「永田町よりもずっと危険な南スーダンに派遣された自衛隊員に起立拍手しよう!」の真意

自衛隊が派遣された南スーダンは、依然として緊迫した状況にあります。

「名を正す」とは『論語』のなかでも最も有名な話であろう。物事をその正確な名前で呼ばないことこそが世が乱れる根本である、と孔子は喝破したのであった。最近の国会でのやり取りを聞いていてこの言葉を思い出した。

自衛隊がPKO(国連平和維持活動)に派遣されている南スーダンでは内戦が再燃し、紛争継続地には派遣しないとする「PKO参加5原則」が完全に崩れているとの指摘が、かねてなされていた。この点を国会で突かれた安倍晋三首相は、「衝突はあったが戦闘行為ではない」という趣旨の答弁をした(10月11日)が、端的に言って意味不明である。

意味不明ではあるが、これは実に見慣れたまことに「日本的」な光景でもある。大東亜戦争当時、大本営は「全滅」を「玉砕」と呼び換え、「撤退」を「転進」と呼び換えた。この呼び換え癖は敗戦を経ても治らず、「敗戦」そのものが「終戦」と呼び換えられた。だから今も、底が抜けて放射能が溶け込んだ水がダダ漏れになっている原子炉を指して、「冷温停止状態」などと言っているわけである。

呼び換え癖は、翌12日には極度のシニシズムにまで発展した。南スーダンの情勢への認識を質されていわく、「永田町と比べればはるかに危険」と安倍首相は答弁した。要するに、ジョークで切り返したのである。命の危険を日々感じながら任務にあたっている人々が現にいるなかでこうした冗談を口にする人間と同じ人間が、他方で、自衛隊員や海上保安官の任務遂行の努力を讃えるために国会演説を中断して起立と拍手を求めてもいる(9月26日)。これは矛盾なのか?

いや、そうではあるまい。首相の面白くもない冗談によってわかったのは、この起立・拍手事件の問題性の核心は、そこに現れた光景が何やら全体主義国家を連想させるものであったとか、一部の公務員を特別視させるものであったことではない、ということだ。ここに露呈したのは、途方もなく驕慢な特権意識だ。

なぜなら、あのような冗談は、危険な現場に身を置く人々に対する徹底的な軽侮がなければ到底不可能である。してみれば、自衛隊員らに対するあの表敬の所作を支える深層の意識は、「あの身分の低い連中のために、総理大臣がわざわざ演説を中断し、白紙領収書を切れるほどの特権階級たる与党議員がわざわざ席から立って拍手したのだ、ありがたく思え」というもの以外ではあり得ない。

かくして、冗談と表敬の間には、実は何の矛盾もない。この先起こりうること(南スーダンでの自衛隊員の人命損失)を見越すならば、あの表敬の所作は、「このわれわれから感謝されるという身に余る光栄を得た諸君には、もう思い残すことはあるまい」というメッセージを告げてもいる。

諸々の状況こそ異なるが、かつて5.15事件や2.26事件が発生せざるを得なかった道理を実感させられる。テロやクーデターはまさに大乱の典型であるが、それは、物事の「正しい名」を自分たちで好き勝手に決められると勘違いした人々が自ら招き寄せるものにほかならないのである。

※本稿は「京都新聞」10月24日夕刊に寄稿したものです。