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三鷹事件再審請求棄却と「無実の死刑囚」竹内景助さんの長男が語った70年に及ぶ闘い

篠田博之月刊『創』編集長
2019年7月31日午後2時過ぎ、裁判所前にて筆者撮影

 2019年7月31日、裁判所から帰社してこの原稿を書いている。午後2時、三鷹事件の再審請求について東京高裁が決定をくだした。裁判所前には炎天下の中で1時間前から支援者が大勢つめかけて決定が出るのを待っていたが、弁護士が掲げたのは「不当決定」の文字。再審請求は棄却されたのだった。

 私が住んでいる三鷹の地元で起きた事件ということで、7年前に再審請求が起こされた時点から集会などには毎回参加してきた。間もなく決定が出ると言われたこの1カ月ほどは、再審弁護団団長の高見澤昭治弁護士ともいろいろ接してきたし、「無実の死刑囚」竹内景助さんの長男にも話を聞いた。高見澤さんはこの7年間、ほかの仕事を入れずにこの再審請求一筋に仕事をしてきたし、竹内さんの長男・健一郎さんは高齢で重い病気にもかかっている。

 事件が起きてから親子2代にわたり、70年間も竹内景助さんの無実を明らかにするために闘ってきた健一郎さんや、今回の再審請求に尽力してきた人たちの無念さを思うと、裁判所前で弁護団の話を聞きながら、本当に重く悲しい気持ちになった。

 高見澤弁護士は決定をすぐに再審請求人である健一郎さんに伝えたところ、今後も負けずにがんばるという返事をもらったという。しかし、後述するが、これだけいろいろな鑑定を行い、新証拠を提出したのに退けられたというのは、再審をめぐるハードルがかなり高いことを見せつけられたわけで、このところの「再審をめぐる逆流」の動きとともに気になるところだ。再審をめぐる流れを前に進めるために法的整備などを訴えていこうという動きも高まる中で、冷水を浴びせるようなこうした動きには注意しなければならないと思う。

裁判所前で報告をする再審弁護団の高見澤弁護士(筆者撮影)
裁判所前で報告をする再審弁護団の高見澤弁護士(筆者撮影)

 三鷹事件は、戦後の三大謀略事件のひとつと言われるものだ。他の下山事件、松川事件も真相は闇に覆われたままだが、松川事件など冤罪で逮捕された元被告らは全員無罪になっている。この三鷹事件の竹内景助元死刑囚のみが、当時の自白偏重の司法状況の中で自白を強要され、しかも第1次再審請求の過程で本人が獄死してしまうなど、不幸な状況が重なっていまだに無罪が勝ち取れないままになっているのだ。

 70年にも及ぶ、親子2代の苦しみについて、本当に裁判官は理解しているのかと憤りさえ感じるが、月刊『創』次号9月号(8月7日発売)のためにこの1カ月ほど取材してきた内容をここでお伝えしたい。

70年前の1949年に起きた三鷹事件とは

 7月15日、三鷹市の禅林寺を高見澤昭治弁護士が訪れるのに同行した。その寺の一角に「三鷹事件遭難犠牲者慰霊塔」がある。高見澤さんはそこを訪れたのだった。ちょうど70年前に、三鷹駅で突然電車が暴走し、6名が死亡、20名が重軽傷を負うという、いわゆる三鷹事件が起きた、その日だった。

三鷹市の禅林寺にある慰霊塔を訪れた高見澤弁護士(筆者撮影)
三鷹市の禅林寺にある慰霊塔を訪れた高見澤弁護士(筆者撮影)

 三鷹事件が起きた1949年には、下山事件、松川事件と、当時の国鉄に関わる大事件が相次ぎ、戦後の三大謀略事件とも言われている。いずれも真相が明らかになっていないのだが、松川事件では逮捕された者全員が無罪になっている。三鷹事件も逮捕された10名のうち9名は無罪になったのだが、その残る一人には1955年、死刑が確定している。その竹内景助元死刑囚は1967年、脳腫瘍で獄死してしまうのだが、遺族によって再審請求が行われてきた。高見澤さんは、その再審弁護団の団長だ。

 逮捕された10名のうち9名は共産党員で、三大謀略事件とは国鉄に影響力を持っていた共産党を弾圧するために行われたものと言われているのだが、党員でなかった竹内さんだけが有罪となった。厳しい取り調べを受けて、供述を単独犯行、共同犯行、無実と二転三転させ、一審では無期懲役、二審では死刑判決が出された。その後は一貫して無罪を主張するのだが、最高裁で上告棄却。死刑が確定してしまう。

 最高裁での判決は裁判官の間でも意見が分かれ、8対7で決定した。当時は新憲法が制定され、新刑事訴訟法が施行されたにもかかわらず、自白偏重は変わっていなかった。死刑確定には批判的な世論も多く、すぐに再審請求を申し立てたが、10年も放置され、ようやく裁判官から再審のために本人から意見を聴取するという連絡があった矢先に竹内さんは獄死してしまう。冤罪を晴らそうとした志なかばでの無念の死だった。その遺志を継ごうとしていた妻も、その後1984年に死去している。

竹内景助さんの長男、健一郎さんに話を聞いた 

 三鷹市に事務所兼自宅があった高見澤さんが、三鷹事件に関心を持つようになったのは2008年、地元で開催された集会に参加したのがきっかけだった。そして2009年、『無実の死刑囚 三鷹事件 竹内景助』(日本評論社)という著書を上梓。事件から60年目の7月15日に出版されたその本を、竹内景助さんの遺族に送本。そして長男の健一郎さんを埼玉県の自宅に訪ねたのだった。著書をまとめる段階から、この事件については遺族を請求人として再審請求を起こすべきと考えていたのだった。

 竹内景助さんが存命中の1956年、第1次再審請求の手続きが行われていた。当時は、竹内さんの無実を訴える署名が80万筆も集まるなどしていたのだが、請求人の死去という不幸な事態によってそれは実現しないままになってしまったのだった。

 新たな再審請求は、高見澤さんが竹内健一郎さんと接触したことによって2011年に動き出した。ちなみに私自身、その再審請求が起こされたことを報道で知って、支援集会などに参加するようになった。三鷹市在住である私も、地元に住む者として関心を持たないわけにはいかなかったのだ。

 さて禅林寺を訪れた翌日の7月16日、高見澤さんの案内で竹内健一郎さんの自宅を訪れた。健一郎さんは76歳と高齢で、しかもがんが発見されて肺を摘出するなど健康状態は思うようではない。

 その自宅を高見澤さんが初めて訪ねた時のことを健一郎さんはこう語った。

「おやじの無実の罪を晴らすために何とかしないといけないと、いつも思っていたのですが、そこに弁護士さんが訪ねてきてくれた。うれしかったですね。最後の望みだと思いました」

父親の思い出を語る竹内景助さんの長男、健一郎さん(筆者撮影)
父親の思い出を語る竹内景助さんの長男、健一郎さん(筆者撮影)

 健一郎さんの妻・光子さんは、国民救援会のメンバーとして竹内景助さんの支援運動に関わっていた女性だった。しかし、高見澤さんが訪れた時は病に侵され寝たきりの状態だった。二度目に高見澤さんが訪れた時には、病床に伏したままの光子さんも再審請求への足がかりができたことをとても喜んでいたという。ただ残念なことに、次に連絡をとった時には、健一郎さんから、妻が亡くなったと聞かされたという。

再審請求にあたって読み上げられたメッセージ

 第2次再審請求が起こされた2011年11月10日には都内で集会が開催され、私も参加した。そして集会の最後に、健一郎さんのこういうメッセージが披露された。

《三鷹事件は私が小学校に入学した年の7月に起りました。父親は国鉄職員であることを誇りにして、私の入学式にも国鉄の帽子をかぶって学校まで駆けつけてくれ、校庭での集合写真に写っています。父はいつも私たち子どもたちを可愛がり、出勤前によく畑に連れて行ってくれたことなどが、今でも懐しく思い出されます。

 その父親が、どういうわけか、国鉄を解雇されてしまいました。父親は生真面目で、直ぐに就職先を探しながら、家族を養うためにキャンデー売りなどをしていました。ところが事件から半月後、突然に警察に連れて行かれ、それ以降、一度も家に帰ることはなく、死刑判決を受けたまま、45歳の若さで獄死してしまいました。

 そのため、私たち家族は、生活に困ったばかりか、社会の偏見と差別にあい、文字通り塗炭の苦しみを味わいました。私たちは、父親のような家族思いで子煩悩なものが三鷹事件を起こすはずがないと、家族全員、父親の無実を信じ、苦しい生活の中、母親は父が死んでからもあちこちに出向いて一生懸命訴え、私もそれに同行したことも何度もありました。

 しかし、死刑囚の子どもだということで、就職や結婚にも言葉では言い尽くせないさまざまな困難を経験し、母親がなくなった後は、社会から隠れるようにして暮らすしかなく、父親の無実を信じながら、再審を申し立てることなど、とても出来ませんでした。

 このたび、父親がなくなってから45年を前にして、弁護団の先生方のお力添えで、ようやく再審を申し立てることになりました。こんなに有難いことはありません。何も悪いことをしていないのに、死刑という最も重い罪を着せられた本人はもとより、最後まで父を愛していた母親も、そして無実を信じて私と結婚してくれた妻も、草葉の陰で喜んでくれていると思います。(中略)

 私も父親の冤罪を晴らすために最後まで頑張りますので、皆さん方には、これからもご支援ご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。

平成23年11月10日     合掌》

 健康上の問題ももちろんあるが、健一郎さんが集会に参加できない理由がもうひとつあった。再審請求にあたって当初、テレビなどの取材に応じた健一郎さんに対して、遺族の間で戸惑いや反発が起きたのだった。

 竹内景助さんには女性2人、男性3人の5人の子どもがいた。景助さんが逮捕され無念の死を遂げた後も、妻の政さんは子どもたちを育てながら景助さんの無実を訴え続けてきた。その政さんが1984年に亡くなって以降、景助さんの無実の罪を晴らす取り組みは一時中断することになった。

 健一郎さんの兄弟姉妹は、それぞれ自分の人生を歩み、子どもができるなどしたのだが、景助さんのことは敢えて話さないできたらしい。それが健一郎さんがテレビに登場して話し始めたことで、甥や姪が初めて知るところとなり、戸惑いや反発の声が上がったらしい。

 死刑囚の子どもだということで世間の偏見にさらされるといったことは健一郎さん自身経験してきたから、その戸惑いも理解できたのだろう。健一郎さんは、その後しばらくマスコミの取材にも応じず、支援集会にも顔を出すことはなかった。今回、いろいろなマスコミの取材に応じているのは、再審の決定が近づいたためだ。

2019年1月18日、竹内景助さんの命日に開かれた集会(筆者撮影)
2019年1月18日、竹内景助さんの命日に開かれた集会(筆者撮影)

 

 三鷹事件の再審については、今年も竹内景助さんの命日である1月18日には集会が開かれたし、いろいろな支援活動が行われてきた。そういう集会に健一郎さんが顔を出せないというのは、この問題の複雑さを物語っていた。

父親の逮捕後、家族はどんな状況だったのか

 1949年の事件の後に竹内景助さんが逮捕されて以降、残された6人の家族は、生活していくだけでも大変な状況に追い込まれた。健一郎さんがこう語る。

「あんな優しいおやじが事件を起こすはずがないと家族は皆信じていました。でも家の前を通りかかった人がこちらを指さしているのを見て、ああまたおやじのことを話しているんだなと思うことはたびたびでした。子ども心にもそういうことはわかりましたよ」

 ただ近所の人たちは、竹内家を気遣ってくれたという。

「おはぎを作ったから食べてくれとか近所の人たちはよくしてくれました。なかには学校にまで食べ物を持ってきてくれる人もいました。当時、生活保護は受けていましたが、それだけではとても生活できないので、新聞配達や牛乳配達、リヤカーの後押しなど、いろいろなアルバイトをしました。おやじに対する支援でおふくろも大変でしたが、おやじの裁判がどうなっているかについては、私は新聞配達をしていたために新聞で見て知っていました」

 健一郎さんは中学卒業後、働きに出るのだが、映写技師やトラック運転手など仕事を転々とする。

「大きな会社に就職する時は履歴書におやじの名前を書いて提出するから、たぶんそれで落とされた会社もあったと思います」

再審請求に提出した「新証拠」とは… 

 今回の再審請求で、弁護団はどういう新証拠を提出したのか。

 まず第一の大きなポイントは曽根悟・東大名誉教授の鑑定書だ。高見澤さんがこう説明する。

「曽根教授は交通工学の第一人者で、電気関係が専門です。その先生が暴走した電車のパンタグラフについて明確な鑑定をしてくれました。

 実は、三鷹事件が起きた時、構内の合図所という高いところから状況を見ていた人が『暴走して行く時に、目の前でスパークが続けて二度した』と法廷で証言しています。そのことからも、2つの車両のパンタグラフが上がっていたことは間違いないのですが、確定判決では先頭車のパンタグラフしか上がっていなくて、2つ目の車両のパンタグラフは衝突したときに何かに引っかかって上がったのだということになっているのです。

 これは目撃証言を無視しており、おかしいなと思ったのです。2つ目のパンタグラフを上げるのには、犯行に関わった者がもう一人いないといけない。2つ目のパンタグラフが上がっていたことを物理的に、電気的に証明できれば、この確定判決はひっくり返せるのではないかと思いました。正確に申し上げるとパンタグラフでも一斉に上げるのだったら前の運転席でもできる。ところが後ろの方にもパンタグラフがあるのですが、それは上がっていない。確定判決の通りだとすると2つのパンタグラフを先頭車の運転席での操作だけでは上げることはできない。2つのパンダグラフが走行中に上がっていたことを、曽根先生は現場検証の際に撮られた写真を解析し、さらに独自の検証データを照合して鑑定したのです。

 その鑑定に対して検察側は、あくまでもパンタグラフは1つしか上がっておらず、もう1つは衝突の時に上がったものだと反論を行いました。それに対して私たちもさらに反論し、衝突後の変形の仕方から、パンタグラフは確実に衝突前に上がっていたという主張を行いました」

 それと関連して第2に、前照灯と手ブレーキに関する証拠だ。

「暴走した後ろの車両の前照灯が煌々と付いていた。これも、停止させた時に前照灯をつけたまま、パンダグラフを下げたということであれば別ですが、後ろの前照灯を付けるのには最後尾の車両の運転席に行ってスイッチを入れなければならないことがわかりました。これらは、いずれも竹内死刑囚が単独で行ったという確定判決と矛盾するわけです。

 そもそも裁判の時に、前照灯は消しておいたはずだという証言はなされていたのですが、検察がそうでないと言うものだから、私たちも当時の規定がどうなっていたかなど、いろいろな資料を集めて提出しました。前照灯を消して手ブレーキがかかっていたはずだというのが私たちの主張です」

 以上の争点は裁判の時にも言及はされていたが、今回の再審にあたって新たな鑑定書が提出された。三鷹事件は、物証が少なく主に自白によって有罪とされてしまったのが特徴だが、その自白も二転三転していた。そしてそれを補強するものとして検察側が提出していたのが目撃証言だった。これについても再審弁護団はいろいろな鑑定書を提出している。

検察の証拠開示でわかったことも

「確定判決では目撃証人がいたことになっています。事件当時、竹内さんが正門のところを家の方に歩いていくのを見たという、これが自白以外で唯一の補強証拠なのです。ただし、目撃者は5メートル離れて竹内景助さんとわかったと言っているのですが、天文台に弁護士照会をしたところ、事件当時、まだ月は出ていなかったことがわかりました。目撃者の法廷での証言もしどろもどろで、同人は知人に『警察にそういうように言わされた』と語っている。再審請求にあたっては、その天文台の『22時04分まで月は出ていなかった』という回答書と知人の聴取書も新証拠として提出しました。

 さらに心理学が専門の日大の厳島行雄教授に依頼して、実際に学生を使って当時と同じ状況で竹内景助さんを認識できたのかという実験をやってもらいました。実験では目撃証言のような状況で竹内さんを認識するのは不可能ではないかという結論が出ています。

 しかも街灯の明るさが100ワットとされていたのですが、開示された証拠によって実は60ワットだったことがわかりました。検察はそれを隠していたわけで、そのことも私たちは昨年12月27日に提出した最終意見書で指摘しました」

 この再審請求の過程でも、検察側が持っていた新たな証拠が幾つも開示されたのだが、例えばそれによって新たな事実がわかったのは、竹内景助さんのアリバイに関する事柄だった。もともと竹内さんが存命中に起こした第1次再審請求では、事件当時、竹内さんは寮の風呂に入っており、衝突によって停電が起き、そこにいたのが誰だったかなど同僚たちの証言が新証拠として提出されていた。しかし、今回の再審で開示された証拠によって、状況は異なることがわかった。

「新たに開示された資料によると、衝突の起きた夜の9時23分に電気がついたり消えたりしたんです。そして9時58分に今度は長い停電があった。竹内さんは最初の再審請求の時に、その停電の時に風呂に入っていて多くの同僚が見ていたとしてアリバイを主張したのです。ところが実はそれは後者の停電の時の話で、最初の衝突の時には彼は自宅にいたらしい。それは政さんが第1審の法廷で、衝突の時に夫は家にいて布団に入っていた、その後電気がついたので風呂に行ったと証言していたのです。それが正しかったのですね。だから私たちはその供述調書があるはずだと何度も検察側に要求しました。その結果、政さんと景助さんの初期供述調書が開示されたのです。

 衝突時に自宅にいたという調書をどう扱うか、それまで主張していた風呂のアリバイの話を変更するのか、弁護団でも大きな議論になりました。でも、初期供述でそう言っていたということは、竹内夫妻が口裏合わせなどやっていなかったということだから、真実性が高いことの証明ではないかと私などは主張しました。結果的に、第1次再審で主張された風呂場でのアリバイの話は変更したのです」

不幸な偶然も重なった 

 そのほか、後になって考えると、自白通りの方法での犯行は不可能であることを立証できる箇所はいろいろあったと思われるのだが、裁判では弁護側によってそういう主張はほとんどなされていない。当時は竹内さんが厳しい取り調べによって「自分がやった」と供述してしまっていたため、無罪ではないかという前提での検証がなされていなかった。

 無実の竹内景助さんの冤罪が今日まで晴らされないままだったのは、不幸な偶然も重なっている、と高見澤さんは語る。

「1955年に竹内さんの上告が棄却され死刑が確定してしまうんですが、実はその時はまだ松川事件が審理中で、その後被告全員が無罪となる判決が出たのです。恐らく竹内さんの裁判が続いていたら松川事件の判決が影響したはずだと思うのです。弁護団長だった布施辰治弁護士が最高裁の途中で亡くなってしまったのも不幸でしたね。

 そしてそもそも竹内さん自身が第1次再審の過程で亡くなってしまう。彼は面会に行った妻の政さんに『悔しいよ』と言って亡くなっているのですが、本当に無念だったと思います」

 悲惨な事件から今年でちょうど70年。今回の棄却決定によって真相解明はまたしばらく遠のくことになった。この再審は、ある意味では戦後の歴史を見直し、新しい問題を提起することにもつながる。重たい判断が迫られる事件なのだ。

 再審請求がなされた直後の2011年に高見澤さんにインタビューした記事を『創』は2012年1月号に掲載しているのだが、その中でこう述べられていた。

「事件の起きた1949年は、中国では共産党政府ができ、朝鮮戦争はいつ勃発するかわからないという状況ですから、日本を占領していた連合軍としては国鉄がストライキで止まるようなことがあっては全体の作戦行動に影響する。労働組合がストライキを起こすなどして、そういうことが絶対に起こらないようにと考えていたことは間違いありません。ところが、その年の総選挙で共産党が4議席から35議席に大躍進しており、日本政府も共産党を何とか非合法化して、押さえ込みたいという意図があったと思います。

 それが端的に現れているのが事件翌日7月16日の朝刊に載った吉田茂首相の声明文です。待ってましたとばかりに事件の背後に共産党や労働組合がいるように匂わせたすごい内容の文章です。

 この事件が謀略事件であることは間違いないのですが、そのあたりの真相については、今でも闇に葬られたままです。再審ではそういうことは論点にはなりませんが、再審請求書では背景として簡単に触れました。

 例えば、事件当時、共産党が暴走事故を起こすというような、共産党の秘密指令のような形をとった怪文書、怪情報が出回っており、それも裁判所に証拠として提出されています。

 それから警察内部では、事件直前に三鷹駅で事故が起きるという電話連絡が来ています。さらに、事故の直前に三鷹駅脇にジープが止まっていたとか、事故直後にMPが来て見物人を追い出し、日本側の捜査に待ったをかけたとか、証拠がありますので、そういうことも再審請求書に書いておきました。

 そうした状況からしても、竹内景助さんが思いつきで、単独でできるような犯罪ではない。組織的な何かが動いて、この事件は起こったんだということを知ってもらう必要があると思ったのです。下山、三鷹、松川と三大謀略事件とよく言われるのですが、冤罪であることを明らかにするためには、そうした社会状況や時代背景を、裁判所も正確に理解する必要があるだろうと思います」

 竹内健一郎さんも弁護団も、今回の決定にめげずに闘いを続けることは明らかだ。真実が1日も早く明らかになってほしいと強く思う。

 なおこの再審をめぐる資料などは「三鷹事件再審を支援する会」のホームページに公開されている。

関心ある方はご覧いただきたい。

http://www.maroon.dti.ne.jp/mitaka-saishin/

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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