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映画『私だけ聴こえる』が投げかけた「自分は何者なのか」という問い

篠田博之月刊『創』編集長
『私だけ聴こえる』C:TEMJIN・RITORNELLO FILMS

「コーダ」といっても日本ではまだあまりなじみがない言葉だろう。耳の聞こえない親を持つ、聞こえる子どもという存在だ。最近話題になったのは米アカデミー賞作品賞を受賞した映画『コーダ あいのうた』で、これはまさにそのコーダを主人公にしたものだった。

 そもそも聴覚障害者という呼称そのものがネガティブなイメージに基づいているのだが、実態はそう単純なものでない。『コーダ あいのうた』に登場する家族は、実に豊かなコミュニケーションや文化を持っていた。コーダの中には、家族の中で自分だけ耳が聞こえることに悩み、自分もろうであれば良かったと考える人もいるという。

 私は耳が不自由でありながらプロの女性ボクサーになった小笠原恵子さんともう10年以上のつきあいで、彼女の半生を描いた手記『負けないで!』(創出版刊)を出版した経緯もあって、耳の聞こえない人たちのことについては関心を持っており、映画『コーダ あいのうた』も観に行ったが、そこで描かれた世界にはある種のカルチャーショックを受けた。

 ちなみにその『負けないで!』を原案とした劇映画『ケイコ 目を澄ませて』が2022年末に公開される。耳が聞こえないことで学校でいじめにあい、不登校になったりしながら、その悔しさをバネにプロのボクサーをめざし、実現したという彼女の生き方については、ぜひその本や映画をご覧いただきたいと思う。

「コーダ」を追ったドキュメンタリー映画

 さて、その『コーダ あいのうた』を観た時点では、日本でもコーダの人たちのある種のコミュニティーができているという現実を知らなかったし、それを何年も追ってドキュメンタリー映画を制作した監督の存在も知らなかった。

 そしてこの5月、そのコーダを追ったドキュメンタリー映画が公開され話題になっている。『私だけ聴こえる』というそのタイトルもコーダをわかりやすく表現したものだ。監督したのは松井至さんで、このテーマを7年も前から追っていた。

 LGBTなど多様性を認めていこうという時代の風潮の中で、自分のアイデンティティとは何なのかと考える機会が増えているように思うが、この映画も、ろうとその家族というテーマを通して、アイデンティティについて考えてみようという映画なのだろう。

 松井監督に制作の経緯や映画の反響などを聞いた。この話も実に興味深い。コーダの存在について考えることは同時に、自分のアイデンティティについて考え自覚することだし、上映後のトークで実に有意義な話が繰り広げられているという。

 そうしたことも含め、松井監督のインタビューを紹介しよう。映画は現在、東京でも幾つかの映画館で上映されており、各地に広がっている。興味ある方は是非映画館に足を運んでみることをお薦めしたい。

 公式ホームページは下記だ。

https://www.codamovie.jp/

取り組みのきっかけは東日本大震災の取材

――もともと松井さんがコーダについて取り組むようになったきっかけは、東日本大震災だったのですね。

松井 2015年に東日本大震災の復興についてのドキュメンタリー番組枠(NHKワールド『Tomorrow』)で企画を頼まれたのがきっかけです。震災から4年を経て、復興の企画も出尽くしている感じがありました。そういう中で、ある日ふとイメージが湧いたのです。地震が起きた後に少し間があって津波がきたわけですが、地震から津波までの間の街の画が浮かんだ。音が聴こえる人たちはみんな街から出てしまい、音が聴こえない人たちがなにも知らずにそこに残されている、ほとんど空っぽの街のイメージ。そこに後ろから津波が無音で迫ってくる映像が浮かんだのです。

 やってきたこのイメージを育てたいなと思って調べてみると、数十人のろう者が沿岸部で亡くなっていました。それで宮城県の「みみサポ」という聴覚障害者支援団体に問い合わせて、いろいろなろう者の方に繋いでもらって、取材をしていきました。僕もその時点では「コーダ」という言葉は知りませんでした。

――その時に出会った人の影響が大きかったわけですね。

松井 生還したろうの人たちと会っていくわけですけれど、「どうやって津波の存在を知ったんですか?」と聞くと、「聴こえる息子や娘が駆けつけてくれた」という話だったんです。聴こえる息子や娘が、そんなふうにいつでも駆けつけられる距離に住んでいるんだということが印象的でした。親がろうだと近くに居続けるという選択になるんだなと。息子や娘と言っても40代や50代だったりして、自分の子どもがいる。だから真っ先に幼稚園とか小学校に行こうと頭では思っているんですけれども、体が勝手に親の方に行き駆けつけていたという話でした。そういう生き死に関わる親子の関係を目の当たりにしたわけです。

 さらにその取材の時、リポーターとしてアメリカ人のアシュリーさんがいたんですけれど、彼女は日本に長期滞在していて、日本手話ができるし、日本のろう者と親密にコミュニケーションができた。

 そうやって取材を続けていたら、アシュリーさんがある時、「私たちがこれまで出会ってきたのはコーダと言うんだよ」という話をしてくれました。さらに「実は自分もコーダなのです」と打ち明けたのです。

 コーダという言葉が80年代のアメリカで生まれて、いまもコーダ自身が〈自分たちは何者なのか〉を定義しながら、世界中にそれを周知していこうとしているんだ、と。当事者がコーダという概念を知らないと、「世界で自分だけがこんな苦労をしている」と思ったまま大人になっていく。そういう状態はコーダを知っているアシュリーさんからすると、悲劇的であるようです。おそらく、彼女は僕と一緒に東北を回って、40代50代のコーダに会った時に心を痛めたというか、過去の自分を思い出したりしながら、ここにはコーダという概念がないんだなと感じていたのではないかと思います。

――その頃からコーダのコミュニティーは日本に存在していたのですか?

松井 1990年代からJ-CODAの会が活動しています。ろうの人が子どもを産めばコーダが生まれてくるので、世界中に点在しているわけです。

 日本でコーダという言葉が広く知られはじめたのは、2019年6月に五十嵐大さんという自身もコーダのライターが、自分の経験をもとに「耳の聴こえない母が大嫌いだった。それでも彼女は『ありがとう』と言った」という記事をハフポストから出してかなり拡散した印象があります。

 コーダ研究については澁谷智子先生という先駆者がいらっしゃって、アメリカのコーダについての本の翻訳や、日本のコーダを描いた『コーダの世界』という本を出していまして、澁谷さんが作った知的地盤を若い人たちが吸収して、自分はコーダだという自覚を生み、いま様々な表現になって世に出てきている段階ではないかと思います。

日本でも急速にコーダという言葉が拡大

――松井さんもドキュメンタリー映画を作ろうと考えたわけですね。

松井 東北での取材を機にアシュリーさんからコーダとは何かを聞いて、彼女に「コーダのドキュメンタリーを撮ってください」と言われたのです。アメリカはコーダという概念の発祥の地であり仕組みも発展してるし、一般にもコーダという言葉が広がりはじめているので、アメリカを舞台にしようと。アシュリーさんはコーダの中でちょっとした有名人だったので、僕がアンケートを書き、彼女にSNSで拡散してもらって、ドキュメンタリーに興味のある人を募っていきました。その中に映画に登場するナイラさんがいて、スカイプで繋がって出会ったという感じです。

――その当時からアメリカではキャンプをやるとか、コーダの人たちの取り組みがあったのですね。

松井 そうです。コーダキャンプは80年代からあったのではないでしょうか。あとコーダ会議という、キャンプ以後の成人したコーダたちが集まる国際的な会議もあります。

『私だけ聴こえる』より
『私だけ聴こえる』より

――今回の映画の前に2019年に松井さんが作ったコーダについてのドキュメンタリー番組がBSで放送されましたね。

松井 その2019年にBSで放送したものを3年近くかけて編集したのが今回の映画です。音楽もテニスコーツというユニットに依頼し、サラウンドのミックスを髙梨智史さんと作りました。ポストプロダクションを全部やり直した感じです。

 BSの番組の反響は非常に良く、澁谷智子先生やJ-CODAの代表の中津真美さんや五十嵐大さんなどが観てくださった。それをきっかけに日本のコーダたちと知り合っていきました。

 みなさん最初は警戒していたんです。耳の聴こえる聴者がろう文化やコーダの世界をどんなふうに撮れるというのだろうと。また感動ポルノみたいに可哀想な存在として描かれるのではないかと危惧していた。それでなにも期待せずに、むしろ不安な感じで観たようなんですけれども、「少しも嫌なところがなかった、あなたがようやくコーダの本当のことを描いてくれた」と認めてもらった感じでした。

 僕が調べ始めた2016年には、「私はコーダだ」と言う人はほとんどいなかった印象でしたが、今はSNSのアカウントに〈コーダ〉と書く人がたくさんいます。ここ2~3年でそうなったんじゃないかな。

 〈コーダ〉という言葉を知ったばかりの当事者に話を聞いてみると、「コーダという言葉を聞いた時に霧が晴れるようだった」「救われた気がした」「同じ境遇の仲間がいるんだって思えた」と言う人がたくさんいました。初めて自分に名前がついたという感じがあるようです。

上映後、涙をためながら自分を語る人たち

――『私だけ聴こえる』は公開から1カ月経ちましたが、どういう反響ですか?

松井 渋谷のシアターイメージフォーラムでは全回バリアフリー字幕をつけて、ろうや難聴の人がいつ来ても観られるようにしているのですが、64席満員になる回があって、ろうの人が半数くらい来ていたこともありました。ろう親としてコーダを育てている人たちが自分の息子や娘の世界を知りたいと来てくれることもありました。少なくとも毎回3~4人は来ていますね。手話通訳の方も毎回来てくださいます。「実は私はコーダなんです」と上映後に話しかけてくれる人も毎回1?2人いました。

 上映後のトークにも全て手話通訳をつけたので、ろうの人たちが手話で、コーダの子育てについて話してくれたりします。そうすると普段は聴者ばかりが集まる映画館の空間の見えない壁が消えていって、すごくいい空気で上映を終えることができるんですね。僕ら聴者はマジョリティーですから、普段、視界の中にろう者が入っていないわけです。だけどこの映画を観た後にろうの方が前に出て手話を始めると「あ、隣にいたんだ」とか「同じ暗闇の中にこんなにろうの人がいたんだ」と肌で感じられる。社会の縮図というか、本来の姿ですね。ろう者を見えなくしていた自分のフィルターに気付き、自分が見ようとしなかったことを好奇心を持って自覚していくことになる。

 あと反応の大きいのはミックスルーツの人たちです。例えばアメリカ人と日本人の間の子で、2つの言語を行き来しながら、「どちらの言語も他人のようにそっぽをむいていて、私から言葉が無くなった朝があった」という話を聞きました。映画が始まってから終わるまで「自分のことだ」と感じて、涙が止まらなかったそうです。発達障害の人も敏感に反応してくれます。私自身も発達障害のコミュニティーを取材した時にはじめて、同じ種族の人といる深い安堵感を経験しました。つまりこの社会の「普通」という領域から離れた人たち、社会のどこにも馴染めなかった人たちはどうやってアイデンティティを形成していけばいいのか、そういうことをコーダの存在が映し出しています。

 上映後、こうした社会に居場所がない人たちが幼年期からの話を涙を溜めながら僕に話しにきてくれます。毎日2?3人いました。まるではじめて鏡に映った自分を見たという感じです。コーダという存在が鏡になって、人々が自己像を捉え直す場が生まれていると感じました。

バリアフリー字幕版で、音声ガイドもついた状態で上映

――これから各地で上映が広がっていくのですか。

松井 「バリアフリー字幕版で、しかも音声ガイドもついた状態で上映したい」という映画館がたくさん出てきました。どの映画館も、本当はやりたかったんですね。画期的なことです。全部の上映にバリアフリー字幕がついているということはこれまであまりなかったと思います。東京国際ろう映画祭が好きで、観客として行っていた時にろうの方たちに混じって映画を見て、別の世界に潜り込んだようで感動しました。見たかった光景でしたし、聴者の側から確実に社会を変えることができるという証明になります。

 東京のミニシアターでやってどのくらいお客さんが集まったかによって映画の評価が決まり、その成績を全国の映画館が見て自分のところにも呼ぶか決めるわけです。イメージフォーラムのお客の入りも、コロナになってからの映画ではかなりいい方だと言われました。最初の1~2週目の昼の回は満員続きで、特に昼の回がずっと大入りという感じでした。ろう文化関係の人がおそらく4割くらいだと思いますが、来てくれたおかげです。その光景には映画館の人も驚いていましたね。

――上映後のトークは、コーダの人たちにとっても誰かときちんと話をする場にもなっているわけですね。

松井 渋谷のイメージフォーラムでは半月間、ほぼ連日、昼の回にトークに行き、コーダと出会いました。

 一方で、コーダだから来られないという方もいます。映画が描いた世界は10代のいわゆる人格形成期の子どもたちですから、コーダにとって辛い時期なのです。今、30代40代のコーダが観にいくと過去の自分の辛い経験が全部引き出されてしまって涙が出てしまって到底観られないということを知りました。人間は誰でも自分の過去にある程度蓋をしながら生きていますから、蓋を一気に開けてしまうことになる。それを怖がって来られない方もおられますね。

――アカデミー賞の『コーダ』も、聴者にも問いかける映画ですよね。

松井 問いかけるという点では、聴者に知ってほしいというのがあります。聴者は差別をしている側なので、マイノリティーの存在にそもそも気づかないことが特徴です。そこについては僕も映画を作る時に意識しました。例えば手話の音や、ろうの方の声を意図的に大きくしています。わざわざピンマイクで録ったりして、体を叩く音や衣擦れの音を拾いました。なぜやっているかというと、聴者の観客がろう者の前に立つ経験をしてほしいのです。

 例えば、若い聴者のカップルがレストランに行ったときにある家族がろう者で、ろう者特有の「アー」「ウー」という声(デフボイス)が聞こえてきたら無意識に避けるかもしれません。ろう家族の隣の席が空いていても選ばないかもしれません。それをコーダの子が敏感に見ていて、「自分の家族はこの聴者の社会から嫌われている」と記憶していくわけです。そういう無自覚の差別が積もり積もった結果がコーダの絶望や孤独に繋がっていると思います。

 こうした心理はどこから来るかというと、まず社会のインフラが圧倒的に聴者中心にできていることも一因かと思います。ですので、逆にろうの世界に入った時にどうなるか、その体験への通路を作ることはドキュメンタリーの仕事のひとつと思っています。聴者の観客にコーダやろうの世界を体験させる、そして映画を「目で読む」ことをしてもらう。言葉で全て説明されるのでなくて一生懸命目で追いかけないと今回の映画はわからないように作っています。目で追いかけて主人公たちの表情を読んで読んで、ずっと集中してないと観られない映画になっている。そういう意味では観客にとって忙しい映画だと思います。 

 多くのドキュメンタリーのように言葉が便利だから、強いから言葉で編集してしまうというのは、ろう文化に対しての音声中心の価値観を押し付けることになります。私たちが住んでいる社会は聴者が圧倒的に多いですから、音声で喋るということが人間の証のようにごく自然に思われています。声で喋れない人間は劣った人間だという認識が薄く広く意識下にある。僕らは今も常に音声中心の社会にいますから、その差別構造は本当に気づきにくい。それに気づくようになるために、編集に3年間かかりました。

 ボイスオーバーをできるだけ削って、シンプルに核心だけにして、あとはろう者のように目で相手の存在を読んで、表情の発する言葉を感じて、そうして成り立っていくドキュメンタリーの作り方にしていった。そうしないとコーダやろうの人は認めないと思います。ずっと音声だけで語られていても、「なんで聴者が僕らのところに取材に来て、全部音声で語っているんですか?」ということになりますよね。

 米映画『コーダ あいのうた』も、コーダという言葉を一般の人たちに認知させるという点では大きな意味を持っていたが、松井監督の今回の映画は、また別の意味で大きな意義のある作品だ。上映が今後どんなふうに各地に広がっていくのか注目していきたい。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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