民主主義考 白井聡さんが語る安倍政治(下) 目的化する国会軽視

オリンピック記念(?)で改憲したいのだそうです。(写真:時事通信社)

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■改憲以前の問題

憲法問題を巡ってはこれまで「変えるのか」「変えないのか」という議論がなされてきた。だが、日本国民は、憲法によって定められた人権や国民主権を理解できているのか。今日の日本では、権利要求をする人々(往々にして社会的弱者だ)を抑圧することや国民主権を実践しようとする人々を愚弄することが大流行だ。

かつては敗戦によって、近代国家としてのレベルに達していないという現実を謙虚に受け止める気持ちが広く共有されていた。それがやがて金持ちになり、傲慢になって、内実はスカスカにもかかわらず東アジアで最も民主的な成熟国だと錯覚を起こしている。

いま学生たちに伝えていることがある。それは「君たちが頑張れば社会は変わる」というような非現実的かつ無責任なことではない。日本は奈落の底へと落ちていきつつある。そのとき、突き落とそうとしているのは誰なんだ。それに抗っているのは誰なんだ。ボサーッと傍観しているのは誰なんだ。そこに人間と人間社会の真実があるのだから目ん玉をカッ開いてしっかり見ておけ、ということ。

■コンプレックスと特権意識

では、日本を劣化の極致へと突き落とそうとしている為政者たちは一体何に衝き動かされているのか。

5月3日の本欄で内田樹氏が述べていたことがきわめて明晰であった。いわく、戦後日本は米国の属国であるという現実を本当は知っているが、それを直視したくないというねじれた心理が、為政者たちを衝き動かしている。「日本の指導層の抱え込んでいる《主権国家でないことの抑圧された屈辱感》は日本国民に《主権者でないことの屈辱感》を与えるというかたちで病的に解消されることになった。それが特定秘密保護法、集団的自衛権行使の閣議決定、安保法制、共謀罪と続く、一連の《人権剥奪》政策を駆動している心理である」。

つまり、安倍首相に象徴される現在の指導層は、コンプレックスと特権意識の奇妙な化合物なのである。米国への秘められた屈辱感を抱きつつ、対米無限従属体制を無理矢理にでも維持することが彼らの特権的地位を保全する最大の手段である以上、その屈辱感を直接的に払拭する手立てはないので、国民を侮辱することによって代替的な満足を得ようとする。安倍政権の堂々たる答弁破綻等のわが国憲政史上最悪の国会軽視は、それによって何かを達成することよりも、それ自体が目的なのかもしれない。すなわち、「国権の最高機関」において国民の代表者を侮辱することによって、自らの特権的地位を確認しているわけである。

■憲法論議の前提条件

こうしたコンプレックスと特権意識にまみれた欲望の行き着く先が、彼らの言う「憲法改正」である。

憲法記念日に安倍首相は、突如として「9条に第3項を付け加える」と言い出した。これまでの議論の積み重ねを完全に無視したこの唐突な提案は与党内にすら反発を呼び起こしているが、これによってあらためて証明されたのは、「憲法を変えたい」という安倍晋三の執念は、具体的目的が不透明な「とにかく変えたい」という欲望に基づいているという事実だ。改憲の要求の根本目的が、公益の実現ではなく、コンプレックスの解消と特権意識の維持にあると見れば、こうした不合理は理解可能なものとなるし、安倍とその取り巻きが立憲主義等といった近代国家の憲法の基本的原則を無視しているのも当然である。

そんな状況下で、憲法についての議論はいかにして可能なのであろうか。これまで「改憲派」と「護憲派」が対立し、改憲派は9条に関して「護憲」はもはや欺瞞ではないかと批判してきた。これに対する護憲派の反論は、自衛隊廃止論者を例外として、歯切れの悪いものとならざるを得なかった。事実上の軍事力である自衛隊の存在は認めるが、他方で「憲法に指一本触れてはならない」と主張する論理は、わかりやすいものではない。

しかし、自民党が2012年にまとめた憲法改正草案によって、古典的な護憲派の正しさが一面では立証された。護憲派は、「一部でも変えようなどと言ったら、とんでもない改憲案が出てくる。だからだめだ」と言い続けてきた訳だが、案の定、基本的人権をないがしろにし、独裁的権力への欲望を露わにしている改憲案が出てきてしまった。

こんな案を考え出すような勢力(それは不健全な対米従属体制を維持してきた勢力でもある)が一掃された後でなければ、改憲論議など始められようがない。加えて、改憲を云々する以前に、基本的人権や国民主権の何たるかを理解していないという無知蒙昧な状態を脱さなければならない。

■9条の未来

以上のような現状を乗り越えた後に始まる、本当の意味での憲法論議を見通しておく必要があるだろう。自衛隊の存在と憲法の整合性という問題に決着がつけられないまま、自衛隊の活動範囲がなし崩し的に広がるということが繰り返されてきた。その度に「違憲」という批判が飛び交ってきたが、その結果、いつの間にか「違憲」という言葉は、圧倒的に軽くなってしまった。「違憲かもしれないが、それが何か?」という雰囲気になってしまっている。これは法治国家をその土台から腐食するものである。

問題の核心は9条2項(交戦権の放棄)にある。自衛隊は交戦権を持たないまま、いま紛争地域での国連平和維持活動(PKO)に現実に踏み込んでいる。稲田朋美防衛相が南スーダン情勢について、「法的な意味における戦闘は行われていない」という答弁を国会で行なった。これは現実を無視した無茶な答弁なのだが、しかし9条2項とPKO活動の関係を整合させようとするとこうなってしまう。自衛隊は、「定義上」紛争地域にはいないことになっているからだ。

この矛盾の全ては現場の自衛官に押し付けられている。直面する危険にどう対処するのか、一貫した方針を与えられないのである。この状態を放置するわけにはいかない。9条2項を守り抜くのであれば、絶対に危険のないところにしか派遣できない。もちろん、そういう選択肢もあるだろう。

どういう選択をするにせよ、私たちがすべきは9条の価値を発展させることにほかならない。それは具体的にはどういうことなのか。

アフガニスタンやパキスタンで医療活動や井戸掘り、灌漑(かんがい)事業を行っている国際非政府組織(NGO)「ペシャワール会」の中村哲医師の活動はよく知られている。あるいは、近年話題になった人物に、すし店「すしざんまい」を経営する株式会社喜代村の木村清社長がいる。木村氏は、海賊の跋扈が問題化していたアフリカのソマリア沖がマグロの良好な漁場であることに着目した。海賊たちと交渉して、彼らに漁業を指導し船も用意することで転業を促した。ここ数年ソマリア沖の海賊行為は発生件数ゼロとなったが、木村氏は大きな貢献を果たしているわけである。アパホテルやDHCといった目覚ましい成功を収めた新興資本の経営者たちが、軒並み幼稚な右翼的言動によって目立っているのとは対照的である。

日本の9条の精神とはきっとこうした実践なのではないかと思う。劣化の泥沼から這い上がり、「私たちは9条の精神を内面化した」と言えるためには、これらの実践に学ぶべきであるに違いない。

※本稿は5月19日「神奈川新聞」朝刊に掲載されました。