集団的自衛権行使容認について思うこと……幼い大人たちの楽しい戦争ごっこ

首相官邸前抗議行動では安倍退陣を求める声も大きかった

安倍晋三内閣による集団的自衛権行使容認の閣議決定が、7月1日になされました。この記事は、5月の総理記者会見後に共同通信社のために書いたものです。本決定の要点は、日米安保を完全な攻守同盟とすることです。

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「戦後憲法への死刑宣告」と呼ぶには、安倍晋三首相の言葉遣いは穏やかな印象を与えるものだった。歴史的転換の瞬間を見る者に気付かせまいとした首相および周辺関係者の手腕は、相当に巧妙なものであったと私は思う。

まず、集団的自衛権の容認が既定事実ではなかったかのごとき印象を演出した。「与党協議の結果に基づき、憲法解釈の変更が必要とされれば‥閣議決定してまいります」。あたかもまだ仮定の話であるかのような口ぶりだが、お手盛りの「識者」懇談会をつくり、内閣法制局の長に同調者を強引に指名しておきながら、「まだ仮定の話」とはしらじらしい。

そして、集団的自衛権の容認は「限定的」であることが強調され、武力行使を目的とした自衛隊の海外派遣は否定された。つまり、解釈の変更は最小限であるとのイメージづくりが周到になされていた。

しかし、石破茂自民党幹事長が、自衛隊の国外展開によって死者が出ることについて「政治が覚悟しなきゃいけない」と発言したのは4月のことだ。いきなり「これから自衛隊はアメリカの戦争にどんどんついていきます」と宣言すれば受け入れられるわけがない以上、初手としてはまずまずのところを狙ったといえる。

かつ、平和憲法への積極的評価が目につく。「日本国憲法が掲げる平和主義は、これからも守り抜いていきます」。ところが、一昨年12月に首相はネット番組で「みっともない憲法ですよ、はっきり言って」と語っており、二つの発言はどう両立するのか理解困難だ。

以上から、この会見に誠実な言葉は何一つなかったとみて差し支えなかろう。このシニシズム(冷笑主義)は、実質的改憲を閣議決定によって行うという独裁以外の何物でもない事態に即応している。要するに国民は、深く深く愚弄されているわけである。

徹底的に上っ面だけの言葉が、あたかも日本国民の幸福と安全を心からこいねがう者の言葉であるかのごとくに発せられる。この程度に水で薄めておけば本質は理解できまい、と。あらためて考えさせられるのは、なぜこの人たちの言葉にはかくも誠を感じられないのか、ということだ。それは右に見た二枚舌だけが原因ではない。むしろ、政治家は時に巧妙な二枚舌の行使を要求されさえする。

問題は、安倍政権において際立つ安全保障積極派の面々から漂う幼児性の気配だ。国家・国民の安全を保つ手段は軍事だけではないという当然の事実などまるで存在しないかのように振る舞う彼らは、深刻ぶってみても、戦争ごっこを楽しんでいるようにしか見えないのである。

男の子は一般に戦争ごっこが好きだ。無論、大抵の男は大人になる過程で戦争ごっこと実際の戦争との違いを理解する。この国の危うさは、これを理解できない人間に限って、現実主義だの何だのと大人ぶったことを言って粋がる傾向にあるところにある。

それは、マッカーサー元帥が「発展段階において日本人は12歳だ」という趣旨の評価をした状態を、われわれが依然抜け出していないことの証左でもある。私には、これを克服することこそ本来の「戦後レジームからの脱却」を意味するように思われる。

※記事タイトルにおける用語法に間違いがあるとの指摘があり、調べてみたところ、私の理解が誤っておりましたので、訂正させていただきました。