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パッキャオのトレーナー、フレディ・ローチは言う「一流の指導者は暴言など吐かない」

林壮一ノンフィクションライター
(写真:ロイター/アフロ)

 8月21日に組まれたWBC/IBFウェルター級チャンピオン、エロール・スペンス・ジュニアとの一戦が注目されるマニー・パッキャオ。彼の栄光の軌跡に触れる時、欠かせないのがトレーナーであるフレディ・ローチ(61)の存在だ。

 10年以上前だが、ローチをインタビューした際の言葉をお届けしたい。

写真:ロイター/アフロ

 フレディ・ローチが誕生したのは、1960年3月5日のことだ。マサチューセッツ州で地域の家や公園の樹木を伐採する仕事に就いていた元プロボクサーの父は、7人の子供たちにボクシングを勧めた。第4子だったローチは6歳からジムに通い始め、アマで150戦して141勝9敗の戦績を残す。

 「生活は貧しく、低所得者向けの賃貸住宅で成長した。『人生にとって最も大事なのは、リングで勝つことだ。学校よりジムを大事にしろ』っていうのが父の教えだった。姉、妹も、ボクシングをやったよ。ジムに通い始めて半年後にアマチュアの試合に出始め、106パウンド(48.0キロ)、112パウンド(50.8キロ)、118パウンド(53.5キロ)でニューイングランド州のゴールデン・グローブ王者になった。高校を卒業した1ヵ月後に、プロに転向したんだ」

 ローチは5戦目からエディ・ファッチの教えを受けた。2001年10月10日に90歳で鬼籍に入ったエディ・ファッチは「伝説のトレーナー」と呼ばれ、ジョー・フレージャー、ケン・ノートン、ラリー・ホームズ、リディック・ボウら、延べ21人の世界チャンピオンを育てた名伯楽だ。

写真:ロイター/アフロ

 「エディのお陰で、私は選手として大きな成長を遂げることができた。彼のアドバイスは、いつも的確だった。多くは語らないけれど、選手がイメージしやすいようにポイントをつくんだよね。また、試合中も絶対に大声で叫んだりしない。『まずは深呼吸だ。落ち着きなさい』って言った後に指示を出した」

 エディの指導で世界7位まで上ったローチだが、右拳の骨折もあり、世界タイトルには届かなかった。1985年8月、後にIBFライト級、WBOスーパーライト級王者となるグレグ・ホーゲンにTKO負けした後、エディはローチに引退を勧告した。

 「涙が止まらなかった。まだ25歳で体が動いたし…エディなしでその後、5戦した」

写真:ロイター/アフロ

 どうしても右の拳は治らず、程なくして指導者の道を歩む。エディのアシスタントとなり、トレーナーを一から学んだ。

 「叫んだり、怒鳴ったりしても選手の耳には入らない。親が子を躾ける時だってそうだよね。落ち着かせて言い含めるのがエディ流。私もずっとそうやって来た。もちろん、マニー(パッキャオ)にもそうさ。

 試合中のインターバルでコーナーに戻って来た時も、まずはうがいをして深呼吸させて、1つか2つ、ポイントを伝える。多過ぎてはダメだ。一人一人の特徴を知ったうえで、練習メニューも接し方も、掛ける言葉も考える。個人に合ったやり方で、能力を最大限に引き出してやるのが指導者の仕事だ」

写真:ロイター/アフロ

 「時々、喚き散らしたり、大声で怒鳴ったりするコーチを見るけれど、三流以下の行為。エディがそうだったように、一流の指導者は決して暴言など吐かないよ」

 先日私は、『ほめて伸ばすコーチング』(講談社)という本を刊行した。日本には暴言のみならず、未だに暴力を用いて、選手を馬のように扱うスポーツの指導者が存する。そういった輩にローチの言葉が届くことを、心から願う。なぜ、ボクシング界の英雄、マニー・パッキャオがローチを選んだかを学習してほしい。

ノンフィクションライター

1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経て、ノンフィクションライターに。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。2014年、東京大学大学院情報学環教育部修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(全て光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(全て講談社)などがある。

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