AKB48の「恋愛禁止」ルール:峯岸みなみ丸坊主騒動の論点〈3〉

職業性を無視した「人権無視」論

前々回はリアリティショーとしての側面を、前回は体育会気質としてのAKB48の側面について考えてきた。最後となる今回は、この騒動を引き起こした「恋愛禁止」というルールについて考える。

峯岸みなみは、男性歌手の自宅へ泊まったことを『週刊文春』に撮影され、このルールを破った罰として自ら頭を丸めた。この一件で、その元凶を恋愛禁止ルールにあると見る向きは少なくない。たとえば、弁護士の伊藤和子はこのルールが人権侵害ではないかと指摘した

意図的かどうかともかく、伊藤がそこで徹底して無視しているのは峯岸の仕事の内容である。つまり芸能人、ジャンルで言えばアイドルという職業についてだ。それは誰もがなることができない、非常に特殊な職業であることは言うまでもないだろう。

伊藤はこの特殊性を完全に等閑視し、それを一般の職業と同等のものとして捉えている。逆に言えば、その視点はアイドルという職業の性質を無視するからこそ、簡単に提示できるものだ。そこで決定的に欠如しているのは、かれこれ40年以上の歴史を持つアイドルという日本の芸能文化への読解であり、それゆえ正論であっても、評価されることはない。

伊藤のような者に必要なのは、自らの主張のために峯岸の存在を政争の具にしないことである。大切なのは、まずはフェアに状況を把握していくことではないか。まぁ、それが伊藤なりの炎上マーケティング手法なのかもしれないし、それは結果的にも大成功のようだが。

「少女」文化に根ざす恋愛禁止ルール

さて、そもそもアイドルとは何だろうか?

一言であらわせば、それは異性との恋愛を擬似体験させる社会装置である。噛み砕いて言えば、恋人かもしれないと想像させるファンタジーだ。70年代から一般化したこの文化は、山口百恵、松田聖子、おニャン子クラブと、年を重ねるごとに拡大と浸透を続けてきた。この歴史については、もはや説明するまでもないだろう。

このファンタジーにおいて、アイドルは一貫して恋愛禁止というルールを保持し続けている。決してAKB48が特別なわけではない。それは明文化されたり、改めて確認されることはさほどなかったが、アイドルとファンの間では暗黙の了解として共有され続けてきた。

事実、「恋人がいます」と公言するアイドルはこれまで存在しなかった。逆に、それを認めた瞬間に、アイドルでなくなった存在は多くいる。AKB48も、こうしたこれまでのアイドル文脈に沿っているだけである。よってAKB48の恋愛禁止ルールは、アイドル文化の伝統へ直ちに敷衍できる。

もちろんAKB48が他のアイドルと異なるのは、それを明文化(公言化)し、さらに罰則規定を設けていることだ。これは明文化されていない、曖昧なルールによって不公平な罰則が生じにくくなるための措置だと考えられる。つまり、グレーゾーンを極力避ける努力ゆえのことだ。ルールを明確にすることは、その濫用を防止することにも繋がるからだ(ただし、この罰則に公平性がないという批判も多い)。また、AKB48以外のアイドルでは恋愛禁止を破ったゆえの罰則がないかと言うと、まったくもってそんなことはない。その罰則が外部には見えなくなっているだけだ。

もちろん、こうしたアイドルの文脈があるからと言って、この恋愛禁止ルールが直ちに肯定されるわけでもないだろう。ただし、伊藤和子のような素朴な批判では、まったく説得力は持たれない。しっかりと歴史的な文脈を見ていく必要がある。

アイドルを支えるのは、遡れば100年以上前に政府が講じた極めて保守的な思想に行き着く。19世紀末、当時の明治政府は「良妻賢母」を掲げ、少女に純潔規範を課した。そして、その延長線上に処女信仰が生じる。将来、ひとりの夫の子供を産む「良妻賢母」になるためには、複数の男性と交際をしたり、他の男性との子供を出産を禁ずるための規範意識を植え付けることが必要だったからだ。「少女」という概念も、このときに一般化した。

大塚英志が指摘するように、この「少女」は、(妊娠することが可能な)性的な身体を有している。にもかかわらず、その使用は禁止されている。子供と大人の中間のモラトリアムな存在なのである(註1)。

アイドルとは、この「少女」概念の延長線上に生じた文化だ。そこでの恋愛禁止ルールとは、純潔規範が先鋭化したものだ。彼女たちは、「少女」を商品価値としているのである。

しかしながら、こうした「アイドル」という制度は、90年代以降、従来のままでは存立が難しい時代を迎えることになる。90年代中期のコギャル登場以降、「少女」というモデルは若い女性たちの間で著しく価値を失ったからだ。高校生の性体験率も90年代以降、どんどん高まっていった(現在は高止まりしている)。拙著『ギャルと不思議ちゃん論』で論じたように、「少女」からギャルの時代に変わっていったのだ。アイドルという制度そのものが、現実と遊離し始めたのだ。

結果、アイドルは低年齢化を加速したり(同時にファンのロリコン化)、あるいはアニメを中心とするオタク文化に適合するための記号的なキャラクターの存在が生まれるようになった。従来の形式では現代社会に適応できないがゆえに、「少女」概念を維持できる極端なスタイルに変質したのである。

恋愛禁止ルールの緩和は可能か?

前々回述べたように、AKB48人気の中心にあるのは、必ずしもアイドルとしての「少女性」ではない。総選挙をはじめとしたリアリティショーとしてのシステムにこそある。ただ、それでも「少女性」も必要とされていることも間違いない。

もちろんそこには個人差もある。たとえば、前回の総選挙2位だった18歳の渡辺麻友には、「少女性」が強く期待され、そのために恋愛禁止ルールは有効に機能する。しかし、メンバー最年長で26歳の篠田麻里子に「少女性」はおそらく期待されておらず、もし彼女に恋愛が発覚しても傷つくファンはさほど多くないはずだ。

そこで考えられる提案は、この恋愛禁止ルールの緩和である。全面的な撤廃かどうかはさておき、年齢によって恋愛禁止ルールが適応されないメンバーがいてもいいかもしれない。実際、映像コレクターのコンバットRECとラッパーのライムスター宇多丸も、メンバー個々人の恋愛禁止ルールの是非をファン投票によって決めるという提案をした(註2)。それは、ファンが参加するAKB48のあり方を考えれば、極めて妥当な提案だ。もしこれが実現すれば、これまでのアイドルの歴史では非常に画期的なことだ。

ただ、それが実現されることはおそらくないだろう。もし投票が実現しても、篠田のような存在を除くほとんどのメンバーで恋愛禁止ルールは存続することとなるはずだ。前述したように、アイドルとは近代化以降の「少女」概念を引きずった極めて保守的な文化であり、独自の長い歴史的文脈も有している。ギャル文化が広がるのと反比例するように、男性たちはオタク化・草食化の度合いを増した。アイドル文化はそのプロセスにおいて、保守化の度合いを強め、さらに先鋭化した。

そもそも、日本が旧来的なジェンダー規範からすでに解き放たれていれば、アイドル文化も終了しており、女性たちももっと社会進出を果たしているはずだ。だが、そうなっていないからこそ、アイドル文化は体育会系文化と同じように日本社会に深く根ざしているのである。

保守的な恋愛禁止ルールを疑問視することは必要だろう。しかし、それには日本におけるアイドルの歴史をしっかりと踏まえ、この機会に日本社会に敷衍して考えることが求められる。そして、それこそがアイドルという制度を脱構築することに繋がるのである。

AKB48を他山の石にできるか

さて、最後に私がなぜここまで長く今回の騒動について書いてきたか説明したい。

それは、エンタテインメントの可能性と影響力を信じているからだ。中には「たかがアイドル」と思われる方もいるだろう。しかし、アイドル(有名人)とは、若者たちのロールモデルとなる存在でもある。その影響力は、思った以上に大きい。そこに問題があるならば、確実に是正されることが必要とされる。

そしてもうひとつの理由としてあげられるのは、これまで論じてきたように、AKB48の背後には日本社会が見え隠れするからだ。リアリティショー、体育会系気質、そしてアイドル文化といった三つの側面は、すべて日本社会から生み出されたものだ。AKB48は、確実に日本社会を反映している。

今回の騒動を「気持ち悪く」感じたひとが多いのも、それは人々がAKB48を通して日本社会の負の側面を見ているからにほかならない。中には峯岸の坊主姿に、気づかないまま自らの醜い姿を重ねる人もいるかもしれない。

私が長々と書いてきたのは、AKB48を他山の石として、日本社会が抱えるこうした問題にソリューションを提示したかったからである。

(了)

註1:大塚英志『少女民俗学』(1989年/光文社)

註2:『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』(2013年2月2日/TBSラジオ)。

・関連

リアリティショーとしてのAKB48:峯岸みなみ丸坊主騒動の論点〈1〉

AKB48に根ざす体育会系気質:峯岸みなみ丸坊主騒動の論点〈2〉

〈追記〉

コメントしました→朝日新聞2013年2月6日朝刊「(探)丸刈り謝罪、誰のため? AKBファン『僕らが追い込んだのか』」