東芝の破綻、責任があるのは経営者だけか?

懐かしい東芝の旧ロゴ。

東芝の破綻はもはや避けられないと騒がれているが、危機の核心は単純である。ウェスチングハウス社を買収して(2006年)、原発を基幹事業としたことの致命的な失敗が、いよいよ誤魔化せなくなったにすぎない。

この買収はそもそも高すぎる買い物であったところに、福島第一原発事故が発生する。これによって、世界各国で安全基準が見直され建設コストは急騰、いよいよ原発はペイする事業ではなくなった。この時点で、東芝は脱原発路線に転ずるほかなかったのである。

実際には、東芝経営陣はこの危機を粉飾決算によって乗り越えようとし、それが発覚すると、見せかけの利益を得るために稼ぎ頭の優良部門を切り売りしながら、原子力事業に望みを掛け続けた。債務超過に陥ったことで原発の新規建設路線こそついに諦めたが、1月27日の綱川智社長の会見で語られた言葉は以下である。

「さらなる成長、ひいては東芝グループの企業価値の最大化を実現するため、3月31日をめどにメモリー事業の分社化を実現することを、本日の取締役会で決定いたしました」。

喩えるなら、瀕死の患者が、一か八かの四肢切断手術を検討している時に元気に走り回る夢想を語っているという有様だ。もっとも、これまでも現実を直視できなかった経営陣が今になって正気に返るはずだ、と考える方が間違いかもしれないが。

要するに、あの事故を「なかったこと」にしたのが、根本問題である。都合の悪い事実を見なかったことにする病的心理を心理学では「否認」という。無論、否認に貫かれているのは個人の心理だけでなく、種々の組織も同じであり、その筆頭が自民党や経済産業省といった政府中枢であることは論を俟たない。東芝が原子力事業にしがみついたのも、政府の原子力推進の継続を恃んでのことだったに違いない。

しかし、この路線は、経済的必然性によって今や完全に否定された。この期に及んでそれを理解しようとしない日本の指導層は明治初頭から存在する老舗企業を潰しつつあるわけだが、このことは明治維新以来の近代日本の全体制が劣化して崩壊しつつある現代にふさわしくもある。

だが、否認の泥沼に沈み込み、劣化しているのは、指導層だけなのか? TVニュースでは、東芝の半導体工場に勤務する社員がインタビューを受けて、「大赤字を出しているのは原発事業で、われわれはいい迷惑」だと答えていた。しかし、原子力部門以外の東芝の労働者は、純然たる犠牲者などでは断じてない。なぜなら、東芝労組も加盟する電機連合は、原発の推進をなお加担し、連合・民進党が脱原発路線に突き進まないよう強制している圧力団体にほかならないからである。

東芝問題と同時に、原発事故避難者の子供たちへの相次ぐいじめ事件が話題になっている。これらが発覚した場所に東京都千代田区や横浜市といった東京電力管内、すなわち福島の原発で生産されていた電力の消費地が含まれることに、強い注意が向けられなければならない。子供たちの言動はその場所の大人たちの価値観の鏡であるのならば、認識の合理性の上でも倫理的にも破綻しているのは、東芝の経営陣だけでないことは明らかだ。われわれがわれわれ自身を否認の狂気から救い出さないのならば、われわれを待ち受けるのはソドムとゴモラの運命であるほかない。

※本稿は「京都新聞」夕刊、「現代のことば」欄に掲載されたものです。