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三浦春馬さん最後の主演映画『天外者』監督が語った三浦さんのこと

篠田博之月刊『創』編集長
『天外者』の三浦春馬さん C2020映画「五代友厚」製作委員会

 12月11日公開の映画『天外者』が話題になっている。7月に自殺した三浦春馬さんが主演した最後の映画で、三浦さんの死を悼むたくさんのファンが映画館に足を運んでいる。ここではその映画の監督にインタビューした内容を発売中の月刊『創』1月号から転載する。

 そのインタビューをアップしたのは12日朝だが、夕方、TOHOシネマズ六本木ヒルズで開かれた監督やキャストによる舞台挨拶も取材してきたので、その写真も追加でアップしよう。舞台挨拶では共演した俳優や監督が三浦春馬さんの思い出を語った。完成した作品を観ることなく他界してしまった三浦さんだが、会場につめかけたファンの中には恐らく涙を流していた人もいたのではないだろうか。映画公開初日の11日に劇場で販売された関連グッズを買い集めてネットで転売している人もいるようでファンの怒りを買っているらしいが、こういうことが起こるのも、三浦春馬さんの死がいまだに多くの関心を呼んでいるからだろう。

12月12日に行われた映画「天外者」公開記念舞台挨拶(筆者撮影)

 映画『天外者』は、幕末から明治にかけて活躍した五代友厚を中心に、坂本龍馬や岩崎弥太郎ら歴史上の人物の群像劇を描いたオリジナルの作品だ。

 その主人公が三浦春馬さんだが、初めての時代劇主役ということもあって、全身全霊をかけてこの映画に取り組んでいたという。そうした三浦さんの思い出を含め、田中光敏監督に話を伺った。

歴史の流れに沿った激動期の群像劇

――映画『天外者』を手がけることになった経緯からお話しいただけますか?

田中 映画の主人公である五代友厚さんは鹿児島出身ですが、その関係者や身内の方々、あるいは五代さんについて研究していらっしゃる方々が、7年ほど前から「五代塾」というグループを作っていたのです。そのグループと、市民有志が一緒になって「五代友厚プロジェクト」というのができて、そこから監督をやってもらえないだろうかと、3年前に声を掛けていただいたのです。

 映画の製作委員会は、その「五代友厚プロジェクト」のほかに鹿児島テレビなどが加わっており、鹿児島テレビは密着で映画の舞台裏も撮影しています。そのほか鹿児島商工会議所などが後援してくれており、たくさんの鹿児島の方たちにお世話になっています。

――映画を作るということになって、これはオリジナル作品なので、まず脚本作りから始まったのですね。

田中 実は声を掛けていただいた時に半年近く悩みました。オリジナルで作らなければならないということが1つありました。そしてもう1つ、五代友厚が今まで歴史の表舞台には出てこなかった人なので、たくさんの人たちに観ていただけるような映画が作れるのかどうか。それは資金集めも含めてですが、そういういろいろな問題に、自分の中でも向き合ってしっかり考えないといけないと思いました。

 監督を引き受けるにあたっては、まず一緒に大河ドラマ『天地人』(2009年)、『利久にたずねよ』(2013年)を書いてもらった小松江里子さんという脚本家に声を掛けました。「オリジナルを作るうえで一緒にやってもらえないだろうか」と。

 そして織田作之助さんの『五代友厚』など五代さんについての本をいろいろ読みました。そうやって五代友厚という人を知れば知るほど非常に面白い人物であることがわかってきて、小松さんと一緒にまずはシナリオハンティング(台本を書くための取材)で鹿児島に向かいました。そういうところからオリジナルの脚本を起こしていったというのが、最初の流れです。

――映画の脚本は、事実関係は史実に忠実なのですか。

田中 この映画はフィクションではありますが、歴史の流れに関しては基本的には史実に則っています。五代の動きは史実からできるだけ変えずに、その流れの中で関わった人たちを考えました。五代友厚、坂本龍馬、伊藤博文、岩崎弥太郎の4人が、この映画のように仲良く、いつも会っていたという史実はありません。

 映画の歴史考証については鹿児島の歴史学者である原口泉先生とお話をして、いわゆる“空白の6カ月間”、つまり、もしかしたら彼らが長崎で会っていたであろう時間、それをうまく利用できないかと考えました。4人はそれぞれ個別には会っているのです。坂本龍馬と五代友厚は会っています。でも4人が一緒に会っているかどうかは歴史には書かれていない。それを物語の核として青春群像劇としてオリジナルの脚本を書き起こせないだろうかと考えました。

 さらに言えば、イギリス商人グラバーの妻ツルは、五代友厚が紹介した女性です。長崎のグラバー邸では、坂本龍馬もお世話になっていますが、五代友厚もお世話になっています。そのように彼らは複雑に絡み合っているのです。

 それで製作委員会のご厚意で僕と小松さんでイギリスに行かせてもらいました。薩摩の若い19人の侍たちを五代友厚が引率してイギリスに勉強に行った、その足跡を辿るためのシナハンです。

 そこで知ったのですが、五代たちをイギリスで案内役として受け入れてくれたのは、グラバーの弟です。僕たちが訪ねて行ってみると、侍たちは超一流のホテルに泊まっていることがわかりました。つまり、彼らが対等にイギリスの知識層らとビジネスができるようなコーディネートを、グラバーは先手先手で弟にも話をして指示していたと考えられます。そういうところも、うまく繋げていきながら、あの物語になっていきました。

 決して全てが史実に則って忠実にやりましたという物語ではありません。これはフィクションですし、歴史の空白のところを我々は群像劇のロマンとしてとらえて、その思いを形にしたところはあります。

『天外者』より殺陣のシーン C2020映画「五代友厚」製作委員会

三浦春馬さんが挑んだ「薩摩の殺陣」

――キャスティングについてですが、まず主役を三浦春馬さんにというのは、どう考えられたのですか。

田中 春馬さんに関しては、子役で出演した時にも見ていました。その頃はどちらかというと、線が細くて、男前で、すごく可愛らしい役者さんだなという思いがありました。しかし、2~3年前、三浦さんに声を掛けさせていただいた頃には、すごく凛とした男性になっていました。背筋がピンとして、非常に信念を持った美しい男。しかもそれでいて清潔感がある。

 いつか彼と仕事がしたいなという思いがありましたから、小松さんと脚本をいろいろ書き進めていくうちに、是非、三浦さんに演じてほしいという思いが膨らみ、声を掛けさせてもらいました。

 ただ、最初に声を掛けた時には、彼は忙しくて、既にスケジュールは埋まっており難しいと言われました。それで三浦さんでは無理なのかとガッカリしていましたが、2~3カ月後にキャスティングプロデューサーから、三浦さんがなんとかスケジュールを空けてくれそうだから、もう一度声を掛けてはどうかという連絡があった。僕はもう願ってもないチャンスだと思って彼にお願いをしたのです。

 声を掛けさせていただいたのは2~3年前で、実際にクランクインができたのはその2年後です。本当は1年後にはクランクインをする予定だったのですが、製作委員会の状況であったり、キャスティングとか様々な状況を踏まえて、1年先延ばしにしてクランクインしました。そういう意味では、クランクインでお会いした時に「監督、僕1年勉強しましたよ、五代友厚」と言われました。

 実は、彼はそのもっと前からプライベートの時間を使って殺陣師に師事したりしていました。日本の文化をきちんと勉強して表現できる役者になりたいと彼自身が思っていたようです。殺陣師の方から、薩摩の武士、侍たちはどういう殺陣をするのか等含めて、五代さんに関する残された資料などを読みながら勉強をしていたようです。しっかり勉強をして現場には入ってきてくれました。

――歴史上の人物の役作りですから、苦労もあったでしょうね。

田中 そうですね。1つは立ち回り、殺陣です。薩摩の殺陣というのは一刀両断、「一太刀で相手を」というもので、リアルに演じると一瞬にして終わってしまう。映画の中で表現する時には一瞬では終わらせるわけにはいきません。映画では鞘と鍔のところを抜けないように紐で結んであるのですが、それは薩摩の郷士たちが実際にそうしていたからです。できるだけむやみに刀を抜くなと。それを五代友厚にフォーカスして、映画では「人は斬らない」と強調しているようにしました。

 そういうことも含めて一太刀ではない殺陣をどうやったらリアルな形をもって成立させられるかを、実際に殺陣師も入って、空のスタジオの中で動いてもらうことにしました。春馬さんには忙しい合間をぬって京都の撮影所に2カ月間、時間をおいて来てもらいました。彼も2年間殺陣を勉強しているので、そういう意味での嘘はつきたくないんです。映画だから殺陣を格好よくしてしまえばいいとも思わないですし、薩摩のあの当時の殺陣を再現しながらどういうふうに物語の中に落とし込んでいくかということを、彼とはかなりやりとりしました。

 殺陣はシーンとしてはあっという間の時間なのですが、かなり大変でした。春馬さんもそこはこだわった。これは現場の殺陣師もスタッフも言っていましたが、主演で着物を着て殺陣を演じるというのは春馬さんにとって初めてなわけです。彼の運動神経と勘は見事でしたね。

 僕もその頃にやっと彼が歌って踊れるということを知りまして、やはりこれは本物だ、これから楽しみだなと思いました。これからもっとすごいリアルな殺陣や長い立ち回りなどもできるような大きな役者になっていくんじゃないかなと、その時に思いましたね。

映画撮影中の田中光敏監督(監督の事務所提供)

完成した作品を観てもらえなかった痛恨

――撮影はいつ頃、どういう具合に行われたのですか。

田中 準備で京都の松竹撮影所に入ったのが昨年8月から9月頃でした。実際の撮影は10月いっぱいで行い、11月にはあがっていました。実景撮り等をやって、昨年12月から仕上げ。仕上げは東映のデジタルセンターでやったのですが、4カ月かかりました。当時の長崎であるとか、薩摩の薩英戦争とか、CGとのVFX(撮影された実写映像素材を元に新たな映像効果を追加する技術)作業があったためです。CGの作成には2カ月くらいかかりました。全体のマッチングができた後にコロナ禍がやってきたという経緯です。

――その後はコロナの影響で頻繁に行き来することもできなかったのでしょうか。

田中 実は春馬さんは仕上がりを観ていないんです。映画の仕上がりを僕は観てほしかったですね。

 ラストシーンで、春馬さんが大阪商工会議所に集まったたくさんの人たちを前にして壇上で「これからみんなで力を合わせるべきだ」と熱弁をふるう場面があります。これを実は12月に「申し訳ないけれど来てほしい」と春馬さんに来ていただいてアフレコをやりました。それが僕が彼と会った最後となりました。その時に「ちょっと通しで観てくれ」と、アフレコシーンの部分だけは観てもらったんです。

 そしたら僕らスタッフもビックリしたのですが、彼は涙を流して「監督、こんなふうにできているんですか」と言うのです。「僕、結構このとき頑張ったんです、本気で頑張ったんですよ」という話をして、「その思いが蘇ってきて、僕、ちょっと感極まりました」と言って涙を流すのです。

 だからそれだけに、頭から最後まで本当に見てほしかったですね。もう、それが僕自身の心残りというか、あんなに頑張って、本気で向き合って演じてくれたのに、全部入れて完成した作品を彼に見てもらえなかったことは本当に残念です。

――撮影時には、京都の撮影所に三浦さんはずっと行きっぱなしだったのですか。

田中 そうです。ずっと1カ月は京都に行きっぱなしで撮影でした。間にちょこちょこと行き来はありましたが、ほぼどっぷり撮影に浸かっていました。自分でも「本当に充実できる時間を持ちたかったんだ」と言っていました。現場でもいろいろなアイデアを出したり、彼と話をしながら撮影を進めていきました。

 五代友厚と仲の良かったメンバーを演じるキャストは個人的に三浦春馬さんと面識のあるメンバーなんです。特に坂本龍馬を演じた三浦翔平君はプライベートでも10年来の友人です。

 だからリハーサルで翔平君がちょっと来れなかったりすると春馬さんが僕に「監督、今日翔平が来られなかったところは、僕が東京に帰って翔平と一緒に読み合わせするから、心配しないでください」と言うのです。実際に、みんなで食事をするシーンだとか、一緒に読み合わせをすると、翔平君はリハーサルにいなかったところもきちんと作ってやってくるわけです。「なんだ翔平君、できてるじゃん」と言うと、「春馬と一緒にレストランの個室で何時間も読み合わせを練習してました」という話をして、あぁ、有り難いなと思いました。主要キャストがみんな友達関係であるのと、それぞれ仕事をやっている同年代という集まりだったので、本当によく三浦春馬さんが中心となってコミュニケーションをとってくれていたようです。

最も苦労したのは「当時の匂い」をどう出すか

――岩崎弥太郎を演じたのがミュージシャンの西川貴教さんというのも意外でしたが、これは監督のお考えですか。

田中 僕は西川さんとずっと仕事をしたかったのです。彼はきっと良い芝居をしてくれるだろうと思っていました。だからキャスティングプロデューサーにどうしてもとお願いしたのです。西川さんに関しても1年前に声を掛けさせてもらっていて同じことを言われました。「監督、1年待ったよ」と。

 実は彼もすごく岩崎弥太郎のことを勉強してくれていました。皆さんもご存じの歴史上の人物で、これまで大河ドラマや映画でも素晴らしい役者が演じています。僕はこの映画で、岩崎弥太郎とか、坂本龍馬とか、伊藤博文とか、もしかしたらこういう人だったのではないだろうかと思わせてくれるような新鮮な若いエネルギーを持った人にどうしても演じてほしかったのです。そういう意味では西川さんしか岩崎弥太郎は浮かんでこなかったですね。

 そこでキャスティングプロデューサーにお願いして、西川さんに直接会わせてもらいました。西川さんはミュージシャンとしてもちろん成功された方ですけど、お会いした時には非常に謙虚で「監督、僕はドラマなんてやったことがないし、カツラなんてかぶったことがないし、本当にそんな大役任せて大丈夫ですか」と言うのです。僕は「きっと西川さんならできると思う」と話しました。そこで「やりますよ。僕、頑張ってやります」と言ってくれたので、この人と一緒にやろうと思いました。本当に彼は見事に岩崎弥太郎を演じてくれたと思っています。

――時代考証やセット等、苦労されたところはありましたか。

田中 一番苦労したのは、当時の匂いをどう出すか、でした。しかも限りある予算の中で時代劇もやり、薩英戦争で船の上に乗り、海外の人にも出演してもらう。なおかつ、それが終わったら時代が変わって髪の毛から何から全部変わって洋服になって登場しなくてはならない。要するにその時代が変わっていく様をどう見せていくかというところです。

 それとやはりラストシーンの大阪商工会議所。実はロケハンをギリギリまでやりました。何十カ所という場所を見せていただきましたが、そこに合う場所がない。どうしても僕は大阪商工会議所で五代友厚と経営者の皆さんを対峙させたかったのです。お寺に座って座敷の上でやる、そういう感じでやるイメージではなかったので。最終的にはスタジオの中にオープンセットを作っていただいて、ひな壇で対峙するようにやりました。時代と向き合うのは大変ですね。

――公開に先立って三浦春馬さんが亡くなってしまったわけですが、本当は三浦さんに舞台挨拶してほしかったですね。

田中 まず完成した映画を観てほしかった。これは最近みんなで言っていることです。本当に観てほしかったし、それを観るべきだとも思っています。

 ただ、今となっては三浦春馬という男は全身全霊でこの作品に向き合ってくれたし、本気で我々とモノ作りに関して話し合いもしたし、何度もやり直しをしてこの作品に賭けてくれた。その姿というのは必ずやこの作品の中に息づいていると僕は思うのです。その仲間たちも、主演の三浦春馬という男に向かって挑んでいきましたし、良い意味での切磋琢磨をみんなでできたと思っています。三浦さんはこのスクリーンの中でずっと生き続けていると思っているので、もうそこだけをとにかく信じていきたい。

 そういう意味でたくさんの人たちに観ていただくことを考えて、とにかくみんな頑張ろうということでやっています。

『天外者』は12月11日(金)よりTOHOシネマズ日比谷ほか全国公開。

https://tengaramon-movie.com/

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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