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背番号「42」

林壮一ノンフィクションライター
日本のプロ野球でPlayする外国人選手が「42」を好むのはロビンソンの影響だ

11月1日より、映画『42 ~世界を変えた男~』が公開されている。

背番号「42」とは、白人しかプレーが許されなかったメジャーリーグに有色人種として初めて乗り込んだジャッキー・ロビンソンのナンバーであり、現在、全球団で永久欠番とされている。

1947年にブルックリン・ドジャーズの一員となったジャッキー・ロビンソンは、1919年1月31日にジョージア州で生まれた。3人の兄とひとりの姉を持つ末っ子である。父親は家族を捨て、幾人もの女性と遊び歩いた。5人の子供はメイドとして働く母親によって育てられた。3度の食事もままならないような生活を送りながら、三兄のマックとジャッキーはスポーツに自身の可能性を見る。

マックは1936年に開催されたベルリン五輪にアメリカ代表として出場し、200mスプリントで銀メダリストとなっている。とはいえ、人種差別が色濃く残っていた時代のアメリカ合衆国において、黒人が得たメダルに輝きは無かった。帰国したマックになかなか仕事は見つからず、夜間清掃夫として糊口を凌ぐしかなかった。

ジャッキーは名門UCLAに進学し、ベースボールのみならず、フットボール、バスケットボール、陸上競技と4種目で活躍したが、兄と同じような未来しか描けなかった。そんな彼は有色人種のためのプロ・ベースボール、「ニグロリーグ」に活路を見出す。そこで非凡なものを見せ、人種の壁を破るーーーと書いてしまいたいのだが、プレーにおいては並の選手でしかなかった。ニグロリーグとは、当時、メジャーより数段上のレベルにあり、白人ファンたちが「より面白いゲームを見たい」と小さなスタディアムに足を向けたほどであった。

ロビンソンがニグロリーグの代表としてメジャー進出を果たしたのは、「どんな屈辱にも耐えられる男だったから」である。

メジャーリーガーとなったロビンソンは10シーズン、プレーし、通算打率3割1分1厘、首位打者1回、盗塁王2回、ワールドシリーズ6度出場という記録を残した。この数字からも、ニグロリーグのクオリティーの高さが伺える。

ICHIROがシアトル・マリナーズに移籍した年、私も30試合ほどプレス席からメジャーリーグを観戦した。日本最高のリードオフより興味を惹かれたのが、「ニグロリーグ」であった。ロビンソンよりも8歳年長であるジョン・“バック”・オニール氏へのインタビューは、非常に有意義な時間であった。

ロビンソンの存在がなければ、野茂英雄もICHIROも松井秀喜も上原浩治も、メジャーで活躍することはなかった。黄色い肌のジャパニーズもまた、“ニグロリーグ”でプレーしなければならなかったのである。

ノンフィクションライター

1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経て、ノンフィクションライターに。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。2014年、東京大学大学院情報学環教育部修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(全て光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(全て講談社)などがある。

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