Yahoo!ニュース

新右翼の論客・鈴木邦男の「謎」に挑んだ映画『愛国者に気をつけろ!鈴木邦男』

篠田博之月刊『創』編集長
映画『愛国者に気をつけろ!鈴木邦男』より(提供・中村真夕)

 2020年2月1日から2週間限定で、ポレポレ東中野で鈴木邦男さんを描いたドキュメンタリー映画『愛国者に気をつけろ!鈴木邦男』が公開されている。18時からの上映後、連日舞台トークが行われるのだが、これがかなりの豪華ゲストだ。鈴木さんを応援するために皆が手弁当で駆け付けるというわけだ。

 1日(土)武田砂鉄、2日(日)白井聡(政治学者)、3日(月)雨宮処凛(作家・活動家)、4日(火)松元ヒロ(コメディアン)、5日(水)瀬々敬久(映画監督)、6日(木)寺脇研(元官僚・映画活動家)、7日(金)栗原康(政治学者)、8日(土)香山リカ(精神科医)、9日(日)金平茂紀(TVジャーナリスト)、10日(月)松本麗華(カウンセラー)、11日(火)内田樹(神戸女学院大学名誉教授)、12日(水)ジャン・ユンカーマン(映画監督)、13日(木)足立正生(映画監督)、14日(金)上祐史浩(ひかりの輪代表)

  詳細は下記のポレポレ東中野のHPで確認してほしい。

https://www.mmjp.or.jp/pole2/

 同映画館は、この1月から、以前ヤフーニュースでも紹介した東海テレビの『さよならテレビ』が公開されており、大反響だ。

 多くの人が上映に協力を買って出たのは、鈴木さんが日本の言論界で果たしてきた貴重な役割への共感ももちろんあるが、もうひとつ、いま鈴木さんは健康を害してやや深刻な状況だからだ。

映画『愛国者に気をつけろ!鈴木邦男』より)提供:中村貴夕
映画『愛国者に気をつけろ!鈴木邦男』より)提供:中村貴夕

 

 それも重なって多くの協力を得て、公開初日の2月1日は前売り券が完売した。でも3日以降の平日はまだ席があいているようだ。映画は盛況であれば上映が継続される予定だから、多くの人が足を運んでほしい。

12月に救急搬送され手術を受けた 

 問題は鈴木さんが、この14日間、ゲストとのトークに登壇できるかどうかだ。いろいろな人がゲストに来てくれることを本人も自覚しており、何としてでも登壇したいという意向だ。本人は1月24日に入院していた病院を無事退院。今のところ経過は良好なようだ。

 鈴木さんはこの1年ほど、原因不明の病気で転倒を繰り返してきた。そこへ2019年12月、ちょうど新宿のロフトプラスワンで、あいちトリエンナーレ問題を大浦信行さんらと議論するために登壇する予定だったその夕方に、体調が悪化して緊急搬送された。私もその晩、ロフトプラスワンに登壇して、鈴木さんが来られなくなったと聞いて心配していた。結局、鈴木さんは腸閉塞と診断されて手術が行われた。

 手術の後、仕事の合間を縫って病院に見舞いに行ったところ、鈴木さんは最初に「忙しいのにわざわざ来てもらってすみません」とお礼を言った。その時は手術後でベッドに寝たきり。見るからに大変そうだったが、そんな状態でも丁重にお礼を言うところが鈴木さんらしい。

「言論の覚悟」とは鈴木さんの原点だ

 鈴木さんの映画のパンフレットには私のインタビューも掲載されている。鈴木さんとは本当に長いつきあいなので、それについて話した。月刊『創』(つくる)の連載「言論の覚悟」(最初は「鈴木邦男主義」だった)が始まったのが1995年2月号からだから、もう四半世紀だ。鈴木さんにはそれ以前から、皇室タブーの特集などに登場していただいていた。

 今回、映画のインタビューを受けるにあたって、当時の鈴木さんの原稿に目を通した。これがなかなかいい。今でも変わらぬ鈴木さんの原点を明確に語っている。

 例えば1986年4月号の「天皇タブー特集」で書いた「天皇タブー”なんてどこにあるんだ」という原稿の一節だ。

 《活字だって立派な凶器だ。人を斬りもすれば殺しもする。その自覚もなくて人を傷つけておきながら、ちょっと抗議されると本を回収し、「これは右翼の暴力だ」「言論統制だ」「タブーだ」などと泣き言をいう。いい大人が余りにもミジメだろう。》

 メチャクチャやるだけやっておいて、右翼が来たら「すみません、回収します」では余りに意気地がなさすぎる。そんな信念のないことなら、はじめからやらない方がいい。》

 今でも言論や報道に関わる者が胸に手をあてて読むべき言葉だ。連載の単行本化も既に3冊になっているが、最初に2002年に刊行された『言論の覚悟』のあとがきでは、こう書いている。鈴木さんは当時、全ての著書に自宅の住所と電話番号を載せていた。

 《もの書きは全て、自分の住所と電話番号を公開すべきだと僕は思っている。それ位の覚悟と自覚を持つべきだと思う。》

《反響は全て引き受けるべきだ。少々恐ろしくとも引き受けるべきだ。それが嫌なら、もの書きという仕事をやめるべきだ。そんな覚悟のない人間が、偉そうにきれい事を言ってるから、言論はどんどん下劣になり、言論の自由がなくなるのだ。》

 右翼の暴力ばかり喧伝されるが、マスメディアの暴力性についても、携わっている者は自覚と責任を持つべきだ、という主張だ。最近はこんなふうにズケズケ物を言わなくなったが、あいちトリエンナーレの「表現の不自由展その後」中止事件についても、鈴木さんは、表現に対する覚悟のなさを憂えていた。根本は変わっていないのだ。

「新右翼」として1970年代に登場

  鈴木さんが「新右翼」として登場したのは1975年に上梓した『腹腹時計と〈狼〉』がきっかけだった。三菱重工爆破事件を起こした新左翼メンバーの一人が、逮捕後、服毒自殺した。自分の思想や言論に命を懸けるというその姿勢に、左右の思想の違いを超えて、鈴木さんは共感したらしい。

 当時は極左と極右の共鳴などと言われたが、鈴木さんは、当時の新左翼雑誌『現代の眼』や、筑紫哲也さんが80年代に編集長をしていた『朝日ジャーナル』などにも登場していた。田原総一朗さんの『朝まで生テレビ』の右翼特集にも、右翼の大物・野村秋介さんとともに出演していた。

 先に引用した『創』86年の「天皇タブー」特集では、実は野村さんと鈴木さん2人をめぐるエピソードがあった。いろいろな人に天皇タブーについて語ってもらったのだが、その2人のタイトルを入れ違えてしまったのだ。

 この話は今回の映画のパンフでも紹介したが、大物右翼2人を取り違えるというミスだから、当時は笑いごとではなかった。特に野村さんは武闘派として知られ、事務所にお詫びにうかがうと、待たされた応接間に日本刀のようなものが飾ってあって、きょうは無事に帰れるのかと思った。

 結局、野村さんは「誰にも間違いはあるから」と言ってくれた。鈴木さんの方は喫茶店で会ってお詫びすると、面白がって笑っていた。当時はまだ鈴木さんも右翼武闘派の名残があって、天皇を貶めていると思われた芝居に殴り込んだといった伝説が伝わっていた。

 鈴木さんは出身の早稲田大学ではずっと右翼として弾劾の対象になっていた。私がかつて、早大の総合講座の講師をしていた時、授業で鈴木さんの著書を紹介したら、新左翼系の学生自治会が、右翼を推奨するとは何事かとビラをまく騒ぎになった。バカヤローと思って抗議したら、書記長だったかがお詫びに編集部を訪ねてきた。10年ほど前までは、市民集会などでも鈴木さんを呼ぶと、反対する人がいた。

日本社会の右傾化で相対的な立ち位置が変化

 そんな鈴木さんだが、右の人だけでなく左の人脈とも交流を深め、考え方はリベラルになっていった。本人は、自分が変わったのでなく、日本の言論が右へ寄ってしまったのだ、と言っている。それはたぶん正解だと思う。私が30年前に会った頃から、鈴木さんの立場は基本的にそう大きく変わっていない。

 右翼の活動から離れて以降も鈴木さんは、例えば朝日新聞阪神支局襲撃の「赤報隊」事件に絡んで自宅を何度もガサ入れ(家宅捜索)されたり、何者かに自宅を放火されたりした。

放火された当時の鈴木さんの自宅ミヤマ荘
放火された当時の鈴木さんの自宅ミヤマ荘

ここに掲げた写真が放火直後の自宅入り口だが、放火犯はガソリンを使ったため、左下の洗濯機がドロドロに溶けるほどの火力があった。

 そんななかで鈴木さんは日本の右傾化や憲法蹂躙について批判を強めていった。

 日本の言論・思想の軸が右に大きくぶれて、鈴木さんが相対的に左寄りに見えるようになった。しかもネトウヨと言われる人たちが登場して、ヘイトの言説、民族差別や排外主義をまき散らすようになった。鈴木さんはこれを強く批判して対立することになった。

 この20年ほどは、鈴木さんは言論や表現を守るために右翼やネトウヨと対峙することが多くなった。最初は2000年頃からの渡辺文樹監督の天皇に関する映画をめぐる騒動だった。渡辺監督は天皇をテーマにした映画を作って、各地で上映し、そこへ右翼が押しかけて攻防戦が展開された。監督は右翼に攻撃されるだけでなく、公安にも狙われて何度も逮捕されて投獄された。それでも表現活動をやめないところに、鈴木さんが共感した。

 激しい騒動となったのは2008年10月の横浜での上映会で、全国から右翼が押しかけ、街宣車で会場周辺を走りまわり、会場に集団で詰めかけた。渡辺監督は家族総出で上映会を開いており、開演前に映写機の準備などをしているため、右翼が彼を取り囲む場面がしばしばあった。

 客がその様子を遠巻きに眺めている中で、その輪の中に一人分け入って行くのが鈴木さんだった。「君たち、映画を観もしないで上映をやめろと言うのはおかしいじゃないか」。そう言って入って行くのだが、たちまち鈴木さん自身が糾弾の対象になる。「文化人面しやがって」「お前より渡辺のほうがよっぽど肝がすわってるよ」。そんな罵声を浴びて鈴木さんが苦笑いするのだった。

 同じような光景は、2010年以降、日本のイルカ漁を批判したアメリカ映画『ザ・コーヴ』でも繰り広げられた。これを「反日映画」と非難したネトウヨが映画館に押しかけ、抗議行動を展開した。配給会社の社長の自宅まで街宣がかけられ、横浜の映画館の支配人の自宅に抗議グループが押しかけた時には、留守を預かっていた高齢の両親にまでネトウヨが抗議を展開。こうしたやり方に鈴木さんは強く反発した。

押し掛けた抗議デモに鈴木さんが立ち向かう(中央)(筆者撮影)
押し掛けた抗議デモに鈴木さんが立ち向かう(中央)(筆者撮影)

 今回の映画でも、そのネトウヨの抗議行動に「君たちがやっているのは弱い者いじめじゃないか」と言って割って入る様子が登場する。ここに掲げた写真は私が撮ったものだが、先方の抗議部隊に立ち向かっていくル鈴木さんの後ろ姿が写っている。私も当時は毎回、現場に足を運んでいたから、鈴木さんといつも顔を合わせていた。写真の手前に見えるのが映画館の支配人だが、こんなふうに抗議デモに対峙したのは、その前の映画『靖国』中止騒動の時に抗議に屈して上映中止にしたことが映画人として恥ずかしく思っったから、と語っていた。

団塊ジュニア世代から見た鈴木邦男像 

 今回の映画は、撮影を始めたのは2年ほど前というから、鈴木さんの武闘派ふうの行動は同時進行では撮れていない。鈴木さんは、右にも左にも広い人脈を持った不思議な人として登場する。最近は「癒しの人」として邦男ガールズなるファンの女性たちも存在し、映画にも登場する。

 その鈴木邦男という人物の謎を探る、というのが、今回のドキュメンタリー映画のテーマだ。撮影のために監督の中村真夕さんが鈴木さんを追いかけていたのは知っていたが、あまり話す機会もなかった。今回、この原稿を書くにあたって、吉祥寺の喫茶店で話を聞いた。40代のその世代が鈴木さんにどういう関心を抱き、2年間追いかけながらどう感じたかという話は、なかなか興味深いものだった。

中村真夕監督
中村真夕監督

「鈴木邦男さんとの出会いは、私が撮った福島原発事故のドキュメンタリー映画『ナオトひとりっきりAlone in Fukushima』(2015年公開)の上映後のトークに来ていただいたことでした。

 そもそも私は団塊ジュニアなのですが、父が正津勉という詩人で鈴木さんと同じ世代、ジャーナリスト専門学校の講師同士で知り合いだったのです。だから父からはよく鈴木さんのことを聞いていました。

 鈴木さんの映画を撮ろうと思ったきっかけは、2017年に若松孝二監督が交通事故で突然亡くなった時に、そういえば若松さんのドキュメンタリーを誰も撮っていなかったなと気付いたことです。私は1960~70年代に青春時代を送った人たちに思うところがあり、以前『ハリヨの夏』(2006年公開)という、左翼の親を持つ女子高生の苦悩をテーマにした劇映画も撮っています。その団塊の世代の人たちはもう70~80歳で最近、次々と亡くなっていく。あの時代を生きた人たちを今、記録に残しておかないといけないという気持ちもあったのです。

 そこで2017年夏の鈴木さんの生誕祭のイベントから撮影を始めました。本当は鈴木さんが以前、活動家だった頃の映像もほしかったのですが、なかなか入手は難しく、『ザ・コーヴ』の映画館前でのシーンは、YouTubeで映像を見つけて撮影した人に連絡をとったのです。鈴木さんの原点ともいうべき、山口二矢の社会党委員長刺殺事件や、三島由紀夫事件については資料写真を使いました」

 中村さんの関心がそこへ向かう背景には、自身のそれまでの体験があったらしい。

「私は日本の学校が好きでなく、高校1年生の時に休学したまま、イギリスの高校に留学したのです。その後、ロンドン大学に進学して、卒業後、映画学校に入りました。ところが映画の世界に入ることに親が反対して、日本に帰国するか別の所へ移るかしろと言われたため、私はアメリカに渡ってコロンビア大学の大学院に入ったのです。結局、大学院を2つ出ることになりました」

 そういう経歴を経て中村さんが日本に帰国した時、あることに気がついたという。

「日本に帰ってきた時に、そこがあまりに不寛容な社会になっていたのに驚いたのです。他者の話は聞こうとしないし、対話も成立しない。そんな中で、いろいろな立場の人と交流があって包容力のある鈴木さんに関心を抱いたのです。どうしてこんなにいろんな人と付きあえるのだろう、と。どんな人とも付きあえる鈴木さんを最初は『歩く民主主義』と勝手に名付けていました。

 同時に戦後の日本の歴史を見ておきたいという気持ちもありました。イギリスの高校にいた時は、ナチズムの歴史をびっちりと教えられたのですが、日本では戦後の歴史は高校でほとんど教えず、終わったこと、なかったことにしてしまうでしょう。過去から何も学ぼうとしない。慰安婦の問題もお金で解決してしまう。福島の原発をめぐって目にしたのと同じなんですね」

 そういう思いからこの2年間、中村さんは鈴木さんの後を追い、カメラを回し続けてきた。そして、結局、鈴木さんてどんな人なのか、いろいろな人と付きあえるのはどうしてなのか。「謎は解けたの?」と訊くと、中村さんはこう答えた。

「解けたような解けないような…」

 その中村さんなりの答えは、ぜひこの映画『愛国者に気をつけろ!鈴木邦男』を見て判断していただきたい。

 映画の公式ホームページは下記だ。

http://kuniosuzuki.com/

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

篠田博之の最近の記事