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かつての公開中止事件を超えた映画『私のはなし部落のはなし』はタブーに挑んだ力作だ

篠田博之月刊『創』編集長
満若勇咲監督(左)と大島新プロデューサー(筆者撮影)

映画が封印となった過去の自分にけじめを

 5月21日から東京のユーロスペースや大阪の第七藝術劇場などで公開予定のドキュメンタリー映画『私のはなし部落のはなし』は、部落差別という、タブーとされてきたテーマに正面から取り組んだ力作だ。満若勇咲監督は1986年生まれの若手でこの映画が本格的なデビュー作となるのだが、かつて『にくのひと』という同じく部落差別のテーマに挑んだ映画で公開直前に上映中止という事態を体験している。

 満若監督は今はテレビの撮影の仕事をしているのだが、2007年、大阪芸術大学3年生の時に、教授を務める映画監督の原一男さんが指導する記録映像コースで制作したのが『にくのひと』だった。その作品は屠場、牛などの解体を行う食肉処理場を撮ったものだが、2010年に上映する劇場も決まり、公開直前という時期に抗議を受けて苦渋の公開中止となった。

 作品は田原総一朗ノンフィクション賞の佳作を受賞するなど評価を受けていたのだが、部落解放同盟兵庫県連合会などから「差別と偏見を助長させる」と上映中止を求められた。事態が紛糾したため主人公の青年が「もう関わりたくない」と言うに至り、結局、作品は封印されたのだった。

 普通ならそうした経験をするとそれがトラウマになってそのテーマを避けてしまうことが多い。実際1980年代をピークに、部落差別の問題はある種のタブーになった。差別表現だとして部落解放同盟の糾弾を受けたテレビ局や新聞社が、次第にその問題には触れないように自主規制してしまうという対応をとっていった結果だ。

 しかし、満若さんは過去の自分にけじめをつけるという意味合いもあって、再びそのテーマに取り組み、今回の映画を完成させたのだった。映画の中ではその経緯も語られるのだが、この映画は、部落差別の歴史と現状に丹念にアプローチすると同時に、制作者自身の過去をも克服しようとするプロセスともなっている。

 今回、その満若監督にインタビューを行い、制作をめぐる経緯についても聞いた。プロデューサーはドキュメンタリー映画監督として知られる大島新さんが務めているのだが、大島さんにも同席していただいた。

『復刻版 全国部落調査』めぐる裁判がきっかけに

――『にくのひと』の一件はよく覚えていますが、そこから約10年を経て完成したこの映画を撮ろうと思ったきっかけは何だったのですか?

満若 本格的に作品として作り上げていく作業は大島さんに会ってプロデュースをお願いした3年前くらいからですが、撮影を始めたのは2016年頃でした。それまでもやらなくちゃという思いはあったのですが、その頃、『復刻版 全国部落調査』をめぐる裁判が起こされたので、それを取材してみることにしたのです。映画にも出てくる示現舎という出版社の宮部龍彦さんが被差別部落の地名一覧を記載した『復刻版 全国部落調査』を出版するとしたのに対して、部落解放同盟などが出版差し止めや損害賠償を求めて提訴したのです。それを取材し始めたのがきっかけでした。

――そこから約6年かかって映画が完成したわけですね。この4月には試写会を行っていますが、部落解放同盟の人たちはもう試写を観ているんですか?

満若 映画に出ていただいた方たちや取材に協力してくれた方には試写会で観ていただいています。まだまとまった感想をお聞きしてないですが、「良かった」と言ってくれていた方もいました。ただ全体としてどういう受け止め方をされるのかはこれからだし、僕もそれには関心を持っています。

――『にくのひと』の時も、映画に出ていた解放同盟関係者は協力をしてくれていたけれど、それが公開という段になっていろいろな意見が出て結局中止になってしまったわけでしょう。今回、試写を観て幾つか気になったのは、例えば地名をクローズアップしてますよね。かつては解放同盟などは地名をあげただけで差別だという抗議をしていたわけで、実際、『にくのひと』の場合も地名を明示していたことが抗議を受けた理由のひとつだったわけですよね。

『私のはなし部落のはなし』C:『私のはなし部落のはなし』製作委員会
『私のはなし部落のはなし』C:『私のはなし部落のはなし』製作委員会

満若 地名に関しては、地域の了解を得て出しています。北芝については地域の人たち自身が既にオープンにして活動していますし、出せるなら出した方がいい。もちろんそれを取材者が暴き立てるのはよくないと思います。

――映画を観て改めてわかったけれど、そこで活動している人たちにとっては地名はある種のアイデンティティにつながっているわけですね。

 それからこの映画で描き方が難しかったと思うし、議論にもなりそうなところと言えば、裁判の被告でもあり、解放同盟に差別者として批判されている宮部さんの描き方ですよね。制作者としては、どう考えて彼にアプローチしたのですか?

満若 宮部さんが解放同盟に糾弾されている内容は、『にくのひと』について僕自身が解放同盟に言われたことと重なる部分がありました。僕自身も一歩間違えれば映画を潰されたと、彼のように解放同盟に対して怒りを持つようなことにもなりえたかもしれないと思い興味を持ちました。

――宮部さんも試写は観ているわけですね。

満若 東京での試写会には初日に観に来ていました。感想を訊いたら開口一番、「マニアックな映画ですね」と言ってました。

 宮部さんは、撮っている時は、被差別部落をうろうろしているヘンな人という取り上げられ方をされるのではないかと気にしていました。ただそんなふうに最初からレッテルを貼って描いていくというのはドキュメンタリー映画の作り手としてはやってはいけないと僕は思っています。撮影を通して彼がどのように見えてくるかが大事なんです。

――取材も裁判の当事者双方に行ったわけですね。あなたの取材を受け入れるにあたっては、解放同盟の関係者の場合も、『にくのひと』の一件はわかったうえでということですね。

満若 もちろんそうです。そのうえで裁判については弁護団会議も取材させていただいています。

『にくのひと』の封印をどう受け止めたのか

――今から振り返って『にくのひと』については自分としてどんなふうに受け止めているのですか?

満若 部落差別の問題について認識が足りなかったと思っています。またドキュメンタリーの作り手としては、被写体との関係を強固に築けていなかったという反省があります。

 部落差別の問題については、皆さん漠然とした不安を抱えていると思うのですが、その不安がどこまで重大なものなのかという想像力も欠如していたと思います。それに解放同盟の人たちが『にくのひと』を観てなぜあんなに怒ったのか、そこをきちんと知ろうと思うことができなかったところも、ドキュメンタリーの作り手として僕が未熟だったなと思っています。

――被写体との関係を作るという点では、映画に登場している人たちは本当に胸襟を開いて自分の思いを語っているし、魅力的な人たちばかりですよね。そういう人たちとの関係をまず強固に作っていくことに意を尽くしたわけですね。

満若 そうですね。映画に出ていただいた人たちはいろいろなアプローチで接点を作って関係を作っていったのですが、当然ながら映画を撮りたいと申し出て断られたケースも少なくありません。

 出ていただいた方には、ドキュメンタリー映画ですから当然ですが、顔と名前を出して語っていただくという前提ですし、先ほど話に出た地名についても話し合いました。映画の中で三重県の被差別部落だけは地名を出すかどうか撮影したあとで考えようとなっていたのですが、最終的に了解を得られて出しています。

――被差別部落の実情についても丁寧にたどっていますが、その結果として3時間半という長い上映時間になっています。劇場公開の時も途中に休憩を入れるのですね。

満若 はい。2時間半にするかどうするかという話はあったのですが、短く切り詰めてしまうとドキュメンタリー映画としての強度が落ちるなと思いました。

――差別について考えるには良い素材なので、集会などで自主上映ということもあり得ると思いますが、今のところはまず劇場公開をきちんとやってからという考えなのですね。

満若 自主上映の希望も来ていますが、劇場公開をまずやってからと、待っていただいています。

――今回の映画を観て、公開中止になった『にくのひと』も観たいと思う人もいるかもしれないですが、あの映画はもう観ることはできないわけですね。

満若 あの作品を封印したことは納得していますから。僕の中では心の整理がついています。今回の映画はその結果として作ったものでもあるので、今回の映画を観ていただきたいということですね。

自分自身の扱いをどうするか考えた

――でも今回の映画の中で、『にくのひと』の公開中止についてどう描くかについてはいろいろ考えたのでしょう。

満若 自分自身の扱いをどうするかというのは映画の根幹に関わることなので考えました。当初出すつもりはなかったのですが、大島さんからは出した方がいいというアドバイスをいただきました。部落差別の問題は誰にとっても他人事でないし、作り手だってそれは同じだという、そのことを言うために自分自身を描きました。

大島 そのことも含め、私は、監督がどれだけ考え尽くしてこの映画を作ったのかという、そこに感服しました。取材はもちろん、どう見せるかという演出の面でも、これだけ難しいことに挑んで、こういう作品を作り上げたというのは、ドキュメンタリーを作っている人間から見れば、驚異的だとすら思います。

 何かを活字で描くのと映像としてどう見せるかというのはまた違うと思いますが、これだけのことはなかなかできない。そこは本当に驚いています。

――大島さんは映画の内容についても意見を言われたりしてきたのですか?

大島 僕は、何か相談された時に意見を言いましたが、大したことは言ってません。

満若 いやいや、映画の中で作り手のことをどう入れるのかといった大事な問題もそうですし、大島さんの存在は大きかったです。一人ではわからないこともたくさんありますからね。

 資料をたくさん読み込んだり、いろいろ考えることができたのは、本格的な撮影に入って半年ほどで、コロナ禍で時間的余裕ができてしまったり、いろいろな事情もありました。その間に子どもが生まれたりして大変なこともありましたが。ただ子守をしている時にアイデアを思いついたことも多かったです。

 大島さんの影響ともう一人、『遠近を抱えて』で知られる大浦信行さんの影響も受けました。僕の撮影の師匠である辻智彦さんは若松孝二監督の作品の撮影を担当されていた方ですが、大浦さんの作品の撮影も担当しています。だから僕はテレビの仕事をしながら、大浦さんの映画のアシスタントをしていました。

 大浦さんはドキュメンタリー映画でもコラージュを使ったり、フィクションを織り交ぜながら作品にしていくという作り方で、ああこういうドキュメンタリーの手法もあるんだと刺激を受けました。僕は学生時代には原一男さんにドキュメンタリーの作り方を教わったのですが、大浦さんの手法はそれとかなり異なるものでした。

 今回の僕の映画でも、実は大浦さんにも出演していただいているんです。

――え、試写を観ていて気付かなかった。

満若 京都の河原で処刑される役です。

――それは驚いた。「表現の不自由展」で紛糾した昭和天皇を描いた『遠近を抱えてpartⅡ』などを含めて『創』と大浦さんの付き合いは長いから、出演シーンが処刑される役だったということも含めて、それはちょっと衝撃ですね。

満若 もともと『にくのひと』を含めて僕が部落差別のテーマに関わるようになったのは、その問題をずっと追っているフリーライターの角岡伸彦さんの影響ですし、今回の作品を撮るのにも角岡さんに次の作品をどうするか聞かれていたことが影響しています。そしてもうひとつ、映像については大浦さんの影響を受けています。今回の映画は、そういう15年間のいろいろなことの集積でもありますね。

ドキュメンタリー映画『私のはなし部落のはなし』の公式ホームページは下記だ。

https://buraku-hanashi.jp/

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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