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相模原事件・植松聖死刑囚が死刑確定から2年を経て再審請求を起こした背景

篠田博之月刊『創』編集長
植松聖死刑囚のいる東京拘置所(筆者撮影)

毎日新聞の速報にマスコミ各社が取材に動いた

 2022年4月28日夜、私のところへ新聞社やテレビ局から電話やメールが届いた。その直前の20時55分、毎日新聞が流した速報に各社が一斉に反応したのだった。その速報とは下記だ。

https://news.yahoo.co.jp/articles/cc4647dae4adb6901b3807cf5cd4c68b28699f33

相模原殺傷の植松死刑囚が再審請求 横浜地裁に 1審は控訴取り下げ

 記事のポイントはこうだった。

《殺人罪などで死刑が確定した植松聖(さとし)死刑囚(32)が横浜地裁に再審を請求したことが判明した。請求は4月1日付で、翌日受理されたという。地裁は今後、再審開始決定の可否について判断する。》

 再審請求が起こされ受理されたことは裁判所で確認できるから毎日新聞は何らかのきっかけでその情報を得て確認のうえ、報道したようだ。各社の関心事は、その再審請求はどういう経緯で起こされ、植松死刑囚がどう考えているのかということだった。

 なぜその問い合わせが私のもとへ来たかというと、実は2020年春に植松死刑囚の刑が確定した前後、私が本人と相談のうえ弁護士を探すといった、今回の事態につながるような動きをしていたからだ。ただそれは東京拘置所のブロックにあって頓挫したままだった。だから今回、私と別のルートで彼に弁護士がついて再審請求を起こしたということに驚いた。

 問い合わせのあったメディアには「残念ながら、今回のことに私は関わっていません」という返事をした。

 今回の再審請求がどういう経緯で、どの弁護士によって手続きされたのか、詳しい事情がわからないのだが、いずれ判明すると思う。多くの人が驚いたのは「いったいなぜ今になって再審請求がなされたのか」ということだろう。

 そこで、ここでは参考に供するために、2020年の3月から6月にかけて、私が植松死刑囚本人とどういう話をして何をやろうとしていたか書いておこう。

2020年春の死刑確定後の植松死刑囚とのやりとり

 その間の経緯については、2020年当時、断片的にはヤフーニュースなどにも書いてきた。例えば下記の記事だ。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20200711-00187711

相模原障害者殺傷事件・植松聖死刑囚からの手紙と、早期執行の嫌な予感

 2020年6月19日に私は知りあいの弁護士と東京拘置所を訪れ、植松死刑囚に面会を申し込んだ。面会の理由は再審請求について相談するためというものだった。死刑確定者と最初に面会するにはその理由で申請するしかないのだが、植松死刑囚自身はその時点で、再請求を行う意思はないと言っていた。ただ、そういう理由で弁護士が面会に行くが、面会拒否はしないでほしいと依頼し、彼も同意していた。

 しかし、実際には、面会申し込みは、本人が受けるかどうか確認する以前に、東京拘置所の判断で不許可と通告されたのだった。植松死刑囚本人には面会申し込みがあったことも伝えない、と係官は言っていた。上記のヤフーニュースの記事で私はこう書いた。

《「知人」枠での接見希望は植松死刑囚を通じて東京拘置所に申請されているはずだが、それがすぐには実現しないと思った私は、6月19日、弁護士と一緒に東京拘置所を訪れた。もちろん接見するのは弁護士で、私は待合室で待機するつもりだった。

 これまで弁護士であれば、本人が承諾すれば死刑確定者にも接見できる事例があったからだ。というか、そのへんは拘置所側の裁量なのだが、弁護士が接見を希望し、本人が応じれば、接見が許可されることが通例だったように思う。

 しかし、残念ながらその時は不許可になった。約1時間待たされたから、拘置所側もいろいろ検討したのだろう。接見申し込みが植松死刑囚本人に伝わる前に、拘置所側の判断で不許可になってしまったのだった。

 ちょっとこれは予想外で、思った以上に現状が厳しいことを実感せざるをえなかった。

 後で確認したら、植松死刑囚の連載漫画を掲載している『実話ナックルズ』も予想に反して接見許可が得られず、原稿の受け渡しも不許可になったという。最新号から、連載は突然、休載になってしまった。》

 弁護士の面会自体を不許可というのには驚いたが、その時係官はいろいろ説明してくれた。後でわかったことだが、どうやら私が行く前に『実話ナックルズ』が弁護士と一緒に面会に行って、やはり断られていたようだ。私の面会は、とりあえず確定後の植松死刑囚の近況を確かめ、今後の相談の糸口を作ることだったが、『実話ナックルズ』の場合は、前年の秋から植松死刑囚が連載していたマンガの継続のための手続きだった。正直に言って、これはハードルが高かったと思う。私が弁護士と一緒に訪れて面会申し込みをしたのを拘置所が不許可としたのは、その前に『実話ナックルズ』の件を不許可にした後だったというタイミングの悪さもあったのかもしれない。

 6月19日は仕方なく引き上げ、その後再び接見を求める手紙を東京拘置所の所長あてに、弁護士と私がそれぞれ書いた。しかし返事は得られなかった。今思えば、そういう場合に丁寧な返信が返ってくる可能性は低いから、もう一度訪問して交渉するなり努力すればよかったと、今になってみれば思う。ただ当時はコロナ禍で拘置所自体が大変な状況に置かれていたため、少し様子を見ることにしたのだった。

植松死刑囚からの手紙(筆者撮影)
植松死刑囚からの手紙(筆者撮影)

 私はその後も拘置所に手紙を出し、植松死刑囚の安否を確認するために、定期的に現金の差し入れを行った。死刑確定者は接見禁止だから、家族と弁護人以外は手紙を送っても本人には渡らないのだが、現金の差し入れだけは例外的に可能だ。しかも、そのお礼に限って死刑確定者には特別発信が許可される。だから私のもとにはこの2年間、植松死刑囚からの手紙が何通も届いている。しかし内容は差し入れへのお礼のみだった。それ以外の「通信」とみなされる文面を書くことは禁じられているのだ。

 だからこの2年間、植松死刑囚は私が差し入れをしていることは知っているのだが、私と弁護士が面会に行き、それが拘置所側の判断で不許可になったことは恐らく知らないままだ。

 今回、再審請求がなされたということは、確定から2年を経た現在、東京拘置所も何らかの新たな判断をした可能性があるのだが、詳細は知るよしもない。

横浜地裁での裁判にはマスコミが大勢取材に訪れた(筆者撮影)
横浜地裁での裁判にはマスコミが大勢取材に訪れた(筆者撮影)

死刑判決確定時に植松死刑囚はどう言っていたか

 さてそれでは、そもそも2年前に私と植松死刑囚との間でどんな話がなされていたのか、それを書いておこう。今回、再審請求が実際になされたということは、恐らく控訴取り下げをしたことで植松死刑囚の場合、早期執行の可能性もあり、それに反対するという弁護士の意思があったのだろう。それに植松死刑囚が同意したことで再審請求が実際になされたのだろうが、彼がどう考えた可能性があるのか、2年前に彼と話した内容を紹介しよう。

 その前に、ここまで読んできて、そもそも私と植松死刑囚の関係がどういうものかという疑問を抱く人もいるかもしれない。詳しく説明するのは長くなるので、興味ある方は、下記の本をご覧いただきたい。2020年春の死刑が確定する前後の植松死刑囚とのやりとりも詳細に記録されている。

『開けられたパンドラの箱』2018年7月刊

『パンドラの箱は閉じられたのか』2020年6月刊

 植松死刑囚が控訴を取り下げて死刑判決を確定させたのは2020年3月30日。31日午前零時をもって死刑が確定したが、それに伴って接見禁止となったのは4月7日に東京拘置所に移送されたタイミングだった。その間、私はほぼ連日、植松死刑囚に面会した。同時に、死刑確定後に彼に接見するなどしてくれる弁護士を探すなど、いろいろなことをした。何人もの弁護士に声をかけたが、相模原事件という重大事件への関与をこの段階から行うことには当然ながらすぐに応じてくれる人はいなかった。もし植松死刑囚と私が接見できていた時点で弁護士が決まっていれば、その後の経緯は極めてスムーズに行ったはずだった。しかし、そう簡単にはいかなかった。

 当時、植松死刑囚は民事で賠償請求訴訟を事件の犠牲者遺族から受けていたが、これについては弁護士を依頼せず、彼は答弁書も自分で書いていた。だから彼に対応してくれる弁護士を見つけるというのは、正式に訴訟代理人になるという話ではなかった。

 植松死刑囚は、自ら控訴を取り下げて死刑を確定させた時点で、ある意味で覚悟を決めていた。控訴して争っても死刑判決は免れないだろうから、もう裁判はやっても無駄だと言っていた。横浜地裁の被告人質問で、当時の弁護団が丁寧に彼の考えを引き出し、自分の7項目にわたる主張が公開の場で説明されたことにも一応満足していた。

 ちなみにその経緯は前述した本に詳しく書いたが、公判開始直後には刑事責任能力のないことを主張しようとする弁護団の方針を初めて正式に法廷で聞いて、彼自身いささかショックを受けたようで、弁護団を解任する意向を強く表明した。彼に面会したTBSがニュースとしてそれを報じたほど、植松死刑囚の意志は固かった。ただ、第一回公判の後に面会した時に彼の話を聞いて、裁判員裁判で公判開始後に弁護団解任というのは紛糾を招くだけだし裁判所が認めないと思われたので、私はその場で彼に、そうであれば弁護士と相談して、被告人質問で弁護団の主張に自分が同意していないことを証言すればよいとアドバイスした。実際に植松死刑囚は法廷でそうしたのだった。

 裁判が開かれている間、私は頻繁に面会して、植松死刑囚と議論をした。控訴取り下げにも私は当然反対したのだが、そうした周囲の反対を押し切るように、彼は公判の場で控訴はしないことを自ら言明し、自分を追い込んだのだった。

 3月30日に控訴を取り下げる時点では、もう彼の決意は固く、死刑判決を受け入れること、控訴も再審請求もする意思はないことを明言していた。

 ただ、植松死刑囚が最も気にしていたのは、死刑確定後に接見禁止がつき、外部とのやり取りができなくなることだった。もともと彼は、裁判に至るまでの3年近い勾留生活で、一時期、面会に訪れる人もほとんどいなかった時期もあって(私自身も当時の面会のペースは月に1回だった)、「1日中、誰とも話をしない生活が続いています」と不安気に言うことがあった。誰にも会うことなく独居房で毎日を過ごすという生活が彼を少しずつ精神的に追い詰めていく様子は、2017年の夏からずっと面会に通っていた私には明らかに感じられた。  

 最初に面会した頃は、自分の主張の正当性を、何かに憑かれたように前のめりで話し、彼の成育歴について知りたいといった質問をすると、「もう時間がないんです」と言った。事件と直接関係のないことを話している暇はない、というのだった。

事件から3年の間に植松死刑囚はどう変わっていったか

 そうした植松死刑囚の姿勢は、2020年に公判が開かれる頃には、目に見えてわかるくらい変化していた。外形的に言うならば、彼は少しずつ元気がなくなっていった。最初は口にしなかった犠牲者への謝罪も公判では、被害者家族の追及を受けることで公言した。基本的には最後まで自分のやったことは正しいと言い張ったから、報道では何の反省も謝罪もしなかったとされたのだが、その時点で2年半つきあった私から見れば、彼の様子が当初とは変わっていったのは明らかだった。

 その裁判の時期には連日、報道関係者が毎朝大勢、面会申し込みを行い、その中から3人を植松死刑囚が選ぶということの繰り返しだった(初公判で指を嚙みちぎろうとして懲罰を受けた時期は接見禁止となったが)。連日、大勢の人が彼と会うために訪れるという生活は彼がある種、高揚した時期だった。

 しかし、死刑が確定すると接見禁止がついて、そんなふうに人と会って話をすることができない生活が始まることになる。実際には4月3日頃まで面会に訪れていた報道関係者は。私とノンフィクションライターの渡辺一史さん、あるいは神奈川新聞記者などを除くと、パタッと訪れなくなった。そして死刑が確定すると、もう面会する人さえいなくなる。死刑確定を前にして植松死刑囚が恐れ、気にしていたのはそのことだったように思う。

 死刑確定者には、確定後にも家族と弁護人以外にも接見できる「知人」を拘置所に届け出ることが認められている。植松死刑囚は、私と『実話ナックルズ』編集長を届け出た。もうひとり私は、彼の幼い頃からの友人を加えることを提言したが、植松死刑囚は上記2人でよいのではないかと言っていたので実際にどう申告したかわからない。

 ただ、そうやって死刑囚が接見できる「知人」についての希望を出したとしても、それを認めるかどうか、知人の接見を許可するかどうかは拘置所長の裁量に任されている。むしろ年々厳しくなっているように思う。私もかつて埼玉連続幼女殺害事件の宮崎勤元死刑囚に死刑確定後も接見許可が出されるなどしたのだが、「知人」の接見についてはどの拘置所でも運用が厳しくなっていることを感じている。

 そこで私はもしそれが許可されない場合を考えて、何かあった時に彼が相談できる弁護士を決めておきたいと考えたのだった。相談する事柄の中には再審請求も含まれる可能性があるのだが、植松死刑囚は、当時はそのつもりはないと言っていた。 

 ただ、確定後にも面会したり相談できる弁護士がいるという状況が必要であることは認めていた。再審請求をするつもりはないが、弁護士から再審請求についての説明を聞くことは拒否しないと言っていた。

 死刑囚にとって、刑の確定前に直面する大きな問題は、接見禁止がついてしまうことに対する方策を決めておくことだ。死刑確定者を接見禁止にしてしまうことはいろいろな意味でマイナス以外何もないと私は思うのだが、実際の執行前に、社会と断絶させるという社会的死を強制されるのが死刑囚だ。その対策として、死刑確定前に養子縁組などをする死刑囚も少なくない。

控訴取下げの後に再審請求を行った元死刑囚の事例

 控訴を自ら取り下げ、死刑確定時点で再審請求を起こすつもりはないと言っていた植松死刑囚が、ではなぜ今になって再審請求を起こしたのか。それについて考える際に参考になりそうな事例としては、私がこれまた深く関わった2004年の奈良女児殺害事件の小林薫元死刑囚の例を紹介しておこう。

 自分は死刑を望んでいると言い続け、奈良地裁で死刑判決が出た時には法廷でガッツポーズを行ったとして話題になった人物だ。植松死刑囚の裁判も、真相解明が十分になされなかったのだが、奈良女児殺害事件の裁判はもっとひどかった。小林死刑囚は死刑を望むと公言し、裁判でも死刑判決が出るようにと検察側の主張を全面的に認めてしまった。

 その一方で、周囲には、実際に現場で起きたことは全く違っていると話し、月刊『創』で本当はこうだったという話を手記として発表した。しかしそこに書いた内容への説明を法廷で求められても拒否したのだった。

 さすがに控訴を取り下げるかどうか決断する際には相当迷っていたが、結局、控訴期限ぎりぎりのタイミングで植松死刑囚と同じように控訴を取り下げたのだった。私は控訴取り下げなどしないように説得もしたし、一時期は本人も控訴審の弁護人と話してからどうするか決めると言ってもいたのだが、結局控訴を取り下げてしまった。

 ところが、その小林死刑囚が新たに出会った弁護士の説得に応じて、後に再審請求を起こしたのだった。もともと控訴取り下げの時にあれこれ迷っていたし、奈良地裁での審理については「茶番だ」と言ってもいたから、裁判のやり直しを求めるという弁護士の意向に同意したのだろう。ただし控訴取り下げ無効申し立ても、それが却下された後に起こした再審請求も結局、認められず、死刑を執行されてしまったのだった。

 この小林薫元死刑囚の、控訴取り下げから再審請求に至る経緯やその顛末については拙著『増補版 ドキュメント死刑囚』に詳しく書いたので、興味ある人は参照いただきたい。

 この時、小林元死刑囚を説得したのは安田好弘弁護士などと一緒に死刑廃止運動に関わっていた弁護士だった。

 今回の植松死刑囚の再審請求手続きを行った弁護士が誰で、どういう経緯があったのかは現時点で私も把握していないし、新聞・テレビも今のところつかんでいなようだ。

 その弁護士がもしこの記事を読む機会があったら、もし可能ならぜひ連絡をいただきたいと思う。メルアドは下記だ。

mail@tsukuru.co.jp

 相模原事件については外形的な事実については裁判でかなり明らかにされているが、被告の刑事責任能力の有無にほぼ争点が絞られてしまったために、十分に解明されたとは言い難い。植松死刑囚がなぜ2015年頃からあのような考え方に変わっていったのか、彼が実践していた「津久井やまゆり園」での障害者支援の活動と、それはどう関わっているのか。そうした根本的な問題はほとんど明らかになっていない。このまま死刑が執行されて、その解明がなされないことになってしまうのには反対だという声は、障害者支援などに携わってきた人たちの間でも少なくない。

植松死刑囚が獄中で描いたイラスト(筆者撮影)
植松死刑囚が獄中で描いたイラスト(筆者撮影)

 私が編集している月刊『創』(つくる)は相模原事件の発生当初からこの事件には相当の誌面をさいてきた。最初の1~2年は、毎号必ず相模原事件についての記事を載せることを決めていた。植松死刑囚の刑が確定した2020年以降は、さすがに毎号というわけにはいかないが、それでも頻繁に報道を続けている。死刑確定後に、植松死刑囚の津久井やまゆり園での支援活動についての内部資料が明らかになるなどした経緯も詳しく報道している(2021年8月号、12月号など)。

 相模原事件はまだ終わっていないし、十分に解明されたとは言い難いのが現実だ。

 今回の再審請求については、それが今後どう推移していくのかについては全くわからない。最近は再審請求中でも刑の執行は容赦なく行われており、植松死刑囚がどうなるかについても決して予断は許さない。今回投げられた一石が、相模原事件解明の一助となる方向へ事態が進んでいくことを強く望みたい。

〔追補〕この記事の後、6月に入って植松聖死刑囚を弁護士と訪ね、本人に再審請求を行った理由を聞いた。下記記事を参照いただきたい。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20220615-00301026

相模原障害者殺傷事件・植松聖死刑囚が自ら語った再審請求を行った理由

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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