞社の幹部が半ば自嘲気味にこう話していました。

「プロ野球では『人気のセ、実力のパ』という言葉がありました。マスコミも同様かもしれません。私たち新聞はセ・リーグのように人気はあるかもしれないが、実力は雑誌のほうがある」

 事実、1974年の『文藝春秋』における立花隆氏による田中角栄総理の金脈報道や、1999年の『FORCUS』における清水潔氏による桶川ストーカー殺人事件報道など、雑誌メディアは数々のスクープを飛ばしてきました。誤報や訴訟も雑誌のほうが圧倒的に多いですが、放送法や記者クラブに縛られたテレビや新聞とは異なり、雑誌は自由闊達な言論によって成果をあげてきたのです。

 『現代ビジネス』もこうした雑誌メディアの文脈にありますが、この媒体がテレビや新聞同様に扱われ、「一般人を攻撃した」と見なされて批判されることは、明らかに『現代ビジネス』のマスコミとしての質を見誤っていると言えるでしょう。テレビ・新聞と雑誌・ウェブメディアは違うのです。

 さらに私が極めて奇妙だと思うのは、そのとき批判者は『現代ビジネス』と同じメディアであるネット上で、同誌を批判していることです。にも関わらず、それが決して顧みられることはありません。情報流通を軸にしたメディアの特性を基準とすれば、ネットメディアの『現代ビジネス』も、Twitterでの個人発信も、両者は同質なのです。

 こうした批判のなかには、「(客観的基準を設けるために)ネットメディアの報道を法で規制しろ」という苛烈な意見も見られました。その批判者は、そのような法が同じメディア上で流通する自分たちの発言にも適用される可能性について、まったく想像していないようでした。自由な環境を享受する者が、自由だからこそ自由な言論を否定するという、絶望的なパラドクスがそこには生じていたのです。

「下から目線のプロ素人」の原理

 そういえば数年前、バカッター問題が流行しました。社会的に問題視される行動をTwitter上にアップした者が、次々と見つかって非難された出来事です。プライベートで店に来た有名人カップルの実名を公開して問題となるケースもあったように、違法性の有無はそこでは関係なかったのです。

 今回の安田氏の記事を私が支持するのは、ヨーゲン氏がこれまで悪辣な言説をTwitterなどで大量に発信してきたからです。彼が一般人であるかどうかは、そこでは関係ありません。一般人であろうがなかろうが、悪辣な言動には問題があるのです。

 それにしても、「一般人であれば、ネットでの発信が(法に抵触しないかぎりは)糾弾されない」といった素朴な構図は、なぜ一定の支持を得るのでしょうか。私が奇妙に思うのは、この点にあります。

 おそらくそうした混乱は、「マスコミ対一般人」という旧来的な対立構図をそのままネットメディアに持ち込んでいるために生じているのでしょう。それが極めて転倒した発想であることについては既に触れました。

 加えて言えば、その構図は「強者と弱者」と解釈されており、批判する者はたいてい自らを弱者側に置いています。そして、弱者の構えを取りながら、ネット上で、ネット記事を発表した安田浩一氏を批判します。果たして、安田氏を批判できる環境にいるこの批判者は、本当に弱者なのでしょうか。

 そこには、たしかに「商業ウェブマガジン/一個人のTwitter」という非対称性はあります。しかし、煎じ詰めればそれは能力の多寡に辿り着きます。能力があるからこそ安田氏は影響力のある『現代ビジネス』に記事を執筆でき、能力がない者がTwitterで安田氏を批判しているのです。つまり、そこにあるのは「影響力のある記事を書ける者/書けない者」という能力的な差異なのです。

 そういえば、このYahoo!ニュース個人も影響力の強いネットメディアですが、この中には肩書きを「ブロガー」とする一般の方も存在します。彼らは能力があるからこそ、ここで書くことを許されているのです。プロ/アマチュア、マスコミ/ミニコミ――こうした境界を取り払ってきたのがネットなのです。ネットがそうした可能性に満ちた世界であることは、さらに説明するほどのこともないでしょう。

 結局、自らを弱者として規定した者が、そこに安住する自らの無能さをマスコミ批判にすり替えているように見えるのです。

 私はそうしたタイプのひとびとを「下から目線のプロ素人」と呼んでいます。ネットというフラットな場にも関わらず、そこに旧来型の「マスコミ対一般人」という非対称の構図を持ち込んでいます。彼らは平坦な場にしゃがんで、相手を「お前は上から目線だ」と批判しているだけなのです。

 実は、それは在特会やヨーゲン氏にも見られる姿勢でもあります。彼らに共通するのは、強い被害妄想を軸とした自らの弱者規定です。在特会が、被害妄想によって構築された架空の「在日特権」を批判(ヘイトスピーチ)の根拠とするように、彼らは常に自らが被害者であり、弱者であることを主張します。そして、その「下から目線」から大量の石礫を投げつけるのです。

 この構図は、大なり小なりネット上ではしばしば見受けられます。映画をこき下ろすことに情熱を燃やす映画批評ブログ主、学者や言論人の揚げ足取りに情熱を燃やす俗流の若者研究家等々、彼らは「下から目線」であることが安全地帯かのように振舞っています。彼らにも見受けられるのが、無意識的に非対称的な差異を前提的に設定していることです。

 以上を踏まえれば、安田浩一氏の記事やこれまでの仕事が、個別のヘイトスピーチの問題のみならず、現在の日本社会に通底する重大な問題を取り上げていることがよくわかるはずです。「下から目線のプロ素人」たちは、妄想的とも言える強い被害者(弱者)意識を抱いています。そうしたひとびとは、決して少ないとは言えません。

 彼らはそうした不安定な精神状況に追いやられ、弱者の立場から決して脱出しようとしないからこそ弱者なのです。これはトートロジーではありません。弱者の地位に安住するのは、それが(彼らの想定する)強者に対抗する術だと捉えられているからです。彼らは弱者を気取った強者などでは決してなく、弱者を気取るがゆえに真の弱者に堕したひとたちなのです。

 このとき我々が考え続けなければならないのは、彼らにそうさせている根本的な要因はなにか、ということです。それを根治しないかぎり、「下から目線のプロ素人」はこれからも生まれ続けてくるのです。

ジャーナリスト

まつたにそういちろう/1974年生まれ、広島市出身。専門は文化社会学、社会情報学。映画、音楽、テレビ、ファッション、スポーツ、社会現象、ネットなど、文化やメディアについて執筆。著書に『ギャルと不思議ちゃん論:女の子たちの三十年戦争』(2012年)、『SMAPはなぜ解散したのか』(2017年)、共著に『ポスト〈カワイイ〉の文化社会学』(2017年)、『文化社会学の視座』(2008年)、『どこか〈問題化〉される若者たち』(2008年)など。現在、NHKラジオ第1『Nらじ』にレギュラー出演中。中央大学大学院文学研究科社会情報学専攻博士後期課程単位取得退学。 trickflesh@gmail.com

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