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相模原障害者殺傷事件・植松聖被告に接見していて最近気になること

篠田博之月刊『創』編集長
植松聖被告が描いた観音像のイラスト(筆者撮影)

 相模原障害者殺傷事件の植松聖被告にほぼ毎月接見するようになって間もなく2年になる。主張していることは変わらないのだが、半年ほど前から植松被告の変化で気になっていることがあるので書いておきたい。

 5月の連休明けに届いた最近の手紙には「裁判は1月8日の11時に決まりました」と書いてあった。公判日程が2020年1月8日から3月までと決まったことは、この4月からマスコミで一斉に報じられている。4月上旬より裁判での被害者参加制度を利用するかなど被害関係者への説明が始まったことで、マスコミ各社が一斉に知るところとなったのだ。

 秋葉原事件の加藤智大死刑囚の公判では被害者の特別傍聴席が設けられ、加藤死刑囚は入退廷時に毎回、そこへ向かって謝罪のお辞儀をしていた。相模原事件でも特別傍聴席が設けられるだろうが、大きく異なるのは19人の犠牲者遺族がいまだに実名を公表しておらず、その席には座らないと思われることだ。但し傷害を負った被害者の家族は実名で発言している人もおり、既に傍聴を希望している人もいるようだ。

 障害者への差別という深刻な問題を抱えたこの事件は、証人出廷をどうするかなど、裁判のあり方にも様々な問題が大きく影を落とすことになる。

 月刊『創』(つくる)に掲載しているが、植松被告はこの間、獄中で描いたイラストや書画、小説などを頻繁に送ってきている。記事の冒頭に掲載した観音像もそのひとつだし、記事中に掲げたやかんの素描など、獄中で彼がイラストの技術力をかなりあげていることを窺わせる(ちなみに母親はプロの漫画家だ)。初期の段階で彼が描いたイラストは、『創』の記事をまとめた書籍『開けられたパンドラの箱』に載っているので比べてほしい。

植松被告が獄中で描いた素描(筆者撮影)
植松被告が獄中で描いた素描(筆者撮影)

 さて、植松被告と接見していて気になったことというのは、それとも関係がある。彼の関心が最初に接見した頃と違ってきている印象を受けるのだ。

裁判では「訊かれたことに答えるだけ」

 例えば3月20日に接見した時にこういうやりとりがあった。

筆者 裁判では被告人質問や君が証言する機会があるけれど、どういう主張をするかは考えているの?

植松被告 特に考えていません。

筆者 でも君にとっては、いつも言っていることを社会に向けて訴える機会でしょ。

植松被告 訊かれたことに答えるだけです。

筆者 え、そうなの?

植松被告 はい。

 2年前、接見を始めた頃の植松被告との変わりように驚いた。2017年夏頃は、彼は接見でも事件の動機となった自分の主張を語り、その主張をマスコミ各社へたくさんの手紙を書いてはせっせと訴えていた。「君の主張を書き送っても、新聞・テレビはその内容を報道しないから無駄だよ」と言っても、植松被告はあきらめずに何度も新聞・テレビに自分の訴えを書き送っていた。

 また接見で私が、彼の成育環境などについて訊こうとすると、「そんなことはどうでもいい。とにかく時間がないんです」と焦ったように口にしていた。

 当時、「時間がないんです」と植松被告は何度も口にしていた。自分の主張を実践したのがあの津久井やまゆり園での凄惨な犯行だったわけだが、事件後も、残された限られた時間を、その主張を訴えるために使いたいと考えていたのだった。

 その前のめりの態度が、拘置所で1年2年と過ごすうちにだんだん希薄になっているように思えるのである。話し方も当初の雰囲気と変わってきたし、声も小さくなってきているように思える。

 いったい彼の内面に何が起きているのか。何かが影響を及ぼしているとすれば、それは何なのか。

 考えられることは2つある。

 ひとつは植松被告も拘置所でいろいろな人と会って議論を重ねており、少しずつ自分の考えを客観的に見られるようになってきたのではないかということだ。

 世間から見ると意外に思えるかもしれないが、実は相当いろいろな人が接見に訪れている。例えば障害者支援運動を続けてきたような人にも会っているし、『創』でも経緯を紹介した最首(さいしゅ)悟さんのような障害者の家族とも会っている。さらに言えば、19人の犠牲者家族で接見に何度も訪れている人もいる。

 恐らく植松被告の人生の中で、それまではなかったほどの「立場や意見の違う人」との議論をこの間、やってきているのだ。それによっていろいろなことを考えさせられたと本人も言っている。ただ事件を起こした自分の基本的な考えは変えていない。

執行を待つ死刑囚の内面について思うこと

 私がこれまで関わった死刑囚で言うと、2008年の土浦無差別殺傷事件の金川真大死刑囚(既に執行)が似たような状況だった。彼も拘置所で多くの人に会って、いろいろな議論を重ねていた。まだ20代だったが、それまで引きこもりで思いつめ、自殺にも踏み切れず、殺人を犯せば死刑になるからという短絡的な動機で無差別殺傷事件を起こしたのだった。 

 しかし、もともと哲学書を読んだり、自分の人生について考察しようという姿勢を持っている青年で、拘置所でもいろいろな人と会って議論していた。私は、もし彼が事件を起こす前にそんなふうにいろいろな人との議論を重ねていれば凄惨な事件を起こさずにすんだのではないかと今でも思っている。

 ただそんなふうに議論を重ねながらも、金川死刑囚は、自分の信念を変えようとしなかった。死ぬために無差別殺人を犯した彼にとっては、自分の考えを撤回することは、自分の行ったことが無意味だったということになるわけだ。覚悟して事件を起こした以上、他人の意見は聞くが受け入れることはできなかった。

 あるいは冒頭に秋葉原事件の加藤智大死刑囚に触れたが、加藤死刑囚の場合は、法廷で自分のやったことは間違っていたとして謝罪を行った。そして死刑判決を受け入れたのだが、その結果どうなったかというと、2審以降、法廷に出廷しなくなってしまった。罪を認めて死刑を受け入れるという気持ちになった時点で、法廷で何かを述べる意味も、社会に向かって何かを言う意味もなくなってしまったのかもしれない。彼はマスコミの取材も第三者の接見依頼もいっさい拒否し、ただ死刑執行を待っているという状態だ(死刑囚表現展には毎年、作品を出品して発表を行っているが)。

 凶悪事件を犯した被告とて、自分の犯したことを含めていろいろなことを考える。ただ、例えば社会に復讐しようと有名小学校の児童を無差別殺傷した池田小事件の宅間守死刑囚(既に執行)などは、一刻も早く死刑が執行されることを望んでいた。彼の魂を救い、死ぬ前に謝罪をさせようと獄中結婚にまで踏み切ったクリスチャンの女性がいて、宅間死刑囚もその女性には心を動かされたように思えるのだが、事件を決行した自分の思いは決して撤回しようとはしなかった。

 宅間死刑囚は、死刑が確定した後も、ガソリンを使えばもっと多くの子どもを殺せたなどとうそぶき、人間がそこまで非人道的になれるものかと社会を戦慄させたのだが、彼は自分を鼓舞するという意味もあって敢えて偽悪的にふるまっていた面もあるのではないかという気もする(関係者もそう感じていた節もある)。つまり死ぬと決めて非人間的な犯行を敢えて行った以上、それを貫いて死んでいくしか自分の選択肢はないという判断が彼の頭の中にあったのではないかということだ。

 その時点でいまさら自分の行為は果たして正しかったのかどうかなどと悩みだすと、精神的に混乱を起こす恐れがあるからだろう。

 

 例えば連合赤軍事件の森恒夫元被告だ。彼は革命運動に命をかけていたのだが、同志殺しという過ちを犯し、逮捕された後に自分が誤っていたことを獄中で認め、自己批判する。その結果どうしたかというと、公判前に獄中で自殺したのだった。自分のやったことが全面的に間違っていたと認めれば、精神的な拠り所がなくなってしまい、独房で生き続ける意味さえなくなってしまうわけだ。

 土浦事件の金川死刑囚は、死刑を望みながらも、多くの人の面会を受けいれていた。でも恐らく自分のやったことは本当に正しかったのかなどと考え出すと自分が崩壊しかねないことに気づいていたように思う。1審の死刑判決で弁護士が控訴したのを自ら取り下げて、死刑を確定させてしまった。何度か接してみてわかったが、もともといろいろなことを考えていた、頭は悪くない青年だ。生育環境が違っていたら、凄惨な無差別殺傷など犯さなくてよかったと、今も思う。

植松被告の内面に何が起きつつあるのか

 さて話を戻す。そんなふうにいろいろな死刑囚と接してきたうえで、今、植松被告に接していて、この2年間で彼の内面にいったい何が起きているのか、その変わりようが気にならざるをえない。

 犯行は、誤ったものとはいえ自分なりの信念に基づいて行ったものだ。主観的には世直しのつもりでとんでもない事件を起こしたという点では、相模原事件はオウム事件に似た性格を持っている。

 そして植松被告は、この2年間、たぶんそれまでの人生になかったようないろいろな人との議論を行ってきた。そのことが、彼の精神にどんな心理的影響を与えているのだろうか。そもそも植松被告自身、それを自分の内面で整理できているのだろうか。

 植松被告は、自分が犯した犯行やそれを支えた自分の主観的信念については撤回しないだろう。ただ、その彼の主観的信念に関わる事柄については、いろいろなことを2年間、考えてきたように思えてならない。

 例えば優生思想ということで通底している「強制不妊」については、植松被告は「反対です」と明確に言っている。ナチスの優生思想についても「反対だ」と言っている。

 実は前述した3月20日の接見は、ニュージーランドで人種差別主義者による無差別殺傷事件があった直後だった。そういう事件があるたびに私は植松被告に意見を求め、議論してきたのだが、そのニュージーランドの事件について、かれは明確に反対を表明した。

 「同じ人間なのに、人種差別は良くないと思います」

 そう語ったのだ。

 強制不妊にせよ、人種差別による殺傷にせよ、世間の人から見れば、津久井やまゆり園で植松被告がやったことと通底しているじゃないか、と思うだろう。恐らく彼自身も、そのどこが違うのか、自分なりに心の中で整理をつけようとしているのだと思う。

 それが自分の考えを問い直す行為なら良いことではないかと思う人もいるかもしれない。しかし、問題はそう簡単ではないように思う。

 先に、考えられることが2つあると書いた。

 植松被告の変化を考えるうえでもうひとつ気になるのは、彼の置かれた物理的環境が拘禁反応につながらないかということだ。

 昨年、彼はふと接見時に「1日、誰とも口を聞かないことがあるんです」と不安げに漏らしたことがあった。長い独房生活で精神的に変調をきたす人は少なくないのだが、「君も気をつけたほうがいいよ」と本人にも何度かアドバイスしている。誰とも口を聞かず、単調な生活を続けることに、彼自身も不安を漏らすことがある。

 そのこととの関係で気になるのが、植松被告がこのところ、イラストや書画、さらには小説を書いたりという活動を増やしていることだ。自分の行った犯行の正当性を「時間がないんです」と、何かにとらわれたように語っていたころから見ると、何やら「現実」から抽象の世界に遠ざかっているような印象が拭えないのだ。

 2020年1月から始まる裁判では、当然ながら事件を解明することも大きな課題で、そのために被告人の証言は極めて重要だ。でも「訊かれたことに答えるだけですから」と彼が面会室で語った時に、私は何やら言い知れぬ不安にとらわれた。法廷で、彼は自分が事件を起こした時の考えをきちんと表明することができるのだろうかという懸念だ。

 例えば秋葉原事件の法廷で、加藤死刑囚は前述したように事件を起こしたことについては全面的に謝罪していたから、例えば検事から「逮捕直後の供述であなたは『復讐』という言葉を使っていましたね」と問われると、それを撤回してしまった。謝罪している遺族の前で、「復讐」などという表現は自分の気持ちにそぐわないというわけだ。

 検事は続けて、逮捕直後の彼の動機の供述を次々と紹介していったのだが、傍聴していて、逮捕直後の供述のほうが動機解明にはわかりやすいと思った。

 法廷で被害者や遺族に非難されて謝罪を繰りかえすことによって、犯行直後に語っていた「復讐」などという表現は撤回される。加藤死刑囚の語る犯行動機はむしろわかりにくくなってしまったような印象があるのだ。

 では、犯行直後に語った動機と、裁判を通じて謝罪し考え直した時点での動機と、いったいどちらが真実なのか。

 その問いの答えは、実はなかなか難しい。

 2020年1月から始まる裁判で、植松被告が自分の犯行についてどう語るのか。それが3年前の犯行時に彼が考えていたことと全く同じなのか。多くの人と議論し、いろいろなことを考えたことで何か上書きがなされることになるのか。

 そもそも相模原事件については、精神科医もいまだに病気の疑いも捨てきれないと言うように、裁判で果たして解明がきちんとなされるのか、もともと心許ない面もある。

 植松被告は、超高齢化した日本社会で、今のようなままの福祉政策で社会が破綻しないでやっていけるのかといった疑問を、接見した相手に語る。しかも、何度も説明を繰り返しているうちに、自説に具体的な数字が入ったり、補強されているようにも見える。ただ、根本的な問題として、その彼の主張と、ではあの大量殺傷という行為がどう結びつくのかと考えると、両者には大きな飛躍を感じざるをえないのだ。そこを明らかにしない限り、この事件は解明されたことにならないと思う。

相模原事件は裁判でどこまで解明されるのか

 最終的に法廷期日が決まっていく段階の一歩手前で、弁護団は植松被告の精神鑑定を改めて申し出て裁判所に却下されたらしい。彼の犯行は、刑事責任能力なしとならないのは明らかだが、では合理的に説明がつくかというと、そう単純ではない。弁護団としては法廷で心神耗弱の可能性を主張するのかもしれない。

 相模原事件については、二重三重に深刻な事件だと再三書いてきた。そのことがきちんと解明されないと、障害のある人たちの恐怖心はずっと残ったままになる。あの衝撃的な事件を、果たしてこの社会はどこまで解明でき、予防策を講じることができるのか。それは極めて重要なことだ。

 

 恐ろしいのは、何も社会的対策が講じられないままこの事件が風化していくことだ。あの事件は何だったのか、いろいろな場で議論を続けることが必要だ。

 ただちょっとほっとしたのは、2月に相模原事件をテーマにした演劇が上演され、私も上演後のトークに登壇したのだが、事件について関心を持っている大勢の人が集まってくれたことだ。公演は連日満席で、劇団始まって以来だと関係者が冗談めかして言っていた。

 マスコミはもうほとんど報道しなくなったけれど、相模原事件については、まだ多くの人が納得がいかないまま関心を持ち続けている。集会やシンポジウムもまだあちこちで開かれている。

 新宿のロフトプラスワンでも機会を見て、相模原事件について議論する会を行おうという声もある。

 事件についての植松被告の主張や、被害者家族や精神科医などの見方については、ぜひ『開けられたパンドラの箱』(創出版)を読んでいただきたいと思う。

http://www.tsukuru.co.jp/books/2018/07/post-37.html

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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