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平成の終りに改めて報じられる宮崎勤元死刑囚から私に届いた300通以上の手紙

篠田博之月刊『創』編集長
幼少期の宮崎勤死刑囚(「夢のなか、いまも」より)

 このところ「平成を振り返る」という特集に新聞・テレビが取り組んでいるが、その中で埼玉連続幼女殺害事件の宮崎勤死刑囚(既に執行)について触れるものが結構あって、私のところにもいろいろな取材が入っている。12月28日には日本テレビが特番を組み、その中で宮崎事件についてドラマ仕立てで大きく取り上げていた。

 ちょうど1年前、フジテレビが特番で宮崎事件を大きく取り上げ反響を呼んだが、それと同じ、逮捕後の宮崎死刑囚の取り調べ時の音声テープが使われていた。テレビで肉声を報じるというのは迫力があるからだろう。

 私のところにも局から依頼があって、熱心に言われたのは、この記事の冒頭に掲げた宮崎死刑囚の幼少時の写真を使わせてほしいということだった。この写真は、宮崎の2冊目の著書『夢のなか、いまも』に掲載したものだが、私は本から撮ったことがわかるような使い方なら良いが、写真そのものを独自入手したかのような使用はお断りした。

 この写真は実に貴重なもので、著書を刊行する際に、宮崎本人から掲載してほしいと送ってきたものだ。宮崎は幼女を誘拐して山の中へ連れていく時、その幼女との関わりを「懐かしい甘い世界」と表現していた。宮崎はいつもその「懐かしい甘い世界」である「自分が自分であった子どもの頃」に戻りたいと言っていたのだが、その「自分が自分であった」幼少期の象徴として、この写真を大事に保管していた。幼女連続殺害犯という彼の世間一般からのイメージとはかけ離れた、屈託のない笑顔の宮崎だった。

 「懐かしい甘い世界」とは、宮崎の事件全体を考えるうえでのひとつのキーワードなのだが、その世界を表しているのが、この写真なのであった。ただ私は、写真自体は彼の母親に返却したし、著作権などの問題が微妙なので、写真そのものを画面で使うことを断ったのだった。

 

 そして放送から1日たった29日、昨年10月10日に私がヤフーニュース個人に書いた記事へのアクセスが急増していた。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20171010-00076765/

フジテレビの放送で反響を呼んだ宮崎勤死刑囚が処刑直前に送ってきた手紙

 その中でも、宮崎の自筆のイラストを紹介したのだが、私の手元には、そうしたイラストなどまだ未公開のものがたくさんある。12年間、宮崎本人と毎月数通にのぼる手紙のやりとりをしていたし、彼はイラストなどを頻繁に送ってきていた。その中で、犯行現場に現れたと彼が言う「ネズミ人間」や、事件を解く重要な存在である「おじいさん」などのイラストは彼の著書『夢のなか』『夢のなか、いまも』に掲載した。

 この事件は、私はまだ真相が十分解明されたとは言い難いと思っていて、それを継続して考えていくのは、自分の責務だと考えている。そして1年前のヤフーニュースの記事でこう書いた。

《宮崎勤をネットで検索すると、いろいろな記述が出てくるのだが、本人に肉薄したものがほとんどない。宮崎事件の頃までは、いまほどネットが普及していなかったため、私も彼とのやりとりをネットにほとんどアップしていない。でも、後世の人は、宮崎について調べようと思えばまずネットを検索するに違いない。だから今後、私も少しずつネットに宮崎についての情報をあげていこうと思っている。彼とかわした情報はまだほんの一部しか公開していないし、宮崎事件というのは世間で思われているほど単純ではないと私は考えている。》

 この1~2年、私は、相模原障害者殺傷事件の植松聖被告と関わり、その深刻な事件の解明に力を注いできた。それもあって今思い返してみると、宮崎事件についての情報を少しずつ整理して公開していこうという1年前の思いが一歩も進んでいないことに気が付いた。

宮崎勤死刑囚から届いた手紙の一部(筆者撮影)
宮崎勤死刑囚から届いた手紙の一部(筆者撮影)

 宮崎事件は、実は「平成の幕開け」という当時の状況と密接につながっている。例えば、彼は1989年2月に被害幼女の自宅に遺骨を送り、犯行声明文を新聞社などに送ることで、事件の様相は「劇場型」と称されるものに一変するのだが、なぜ彼が、わざわざ足がつくようなことをその時期に行ったかについては、ほとんど知られていない。

 宮崎は実は鑑定の中でその動機に言及しているのだが、その年の昭和天皇の逝去報道をテレビで見て、幼女にも葬式をしてあげるべきだと考えたというのだ。彼はテレビで見た昭和天皇と、前年に突然亡くなったおじいさんを重ね合わせていた。だから宮崎事件と、1989年の天皇の代替わりとは大きく関わっていたのだった。当時、それについて報道が全くなかったのは、天皇がタブーだった当時の風潮をマスコミが忖度したためだろう。

 宮崎事件とは何だったのかについては、私は『増補版ドキュメント死刑囚』を始め、これまでいろいろな場で意見を述べてきた。今回も改めて、『創』に書き、著書『生涯編集者』に1章をさいた記述をヤフーニュース雑誌に公開した。少し長い記事だが、事件についてのまとまった記述なので興味ある方はぜひ読んでいただきたいと思う。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181229-00010000-tsukuru-soci

12年間つきあった連続幼女殺害・宮崎勤が処刑された日

 ただ、それらの記事や宮崎の2冊の著書で明らかにしてきたことは、まだ全体の一部に過ぎない。

 例えば彼の2冊目の著書『夢のなか、いまも』を作ったのは、ちょうど2006年、彼の死刑判決が確定した時期だった。当時、彼が死刑判決よりも気にしていたのは、その本のことだった。自分の幼少期の写真を掲載してほしいと要望したり、本に自分の描いたイラストをカラーで載せてほしいなどと、彼はこだわっていた。

 そのカラーのイラストとは、ここに掲げた写真だが、実はこういうイラストはもっとたくさんあって、彼はその一つ一つに解説をつけていた。もちろん解説は意味不明の内容だ。

宮崎勤本人が描いたイラスト(『夢のなか、いまも』より)
宮崎勤本人が描いたイラスト(『夢のなか、いまも』より)

 さらに宮崎は、幾何学的な模様を描いたものを大量に送ってきたりしたのだが、その1枚1枚に説明がついていた。幾何学的模様というのは、精神科医の見立てによれば統合失調症と関係があるらしいのだが、そうした大量のイラストや、300通を超える宮崎からの手紙を、私は事件の解明に少しでも寄与するために何らかの形で公開したいと思っている。

 昨年のフジテレビの特番もそうだったし、今回もそう思われるのだが、一定世代以上の人にとっては、宮崎事件は忘れられない衝撃的な事件だった。平成の幕開けに日本中を震撼させたこの事件について、平成の終わりに改めて考える気運が起こるとすれば、それも貴重な機会だと思う。今後、少しずつでも時間を見つけて、この事件についての貴重な記録をネットにあげていきたいと考えている。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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