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東京大学卒2人目のJリーガーが率いる「文武両道」を目指すクラブ

林壮一ノンフィクションライター
写真:おこしやす京都AC提供

 5年間、プロのJリーガーとしてプレーし、今季、関西サッカーリーグに属する「おこしやす京都AC」に移籍した酒井大登(30)。新たな環境での開幕を控え、調整に余念がない。ただ、昨年までと大きく変わったのは、サッカーの練習と仕事を掛け持ちする生活を送っている点である。

酒井大登 写真:おこしやす京都AC提供
酒井大登 写真:おこしやす京都AC提供

 酒井は埼玉栄高校時代に、現在、大分トリニータのMFである町田也真人やザスパクサツ群馬のDF高瀬優孝らと共にインターハイ、全国高校サッカー選手権大会(ベスト16)に出場した。卒業後は無名だった平成国際大学を関東リーグに昇格させ、総理大臣杯にも駒を進めた。

 「高校時代のチームメイト6名で、同じ大学に進学しました。自分たちで強くしてやるんだと。人間が一つの目標に向かって進む為には、常にポジティブな言動が求められました。日常生活から、“魂”を大事にしましたし、全力で毎日を過ごす。目の前の相手に負けない。周りよりも走る等の基本は勿論のこと、グラウンド外でも、『疲れた』とか『あいつがダメだ』みたいな言葉を封印した4年間でしたね」

 ジャパンサッカーカレッジ、佐川印刷京都SC、ラインメール青森、ヴァンラーレ八戸と渡り歩き、佐川印刷以来の京都府民となった。

 「佐川印刷は送り状を印刷することが業務の一つで、私は倉庫のなかで製品管理や包装作業を担当していました。2年間、仕事をしながら、サッカーに集中させて頂ける雇用形態でした」

 その後、プロ選手としてサッカーだけの生活を送る。

 「2チームに2年ずつ在籍しました。ただ、2018年末に右足首を骨折し、回復までに8カ月を要してしまったんです。昨シーズンを丸々棒に振る形になってしまい、そのまま契約満了の日を迎えました。2019年12月にJリーグの契約満了選手を集めた合同トライアウトを受け、そこで、おこしやす京都ACに声を掛けて頂いたんです。

 京都は自分のサッカー人生において所縁ある地でもありますし、トライアウト後、最初に誘って下さったのがおこしやす京都ACでした。街並みも好きですし、家族でこんなところに住めたらいいなと」

写真:おこしやす京都AC提供
写真:おこしやす京都AC提供

 今日、酒井は昼過ぎに出社して朝日新聞の夕刊を配達し、18時くらいまで、新聞継続契約のための営業もこなしている。

 「サッカー選手がメインですが、年齢的にもセカンドキャリアを考える時期ですから、人間力を上げて行く必要性を感じています。人として強くなければチーム力も向上しないし、昇格も臨めません。だから、自分の成長の為には有難いですね」

 酒井は今季中にJFLの昇格を決めたい。おこしやす京都ACは、十分にそれが可能な組織だと話す。

 「全試合にフル出場して、J3に参入したいですね。Jに戻って、支えて下さっている方々に自分のプレーを見て頂きたいです」

写真:おこしやす京都AC提供
写真:おこしやす京都AC提供

 おこしやす京都ACの祖業は、キッズのスポーツスクールだ。2002年にアミティエ・スポーツクラブが発足し、翌年NPO法人格を取得。キッズスポーツスクールを展開する。

 2005年にスポーツスクールの指導者たちが、「自分らもプレーするためのチームを立ち上げよう」と社会人チームが産声を上げる。2015年にはクラブ経営の更なる強化を図るため、トップチーム運営団体を株式会社化し、2018年にはクラブ名を「おこしやす京都AC」とした。京都市を拠点とし、本格的にJリーグを目指すクラブとなる。2019年には関西リーグ優勝、全国社会人サッカー選手権大会準優勝、全国地域サッカーCL第3位とクラブ最高成績を収めながら、動きが活発になっていった。

写真:おこしやす京都AC提供
写真:おこしやす京都AC提供

 このチームの現社長は、同チームのOBである添田隆司(27)。東京大学を卒業した2人目のJリーガーとして話題になった人物である。

添田隆司社長 写真:おこしやす京都AC提供
添田隆司社長 写真:おこしやす京都AC提供

 添田隆司とサッカーの出会いは幼稚園の年中。通っていた幼稚園のなかにサッカースクールがあった。ぼんやりとプロサッカー選手に憧れたものの、「中学2年生くらいで、自分はそんな器ではないと諦めた」そうである。高校時代は、横河武蔵野FCユースでプレー。小中高と全国屈指の進学校である筑波大付属で過ごしていた添田は、自宅、学校、サッカーの練習、そして帰路と毎日電車の中で過ごす3時間を、受験勉強の時間にあてた。

 「横河武蔵野FCには、そこまで練習量も多くないのにセンスがあるタイプが何人もいて、彼らに劣っている自分がとても悔しかったんです。絶対に負けたくなくて、試合に出て活躍してやろうという気持ちでした。

 受験勉強は、とにかく暗記系を電車移動時間内にするようにしました。時間を決めて一定範囲を覚え切る。徹底的に反復しましたね。ブツブツ言葉にした方が記憶しやすかったり、指で単語を書いてみるとか、短い時間を最大限に利用しようと五感を使いながら学習した記憶があります」

 類稀な集中力と、論理的に覚える術を身に付けた添田は、現役で東京大学文科二類経済学部経済学科に合格し、サッカー部に入部する。

赤門 撮影:著者
赤門 撮影:著者

 「横河武蔵野が強豪だったものですから、試合に出る為のチームプレーに徹した部分があります。大学4年間は、自由にサッカーを楽しみたいなと考えていました。ですが、東大サッカー部は、イメージしていたよりもレベルが高かったんです。

 ただ、東大サッカー部のメンバーは既存の物を体得することは得意なのですが、自分で教科書を作っていくような、新しいことを探求していく作業は苦手なのかなという印象も持ちましたね。そこが成長を阻んでいた感があります」

 添田が1年生から3年生の間は、元日本代表DFである林健太郎が東京大学で指揮を執っていた。

 「健太郎さんは、実際にプレーを見せてくれました。人と人との間でパスを受けるのが異常に上手かったです。そのタイミングを学ばせて頂きました。また紅白戦に御自分も混ざるのですが、トラップもパスも神のように正確でした。

 僕が1対1で健太郎さんと対峙した時に、予想以上に足が伸びて来て、ガチャっとボールを奪われたことを覚えています。ですからスピード勝負で躱すようにしていました(笑)。言葉ではなく、生きた手本を目に出来るのは楽しかったですね」

 4年次にキャプテンを務めたが、大学時代に目覚ましい結果を出すことは叶わなかった。しかし、林ヘッドコーチの推薦もあり、藤枝MYFC(J3)からオファーを受ける。添田はこの時、三井物産から内定を得ていた。

 「Jリーガーになれるチャンスを得られる人間は限られています。ならば、チャレンジしてみようと。入団した時は、まず1試合出場することがスタートだと思っていました。というのも、練習参加させて頂いた際、自分とのレベルの差を思い知らされたのです。1試合目の景色を元に、新しい目標を立ててステップを踏んで、行けるところまで行きたいなと考えました」

藤枝MYFC時代の添田 写真:おこしやす京都AC提供
藤枝MYFC時代の添田 写真:おこしやす京都AC提供

 怪我人の影響もあり、卒業から2カ月で出番が回って来た。

 「技術はまったく通用しませんでしたが、かろうじて運動量なら勝負できると。それを活かして行こうと決めました」

 2シーズン半在籍し、10試合を経験した後、当時藤枝MYFCと一部提携していたアミティエSC京都(おこしやす京都ACの前身)に移籍。4カ月プレーした後、引退を決意した。

 その後、ドミニカの野球アカデミーや、ベトナムのサッカースクール、あるいはケニアでアフリカ最大のスラムを視察する等、40カ国を訪問して見聞を広める。ケニアでは同国で2番目に大きなスラム街に、世界大会でFCバルセロナを下したことがあるアカコロフィットボールアカデミーがあり、その姿を観察した。

 「年間2000万円くらいの予算で、スラムの有望な子に着る物や食べ物を提供し、サッカーを教えていくプロジェクトが行われていました。アカデミーがあることで、スラムの犯罪率が下がっていたのです。そこで働く方の思い入れも目の当たりにしましたし、改めてサッカーの素晴らしさを体感しました」

 また、ガーナのトップリーグを見学し、同国選手のスカウトに携わっている。

 「海外選手の獲得を通じ、そこからの波及効果で京都と世界を繋ぎます。現在、おこしやす京都ACには世代別代表経験のあるガーナ人選手2名と、ガーナ人のコーチが所属しています。彼らの存在により、京都とガーナが繋がります。ガーナとのルートを構築することで、将来的にガーナ人のポテンシャルの高い選手は、全ておこしやす京都ACを通じて日本のサッカー界でプレーする、という状態を作り出せます。

 将来、Jリーグに昇格した後は、東南アジアを中心に世界各国の選手獲得を目指します。その国の選手を獲得することで、先の国の住民と繋がり、ひいては京都の会社とその国の会社が繋がり、新しい広がりを生み出すことになるでしょう」

Homeの吉祥院公園グラウンド 写真:おこしやす京都AC提供
Homeの吉祥院公園グラウンド 写真:おこしやす京都AC提供

 おこしやす京都ACは、京都の中小企業の集合体として勝ち上がる事を目標としている。地域の力でクラブの価値を高め、知名度を向上させ、世界中からの来客を募り、そこから更に新たな広がりが出来ていくことを掲げる。今日、120の株主・スポンサーに支えられている。

 「世界都市である京都で魅力的なクラブを創っていくことで、将来的にサッカーを通じて京都と世界を繋いでいく様な役割を果たしたいですね。新しいプロサッカークラブ像を作り、FCバルセロナやマンチェスターユナイテッドなど世界中のクラブから、新しいクラブビジネスモデルとして視察が相次ぐような、ある意味で世界一のクラブを創っていけると考えています」

藤枝MYFC時代の添田 写真:おこしやす京都AC提供
藤枝MYFC時代の添田 写真:おこしやす京都AC提供

 さて、文武両道を成し遂げた添田は、次世代の若者に対してこんな言葉を贈る。

 「勉強でもスポーツでも、幼少期からきちんと試行錯誤することが大切だと思います。指導者が『これをやれ』と指示を出し、それを鵜呑みにしてしまうのは、ある意味で“考える機会”を奪われているということでもある。自分で掴まないといけません。

 勉強を頑張りたいという子は進学校に行く必要がありますし、サッカーで成功したいのであれば、上手い人が沢山いるチームに入らなければなりません。なかなか両立する場所が、日本には無いですよね。二兎を追うとなると価値観上、白い目で見られたりすることもあります。そういうことが、少しでも無くなればいいですね。目指す人はどんどんやってほしいです。ですから、文武両道のアカデミー設立も目標に掲げています」

 京都は、日本で初めて地域住民の方々が主導で小学校を作った『番組制小学校の発祥の地』で、44の大学・短大が集う教育意識の高い地だ。

 「スポーツと勉学を高いレベルで両立する価値観を発信し、日本一の人材輩出都市を目指します」

藤枝MYFC時代の添田 写真:おこしやす京都AC提供
藤枝MYFC時代の添田 写真:おこしやす京都AC提供

 Jリーグが誕生して27年。日本にも文化としてサッカーが根付いた。が、教育面も充実させ、社会のリーダーとなるような人材を育てるというスローガンを打ち立てたケースは、おこしやす京都ACが初めてであろう。

 今後、古都からどんな選手が現れるか。期待大だ。

ノンフィクションライター

1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経て、ノンフィクションライターに。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。2014年、東京大学大学院情報学環教育部修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(全て光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(全て講談社)などがある。

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