9シーズンに亘ってポートランド・トレイルブレイザーズの指揮を執ったテリー・ストッツが、チームを去った。6月3日に行われたPlayoffファーストラウンド第6戦で、デンバー・ナゲッツに115-126で敗れた翌日の事だった。9年間の働きで、通算戦績は402勝318敗。ブレイザーズ史上、勝利数の多さで2位となる監督だった。

 ストッツは「いい事には、必ず終わりが来る」という詩を引用しながら、チームに別れの手紙を送った。ブレイザーズで働く機会を与えた幹部、チームリーダーのデイミアン・リラードをはじめとした選手たち、ポートランドのファン、コーチングスタッフ、そして、ジャン夫人への感謝が述べられており、「素晴らしい時間と思い出は、永遠に私の胸に刻まれる」と締め括っていた。

写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ

 新型コロナウィルスが世界中を覆う前は記者会見の席で、今シーズンはZoom会見で、私は何度も彼に質問した。その度に誠意ある応対を見せた。

 「今日は日本からZoomに参加しています!」と告げた際には、日本語で「コンニチハ」と返してくれたこともあった。

 一言で表現すれば、ストッツ監督は紳士だった。

 様々なクエスチョンを浴びせたが、今、最も鮮明に蘇るのは14歳だったストッツが、当時全米の大学で最強だったUCLAを率いるジョン・ウッデン監督に手紙を出したことについての答だ。

 グアムに住んでいたストッツ少年は膝の痛みに苦しんでおり、不安でいっぱいの日々を送っていた。「僕はどうしたらいいのでしょう?」と書いた14歳のストッツに、名将ウッデンは、励ましの返事を送ったという。

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 1948年から1975年までUCLAの監督を務め、同校を10度全米チャンピオンの座に導いたウッデンは、15のパーツからなる「勝利のピラミッド」を築き上げ、実践した。ウッデンは「ポジティブな指導が選手を向上させることを忘れてはならない」と常々口にした。※ウッデンについて詳しく知りたい方は、拙著『ほめて伸ばすコーチング』(講談社)をご覧ください。

ーージョン・ウッデンの哲学から学び、今、現場で活かしていることはありますか?

 私がストッツに質問すると、彼は答えた。

 「もう50年も前の話ですね……。非常に尊敬できる方でした。選手の育て方、扱い方も見事でした。私もブレイザーズのメンバーたちが、ポジティブに己の仕事に向かえるよう努めているつもりです」

 戦力的に考えれば、今季のブレイザーズがPlayoffファーストラウンドで姿を消したのは当然だったかもしれない。だが、最後のゲームの残り31秒で、リラードら主力をベンチに引っ込め、若手を投入した采配に、私はメッセージを感じた。「お前たち、自分の手で人生を切り拓いていくんだぞ」と。

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 ストッツのような監督と接し、世界最高峰の妙技を堪能できるNBA取材を続けていると、日本バスケットボール界からは失望しか感じない。ミニバスからプロまで、未だに暴力・暴言を好む監督が跋扈し、それを撲滅しようという動きも無い。日本の無能監督には、暴力が犯罪だという認識すら無い。

https://news.yahoo.co.jp/byline/soichihayashisr/20210529-00239389/

https://news.yahoo.co.jp/byline/soichihayashisr/20201128-00200007/

写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ

 本気で日本のバスケットボール界を変えるためにも、どこかのチームがストッツ監督にオファーを出さないか、と私は感じる。彼の年俸は500万ドルと言われていたが、およそ5億5千万円を払っても、バスケットボール人であることの常識がこの国に根付くのであれば、安いくらいだ。

 Jリーグが誕生した折、ジーコ、リトバルスキー、ラモン・ディアスと、ワールドカップで活躍した世界のスーパースターが選手としてやって来た。彼らはジャパニーズとピッチで対戦することで、日本サッカー界のレベルを上げた。ピークは過ぎていたものの、選手としての姿を残した。鹿島アントラーズが強豪となったのは、ジーコの教えが継承されているからだ。

 残念ながらBリーグに、元NBAのスターと契約する資金力は無い。ならば、第一線で生きて来たコーチを呼び、バスケットボール指導の1から教わるのはどうか。ストッツから学ぶことは無限にある筈だ。