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元オウム死刑囚の妻たちが手記につづった死刑執行からこの1年

篠田博之月刊『創』編集長
法務省が公開した刑場の写真(提供:法務省/ロイター/アフロ)

 昨年7月、元オウム教祖や幹部ら死刑囚への大量執行があってから1年。8月7日発売の月刊『創』(つくる)9月号に、新實智光元死刑囚と土谷正実元死刑囚の妻が手記を公表した。このヤフーニュースには昨年、新實元死刑囚の妻の手記を掲載して反響を呼んだ。夫を遺体で引き取った妻が、処刑後の遺体の様子を描いた部分などが、それまで死刑囚についてほとんど知られていない話だったからだ。未読の方は下記へアクセスすれば読むことができる。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20181107-00103264/

元オウム新實智光死刑囚の妻がつづった夫の死刑執行をめぐる衝撃手記!

 今回、『創』に掲載したのは、それから1年、ようやく妻が少しずつ夫の死を受け入れられるようになった、この7月に書いた手記だ。

 例えば新實元死刑囚の妻は、今年になって初めて夫の遺品の日記や手紙を読めるような心情になったという。それらを全て読んで思ったのは、世間では新實元死刑囚は最後まで麻原教祖への帰依をやめなかったと言われているが、実はそうではなかったのではないかという思いだったという。

 この話も興味深いが、今回、ぜひ紹介したいのは、土谷正実元死刑囚の妻の手記だ。新實元死刑囚の妻は、以前はオウムの信者だった女性だから幹部と獄中結婚という話は理解できるのだが、土谷元死刑囚の妻は、何とオウムと全く関係のない一般の女性だからだ。それがどうしてオウム幹部、しかも死刑囚と結婚することになったのか。そして昨年の執行をどう受け止めたのか。これまでほとんど知られていなかった興味深い話が書かれている。

 土谷元死刑囚は筑波大学大学院科学研究科出身で、オウム教団でサリン製造にあたった。この人がいなければサリン事件は起きなかったと言われている。自分の科学者としての知識を大量殺戮のために使うことになったという現実の重大さに苦悩し、死刑確定後は、周囲が再審請求を勧めても、自分は死んで償いたいとそれを拒み続けたという。

 その夫の苦悩を支え続けたのが妻の存在だった。サリン事件の元凶で死刑を宣告されている男性との結婚を、信者でもない女性がなぜ受け入れたのか。詳細な手記が公開されるのはこれが初めてだ。

 2人の妻とも夫に生前、マスコミの取材は受けない方がよいと言われていた。それはいわば夫の遺言でもあったのだが、死刑執行後、夫の遺志を伝えた方がよいのではないかと思うこともあり、今回、2人で手記を発表した。

 そうなった理由は、例えば新實元死刑囚について言えば、遺品の日記などを読むうちに、教義や教団との関係について、社会に伝えられている夫のイメージと実際がかなり違うことに気づいたからだという。

昨年は大きく報じられた死刑執行だったが
昨年は大きく報じられた死刑執行だったが

 昨年のオウム元死刑囚大量執行の時、政府がその時期にそうしたのは、「平成の大事件は平成のうちに決着をつけようと考えた」からだと言われた。その言葉通り、執行から1年経って、多くの人が大量執行のことを忘れてしまったかに見える。一部のメディアでは「執行から1年」という報道がなされたが、全体としてみれば大きな注目はなされなかった。そのことへの疑問も含めて、『創』は今回、2人の元妻の証言を掲載することにしたものだ。

 全文はぜひ発売中の『創』9月号を読んでいただきたいと思うが、ここではその手記の主要部分を紹介する。

土谷正実元死刑囚の妻の手記

 最初に夫と会ったのは私が10代の時でした。その頃、夫は筑波大学の学生で塾の講師をしており、そこの塾生だった友人と待ち合わせるため、私がその塾に何度か足を運んだことがあり、その時偶然知り合いました。

 実家が近いなどの接点があり、しばらくの間、友人付き合いがありましたが、私が受験生となって以降、夫とは徐々に接点がなくなっていきました。夫がオウム真理教と関わっていることも知りませんでした。

 ところが2006年頃、拘置所の夫から突然手紙が届いたのです。驚いて読んでみると、私に会いたいと書かれていました。

 悩みましたが、1カ月ほど手紙のやり取りが続いた末に、とりあえず会いに行ったのです。確か4月頃だったと思いますが、それから何度か面会に行くうち、7月頃になると、夫から毎日手紙が送られてくるようになりました。

 接見も週に3度4度と増えていき、そういうやりとりを2年ほど続けた後、2008年に夫から結婚して下さいと言われたのです。少し考えさせてほしいと言いました。

 私の家族は、親も私の生き方にはあまり干渉しないという関係だったので、相手がそういう人だから反対するという人もいませんでした。最終的には、私自身の考えで入籍することにしたのです。

 結婚してからは、私が仕事の都合で数年間海外で暮らしていた時期もあり、ずっと一緒ではなかったのですが、昨年、死刑執行がなされるまで、土谷とは夫婦でした。

東京拘置所から刑の執行を伝える電話

 2018年7月6日、夫が刑を執行されました。実は拘置所から連絡がある前に、新實さんの奥様のユリさん(仮名)から電話をいただきました。ご自身もパニック状態だったに違いない中で何度も私にお電話を下さり、あなたの夫も執行されるかも知れないから早く会いに行ってあげて、と気遣ってくれました。

 東京拘置所からは、新實さんの電話を受けて少したって連絡があり、執行されたことを知らされました。そして後でもう一度電話があり、引き取りをどうされますかと訊かれ、考えて後程お電話しますとお伝えしました。

 夏場で予想外の出来事だったため、夫の遺言では遺体での引き取りを希望していたのですが、ちょっと無理だと判断し、拘置所で荼毘に附して頂きたい旨、伝えました。

 その後対面を希望し、拘置所で夫の遺体と対面しました。眠っているような穏やかな眠顔をしており、どんな気持ちで独り逝ったのだろうと、冷たくなった頬を触りながら漠然と考えていました。通して下さった刑務官の方から、数日前に問題行動があり保護房からの執行となったが穏やかに逝きましたと聞かされ、もう本人も拘置所での生活に限界を感じていたのだと悟りました。

 最期は私の名を呼んでいたと聞き、ようやく楽になれたんだという思いと、夫は最期まで私だけを想っていたんだという思いと、とにかく何とも言えない複雑な心境でした。

 とりあえず拘置所に夫を残し花を買うと、その日の夜中、大阪へ向けて車を走らせました。今、自分と同じ思いをしているのが世界中でユリさんだけだと思うと、無性に彼女と会いたくなりました。

結婚記念日の翌日に執行された

 翌朝、いきなり彼女に連絡を入れ、ご主人のお焼香をさせてもらいに来たと告げました。驚いた彼女は、しかし私の訪問を喜んでくれました。お花とお供物を渡し、ご主人の智光氏と最初で最後の対面をさせて頂きました。智光氏もきれいな眠顔をされており、彼もまたしんどかったろうと慮りました。生前夫がお世話になったお礼を智光氏に伝え、 たくさんの弔問客が入れ替わり立ち替わりしていく中、遅くまでご遺体を囲み彼女と話し込みました。

 何とかその数日間を乗り切るため、お互いを励まし合う時間が、私たちには必要でした。帰路につき、暗い高速道路を走りながら、心底彼女の存在の大きさを実感しました。

 この日は私と夫の10年目の結婚記念日で、夫は記念日の前日執行されたわけです。そして9日、荼毘に附したので、しばらくの間なら預かっておけるが、いつ引き取りに来るかと拘置所からご連絡を頂きました。

 その日の夕方、いつもの面会ゲートとは別のゲートから入って来るよう指示を受け、4時過ぎに拘置所へ夫を迎えに行きました。応接室のような部屋へ通され、数人の刑務官の方の前で遺品の引渡しや遺言を伝えられました。

 一通りの事務的な手続きを終えると、では、お連れしてよろしいですか?と私に問い、遺骨となった夫が連れて来られました。桐の箱に入れられた骨壺の確認と埋葬許可証の保管の必要性など説明を受ける間、泣くまいと涙を堪えるのに精一杯でした。

 報道関係者が沿道に陣取る中、誰にも気付かれることなく拘置所を後にできました。唯一、長年夫との接見に立ち会って下さっていた刑務官の方がおり、いつの間にかお姿を見かけなくなってしまいお辞めになったのかなと案じていたのですが、異動になられていたようで、引き取りに伺った建物入口で守衛をなさっておられました。久方ぶりにお元気なお姿を見られ、「やっと連れて帰れます。長い間お世話になりました」と、ご挨拶できたことに、夫も一安心したのではないかと思いました。

死をもって償うとの夫の固い決意

 私はオウム真理教とは全く関わりがありませんでした。オウム事件についても、基本的に夫が自ら語ることはほとんどなく、私の印象としては、事件そのものに至るまでの経緯(入信や盲信、幼少時代や後の人間関係など)について漠然と考えているような様子でした。

 明確な殺意があったわけではなく、教団は宗教弾圧を受けている、攻め込まれたら自衛手段を取らざるを得ない、現に毒ガス攻撃を受けている証拠があると、自作自演の捏造された証拠を提示され、すっかり騙されてしまったようです。サリンについても、最終手段として念のため作っておく必要があるという程度に考えていたそうです。

 地下鉄サリン事件が起こった時も、まさかあの事件を起こすために、自分がサリンを作らされたとは全く考えが及ばず、教団側が本人にした稚拙な説明を信じ続けていたのです。

 逮捕後初めて知らされた事実があまりに多く、困惑、驚愕、疑心暗鬼の日々だったと聞きました。それでもまだ麻原をどこか信じており、疑問に思いながらも麻原がいつか本当のことを話すだろう、この状況を納得できる説明をするだろう、時期を見極めているのだろうと無理矢理思い込み、二審判決まではその仮説にしがみつくように帰依を貫いていたそうです。二審判決後も何かの作戦に違いないとまだ現実を受け入れられないようでした。

 ある日初めて本人から「麻原をどう思いますか?」「私は騙されていたのでしょうか?」と尋ねられました。私は本人に現実を突き付けるためにも、「残念ながらあなたは騙されていた」「麻原はペテン師だ」とはっきり言いました。次の日から夫は文字通り今までと180度違い、一夜にして帰依心が消えたと言いました。

 この日はやっと長い洗脳が最終日を迎えた日でもあり、これから始まる現実の受け入れをせざるを得ない初日でもありました。夫なりに苦悩はあったと思いますが、私は夫から話を振ってきた時以外、私から事件や教団について話を向けるのは止めようと思いました。

 何故ならば、夫の辿ってきた今までの状況を聞くと、想像できないほど社会から全く遮断された環境で、洗脳によって正常な判断力もなくし、集団心理も相まって、感覚や感情さえ欠落してしまったような人間に成り下がっていたからです。

 夫は極端な性格のため、その日を境に脱会、教団関係者との連絡や関係を断ちました。間接的とはいえ自身が大量殺人に加担したという事実を受け入れるようになり、結果、死をもって償うしかないとの結論に至ったようです。

 私自身は何度も再審を勧めましたが、夫の意思は固く、たくさんの人を殺してしまったことは事実、遺族の方々は自分の執行を望んでいるはず、見苦しいマネはしたくない、と。ついに私も夫の気持ちを尊重し再審請求はしないという結論に同意しました。

夫の遺骨と共に帰宅した時の感情

 刑の執行後、夫の遺骨と共に帰宅した時は、とにかく疲れており、妙な安堵感と喪失感が入り交じったような、生まれて初めて抱く感情に、自分自身どう解釈すればいいのか、困惑し落ち着きませんでした。

 とりあえずお世話になった方々にお礼のメールを送り、遺骨は寝室に安置して遺品は落ち着くまで目につかないようクローゼットの中にしまいました。

 2日間は全く眠れず、これからどうしようかと悩んだり、何も考えたくなくなったり、ひたすら掃除やジョギングをしたりと、チグハグで整合性のない毎日が続きました。

 そんな中で唯一気持ちが和むのは、ユリさんと連絡を取りあっている時間でした。お互いの夫の遺言を教えあったり、遺骨をどうするか、遺品にはまだ手を付けられないなど他愛ない話ではありましたが、彼女とのやり取りが大きな支えとなりました。

 思い返すと長かったようなあっという間だったような1年間です。夫のいない生活に慣れてはきましたが、ふとした瞬間に彼の言葉や笑い声が甦り、涙が出ることもあります。

 夫は私の良き相談相手でもありましたので、困ったことや悩んだ時には夫がいてくれたらなぁと寂しく思うこともあります。命日、誕生日、結婚記念日と要所要所で特別な意味を持つ日があり、それはこれからも変わらず毎年やってきます。

 しかし、それは被害者ご遺族の方々にも同じように訪れます。在りし日を思い出し、悲しみ、怒り、私の夫に憎しみを抱かれるでしょう。私が麻原に対してこの男さえいなければ、と思う気持ちとまったく同じお気持ちを私の夫に向けられるでしょう。

 夫は執行をもって臨んだとしても、決して許されることはなく、未来永劫続くはずであった尊い命を、健康で幸せであったはずの生活を壊し奪いました。判断力をなくした夫の所業でたくさんの方々の将来が消えました。この場をお借りし、妻として夫に代わり心からお詫び申し上げます。

 申し訳ございません。

新實智光元死刑囚の妻の手記 

 何故か執行の朝のことは、家を出る前から再び家に戻ってくるまで、鮮明に覚えています。普段ならすぐに忘れるような、電車の中でどの動画をスマートフォンで見ていたか、コンビニに寄って買った飲み物の種類、レジのおばさんの顔、そういったことを今日まで忘れていません。

 執行からは毎日、友人たちがメールやラインで励ましてくれています。執行の翌週、「退職します」と告げて、仕事を辞めました。

 それから7月8月と過ぎていき、2カ月経つのに立ち直れない自分に腹が立ち、「動き出さないと」と心を決め、9月に就職をしました。

 そして、執行から半年近くたった年末年始に夫の遺品整理をようやく始めました。

夫の遺品だった日記を読んで…

 1996年と書かれた大学ノート、移送を機に書き始めた大学ノート、23年間分の大学ノート。台帳にびっしり書きつづった思いの数々が残されていました。

 今年のゴールデンウイークの10連休に改めて日記をじっくりと読んでみて、私はびっくりしました。世間で言われていたのと全く違う、夫の考え方が随所に書かれているのに気がついたからです。

「誰かを崇めるような生き方ではなく、自分を信じる原点に戻るということ……」

「同じような思いを今いる法友達にはしてほしくない」

「教祖をいろんな角度から見て判断してほしい。僕はもう教祖から背を向けている。ついていかない」

「松本家を信仰することがいかに馬鹿げているかを知ってほしい。何の功徳にもならない」

 最後まで元教祖への帰依は変わらなかったと言われていた夫ですが、日記にはそれと全く異なる思いが書かれていました。夫の最後の日記を読み、ああそうだったんだ、そうだよね、と、全てがストンと自分の中に入ってきました。

 夫は一貫して元教祖のそばにいると言われていましたが、日記を読む限り、そうではありません。夫は、オウムの教えを極めた上で、教えや元教祖、松本家と決別したのです。

大量死刑執行でオウム事件は本当に終わったのか

 手記の紹介は以上だ。新實元死刑囚の妻の手記については、ここで紹介したのはごく一部だ。彼女が夫の日記や手紙をどう読み解き、どう理解していったかについては、ぜひ原文を読んでほしい。それをどう評価するかは、オウム事件を理解するうえで大きな問題だと思うし、その評価についてはいろいろな意見があるかもしれない。

 また新實元死刑囚と土谷元死刑囚の妻がどういう経緯でこんなふうに親しくなったかといった経緯も、『創』に掲載した手記全文を読めばわかる。

 いずれにせよ執行から1年を経て、オウム元死刑囚たちの身内がこんなふうに重たい心情を公表してくれることになったのは、大きな意味があると思う。

 今後、他の死刑囚についても、関係者が新たな情報を公開してくれることを望みたい。あの平成に起きたオウム事件を私たちは決して忘れたり風化させてはいけないと思うからだ。

※月刊『創』9月号、詳しい内容は下記を参照してほしい。

https://www.tsukuru.co.jp/gekkan/2019/08/20199.html

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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